にいさんはねこ!
■サスケのきもち
あれこれあった風呂の後、家の蔵や兄さんの部屋を探したが、結果として兄さんを元に戻すような解の術が書かれた巻物の類いはなかった。
それならばと昨日の夕方おれが出会った黒猫の姿を探したが、それももう何処にもいなくなっていた。
収穫が何もないまま、母さんには「明日までに兄さんと見つけた新しい巻物を解読するんだ」とか何とか誤魔化して、夕飯はおれの部屋で「甘栗甘」のときのように兄さんに食わせてやった。両親に兄さんが犬食いする姿を見せるのは忍びない。
母さんは「昨日は喧嘩していたと思ったら、今日は仲良しね」と笑ったが、いつまでもこんなことを続けることはできない。いずれはばれてしまうだろう。
明日は空区の猫バアのところへ行ってみるか。
おれのベッドで自らの寝床を整え始める兄さんを眺めながら、おれはぼんやりと思考を巡らせた。
猫バアのところなら、あの怪しげな黒猫について何か分かるかもしれない。あわよくば兄さんに掛かってしまった術の手掛かりも掴めるかもしれない。
そうと決まれば、明日は早々に里を発とう。おれもベッドに上がり、タオルケットでごろごろしている兄さんの体をぐいぐい押す。
「兄さん、もっと端っこに寄ってくれ」
「にゃあ」
「にゃあじゃねーだろ。ここはおれのベッドなんだぞ」
やれやれ。
おれは兄さんからベッドの半分をなんとか奪還し、灯りを消して兄さんに背を向けた。
朝の任務は大したものではなかったのに、こうも疲労をずっしりと感じるのは、全て兄さんのせいだ。早く空区へ行きたい。おれは明日に備えて、それに疲れもあってすぐに眠りに落ちていった。
しかし、夜半のこと、いつの間にか俯せになって寝ていたおれは背中には重みを、うなじには甘い痛みを感じて目を覚ました。
だが、昼間の疲れからか、なかなか覚醒には至らず、目は瞑ったまま「うう」と呻く。隣では兄さんが眠っていたはずだ。寝返りを打って、圧し掛かってきでもしたのだろうか。
それにしては、この首筋に感じる甘い痛みのような擽ったさはいったい何だろう。おれははたと目を開け、そして次の瞬間、自分が置かれた状況に驚愕した。
「ににににいさん…!?」
隣で寝ていた兄さんが案の定おれの体に圧し掛かり、信じられないことに、かぷかぷとおれのうなじに歯を立てている。
「なななななにしてやがるんだ、アンタ!」
驚き慌て、気が動転し、じたばたともがくが、昨夜のように兄さんはびくともしない。
ただ昨日の夜と違うのは、兄さんがおれのにおいをかいでいるのではなく、おれの首筋を甘噛みしているということだ。寝る前に読んでいた「ねこのきもち」を思い出し、おれは蒼褪めた。「ねこのきもち」によれば、交尾の際、オス猫はメス猫の首筋を軽く噛んでその動きを止めるという。
おれはメス猫じゃないが、兄さんは今はおとなのオス猫だ。発情期があったとしてもおかしくない。尻の辺りに感じる兄さんのそれはまだ何の兆しもないが、布越しにそいつを擦り付けられ、おれは口から心臓を吐き出しそうになった。
「ばか…!そんなもの、こすり付けるなッ!」
首をなんとか捻り、強く抗議をするものの、今度はちろちろと耳の裏を舐められ、おれは思わず「ひっ」と情けなくも声を上擦らせてしまう。
「あっ、ちょ…っ、ぅん…ン…」
体をゆるゆると前後に揺さぶられ、弱い耳の裏やうなじの辺りに兄さんの唇の熱を感じる度、なんだかおれまで妙な気持ちになってくる。
おれは「あっ」だとか「んっ」だとかいう声を必死に口の中で堪えながら、渾身の力で背に覆い被さる兄さんを振り払った。
「もうやめてよ、兄さん!」
すると、どちらかと言えばおれの大声にびっくりしたのか、兄さんの重みがふっと背中から離れた。その隙におれは這う這うの体でなんとかベッドの端まで逃げ延びる。
向かい合うと、兄さんは昼間「甘栗甘」で宇治金時のお預けを食らったときのような顔をしていた。おれは宇治金時でも団子でもねーぞ。
だが、今の兄さんはうちはイタチではなく、うちはイタチの姿をした猫だ。むらむらするのも、メス猫を求めるのも至極当然のことで、兄さんを責めたって仕方がない。それに、兄さんをこんな風にしたのはおれかもしれないのだ。
ベッドの上、少しの距離を開けて、兄さんはまた「待て」をされていると思っているのか、大人しくおれの言葉を待っている。しかし、たとえば女を買って抱かせてやるのは、「甘栗甘」で宇治金時や団子を食わせるのとはわけが違う。
何よりおれの気持ちが違う。
たとえ今はおれの兄さんでなくとも、猫であったとしても、兄さんに女なんか抱かせたくない。
