にいさんはねこ!



■借りてきたねこ

 「甘栗甘」を後にしたおれは兄さんを連れ、なんとかうちはの集落に無事戻った。しかし、見慣れた我が家の佇まいを前に、おれはきっと僅かに気を緩めてしまったのだろう。
「ただいま」
 と日頃の習慣通り家の内に声を掛け、からりと玄関の引き戸を開いてしまった。しまったと気付いたときにはもう遅い。夕食の仕度途中だったらしい母さんがエプロンで手を拭きながらおれたちを迎えに奥から出てきた。
「おかえりなさい。あら、イタチも一緒だったの」
「あ、ああ…」
 ここで兄さんが「にゃあ」と一言でも鳴けば一巻の終わりだ。おれが背に冷や汗をかいていると、しかし母さんは鍋の火加減でも気になるのか「ちょうどいいから二人でお風呂に入っちゃいなさい」とだけ残し、早々に台所へと踵を返して去って行ってしまった。
 はあと緊張から解放された溜息をひとつ吐く。
「風呂か…」
 猫になってしまった兄さんを早く元に戻したいと気は急くが、風呂に入らず後から何故だどうしてだと母さんにいろいろ詮索されるのも面倒だ。おれは兄さんを上り框に座らせ、そのサンダルを脱がしてやりながら言った。
「兄さん、まずは風呂だ」
「に?」
「に、じゃーねーよ」
 いったいこんな遣り取りをあと何度繰り返せば兄さんは元の兄さんに戻ってくれるのだろう。
 おれは兄さんの手を引き、風呂場へと向かった。だが、はじめの内は素直におれに手を引かれていた兄さんは脱衣場の戸を開いた途端、漂う湯の香りに「にー!」と嫌がり始めた。そうか。確か猫は水を好まなかった。しかし、兄さんは先程の任務の最中ずっと木の梢でごろごろと寝転んでいた。このまま風呂に入らず、朝みたくおれのベッドでうにゃうにゃと寛がれるのは御免だ。
 にゃあにゃあと鳴く兄さんをおれは無理矢理脱衣場に引っ張り込んで、ぴしゃりと扉を閉めた。
「兄さん」
「にゃあ…」
 心なしかこちらを警戒している様子の兄さんにきっぱりと言い切ってやる。
「風呂に入らねーなら、おれのベッドにも入れてやらねーからな」
「にゃ…」
 一瞬の逡巡の後、兄さんは深く「…にー」と唸って、やがて不承不承の態だったが、風呂に入ることを了承してくれたようだった。
 どっと疲れが押し寄せる。
「…ったく、さっさと入ろうぜ、兄さん」
 おれは今度は疲労の溜息を吐きながら、額宛を取り、忍具を仕込んだベストを脱いだ。上衣も脱いで脱衣籠に放り入れる。
 しかし、目の前の兄さんは上半身裸になったおれをしげしげと眺めるばかりで動かない。弟の裸を見てなにが楽しいのかと訝っていると、そうか猫の兄さんにはもしかしたら服という概念がないのかもしれないと思い至った。ということは、このままでは今日一日すっかり猫のつもりの兄さんは服を着たまま水浴びをしかねない。
「兄さん。服は脱ぐんだ。分かるか?服だよ、服」
 言って、兄さんの忍び装束の裾を引っ張ってみせる。が、兄さんは「甘栗甘」で匙を前にしたときのように「にー」と首を傾げてしまうばかりだ。なるほど、服を自らの体毛とでも思っているのだろう。それならばとおれは自らの下穿きの腰回りを少し引っ張り、下ろす仕草をして見せた。
「ほら、兄さん。こうやって脱ぐんだ。できるだろう?」
 すると、兄さんはふんふんと頷いた。そうして、おもむろにおれの下穿きに両手を掛ける。
「えっ…」
 と、おれが大いに戸惑い固まった瞬間、兄さんは容赦なくおれのズボンを下着ごと一気に膝の辺りまで引き下ろしてしまった。
「ぎゃああっ」
 突如すーすーと涼やか且つ軽やかになる下半身にかっと頭に血が上る。と同時に、さっとも青褪めた。急いでズボンを引き上げようとしても、兄さんがむんずと掴んで離さない。
「離せ…!このくそ兄貴!」
「にゃあ?」
「にゃあじゃねーよ!おれを脱がしてどうする!自分のを脱ぐんだ!」
「にゃー」
 兄さんに中途半端に下穿きを脱がされ、アレを放り出したままぎゃあぎゃあと騒ぐおれと、おれのズボンをずらしたままにゃあにゃあと鳴く兄さん。それがどう台所にいる母さんに聞こえたかは知れないが、 
「アナタたち!早くお風呂に入りなさいって言ってるでしょう!」
 台所から落ちてきた特大の雷におれと兄さんは借りてきた猫のようにしゅんと大人しくなった。


■ねこの恩返し

「くそ…母さんに叱られたのはアンタのせいだぞ」  
 熱い湯船からもうもうと湯けむりが立ち込める浴室で、どうにか自ら服を脱いでくれた兄さんを風呂場の椅子に座らせ、おれは桶に張った湯で手拭いを濡らし、石鹸を泡立てた。どうせ自分で洗えと言ったところで、前足のつもりの腕で顔を拭うのが関の山だろうから、おれが兄さんの体や髪を洗ってやるしかない。
 あんなにも風呂を嫌がったから、体を洗われるのもさぞ拒むだろうと覚悟をしたが、その背を流してやれば毛並みを撫でられているとでも思ったのか、兄さんはご機嫌に喉をごろごろと鳴らした。
「いい御身分だなあ、オイ」
「にゃあ」
「にゃあじゃなくて、いい加減そろそろ人の言葉を喋ってくれよな」
 せっかくおれを心配してくれていた兄さんの気持ちは分かっても、今の猫になってしまった兄さんの思いはよく分からない。
 体を洗い終え、今度はシャンプーでその長い髪を洗ってやる。
 そういえば昔はよく兄さんがおれを風呂に入れ、こうして髪を洗ってくれていたっけ。そう思い出せば、今は懐かしさよりも寂しさが胸の中に膨らんだ。
「…流すぜ。水がいやなら目でも瞑っていろ」
 膝立ちになり、湯船から桶に湯を汲み直す。そして、やや乱暴に兄さんの体と髪の泡を洗い流すと、兄さんはおれの手荒さに若干の不服もあったようだが、にぃにぃと煩く鳴くことはなかった。
 これで昼間の砂埃もすっかり落ちただろう。おれは一旦桶の残り湯で手拭いを洗いながら、やはり水は好まないのか顔に付いた湯の飛沫を拭っている兄さんを見上げた。
「猫は熱い湯が苦手なんだろう?べつに先に上がってくれてもいいぜ」
 と言ってから、だが、待てよと思い直す。今の兄さんは一人で服を着られないかもしれない。やはりおれも一度一緒に上がって、などと考えていた、その時だった。
「にゃー」
 兄さんが体ごと振り返る。じっと見下ろされ、おれは手を止めた。近い。兄さんの肌の温かさがじんわりと伝わってくるような近さだ。
「な…なんだよ?」
「にゃおん」
 内心動揺するおれに兄さんが猫のように目を細めて微笑み、顔をずいと寄せてくる。
 おれはどぎまぎして思わず後退った。だが、狭い風呂場だ。すぐに背はぴたりと冷たいタイルにくっついてしまう。これ以上おれに逃げ場がない。
 石鹸とシャンプー、それから遠い赤ん坊の頃からの記憶にも刻み込まれている兄さんのにおいが、おれの鼻孔と胸をやさしく擽り、満たしていく。くらりとした。頭もぼうとする。風呂にも浸かっていないのに、おれは上せでもしてしまったのだろうか。
 おれは兄さんを恐る恐る見上げた。すると、細身でありながら忍として鍛えられ引き締まった胸板やしなやかな肉体、濡れて肌に吸い付く艶やかな黒の長い髪が思う以上にすぐそばにある。そして、うちはの高みを宿したその切れ長の眸は瞬くことなくおれだけをひたと捉え、映していた。そうだ。おれは赤ん坊の頃からこのにおいに抱かれ、この眸に見守られてきたのだ。
「兄さん…」
 喉と唇がひどく渇いた。兄さんの髪を伝った湯の滴がおれの膝頭に弾け、次には肩に滴る。
 あっと思う間もなく、肌が触れ合った。抱きすくめられたように兄さんの重みが感じられる。そして、兄さんの舌がそろりとおれの首筋に充てられた。それは覚えのある、兄さんお得意の毛繕いの感覚だった。
「あ…ちょ…っ!やめ…!」
 息を呑み、咄嗟に兄さんの胸板に手を付く。だが、
「にゃん」
「ぬぁんっ…!」
 抵抗空しく、またもぺろりと舐められ、おれの腰からへなへなと力が抜けた。
 きっと猫の兄さんはおれに体や髪を洗ってもらった礼のつもりなのだろうが、裸でこれはだめだ。本当にだめだ。
 けれど、何よりまずいのは兄さんの胸板に突っ張ったおれの拒む手にあまり力が入らなかったことだ。
 久々に風呂で上せたおれは、脱衣場でもおれの身を案じた兄さんにまたぺろぺろと顔を舐められたのだった。


<つづく>