あの背に感じる重みを、唇を、兄さんのにおいを、おれじゃない他の誰かが知るなんていやだった。
「兄さん…」
僅かの逡巡の後、おれは意を決し、兄さんを見つめた。
今おれが兄さんにできること、それは一つしかない。
「アンタがどうしても我慢できないって言うなら、…おれを抱かせてやってもいい」
掠れるほど揺れてしまったその声に兄さんがきょとんとする。
だが、おれは構うものかと続けた。
何故だかその時のおれには、猫の兄さんがまるでいつもの兄さんのように弟のおれを思って身を引くように思えてならなかったのだ。
兄さんが逃げないようにおれも猫のごとく両手をベッドに付いて、じりじりと兄さんににじり寄る。そして、兄さんの手に手を重ね、上から指をつと絡めた。
「…勘違いするなよ。おれはいやいや抱かれるわけじゃない。兄さんになら、おれは抱かれてもいいと思ったから、こんな恥ずかしいことを言っているんだ」
兄さん、とおれは兄さんに何度もされたように互いの頬を擦り寄せた。それから兄さんの首筋を恐る恐るかぷりと甘く噛んでみる。
顔を上げれば、兄さんは心底驚いたようにおれを見つめていた。
その兄さんを前におれは柄になくもごもごと俯く。
「ただ…その…おれ、こういうことは初めてだから、できるだけやさしくしてくれよな」
やがて兄さんは猫とは思えないほど優しくおれをベッドに押し倒し、シーツの上に縫い止めた。
■兄さんのきもち
ベッドの上、仰向けにされたおれは目を閉じ、兄さんを今か今かと待っていた。緊張で全身が汗ばむ。胸の中で心臓が痛いほど鼓動を打っていた。
怖いわけではない。むしろ、おれはいつからか兄さんとこうなることを…。
だが、互いの鼻先が触れ合うほど近くに兄さんの気配はあるというのに、いつまで経ってもその手も指も唇もおれには降ってはこなかった。その代わり与えられたのは、
「許せ、サスケ。少し遊びが過ぎた」
という兄さんの声だった。
弾かれたように目を開く。そこには体を離し、おれを見つめる兄さんの姿があった。
にわかには信じ難い事態にがばっと半身を起こし、思わず兄さんの腕に縋り付く。
「兄さん!術が解除されたのか!?」
しかし、兄さんはあっさりと首を横に振った。
「解除も何も、おれは最初から術に掛かってはいない」
「えっ」
千鳥を、いや麒麟を食らったような衝撃におれは絶句した。
思考が停止し、頭が真っ白になる。端から見ればおれはさぞかし間抜けな面をしていただろう。理解が現実に追い付かない。今の今まで兄さんは確かに完璧な猫だった!
混乱のまま、おれは兄さんにしどろもどろに問いかける。
「あの、兄さん…それは…どういう…」
「幻術に掛かっていたのはおれではなく、お前だったということさ」
雷鳴と共に散り果ててしまいそうな二度目の衝撃がおれの脳天を直撃する。おれは息も絶え絶えに呻いた。
「なん…だと…?」
「正確には今もまだ幻術の中だがな」
いやいやいや。
いやいやいやいや。
兄さんが告げる目の前の現実をおれの脳が必死に否定する。拒絶する。
だが、兄さんはこういうとき容赦がない。
「サスケ。人はみな思い込みの中で生きている。目の前の現実が幻かもしれない。そうは考えられないか」
その時、おれには閃くものがあった。
あの黒猫だ。あいつを膝に抱き上げたとき、その眸が夕焼け色に染まったように見えたのはおれの気のせいではなかったのだ。
「まさか、あの猫は」
「ちゃんと気付いたようだな」
いや、ここまできたら気付かない方がうすらとんかちだろうが。
ともかく、どうやらおれはあの時からずっと兄さんの、兄さんが猫になってしまったという幻術に囚われていたらしい。
がっくりと項垂れる。
しかし、分からない。こんなすっとんきょうな幻術におれをはめて兄さんはいったい何がしたかったのだろうか。
「それはお前が言っていた通りだ」
「おれの?」
怪訝に思い眉根を寄せると、兄さんは「ああ」と首肯して見せた。
「お前の任務を間近で見てみたかった。できれば、おれといる時とは違うお前のな」
きっかけはやはりあのおれとの諍いだったと言う。
兄さんは誇らしげに眩しげに、そしてどこか寂しげにおれを真っ直ぐに見据えた。
「おれはお前を誰よりも子ども扱いしていた。だが、お前はもう一人前の忍なんだな。おれがあれこれと煩く口出しする歳じゃないと今日思い知ったよ」
「兄さん…」
兄さんがおれを認めてくれた。それは嬉しい。
だが、同時にこのまま兄さんがおれから離れていってしまいそうで寂しくも思う。
おれもまた兄さんの眸を見つめた。
「…おれも今日一日アンタのことを誰よりも猫扱いし、信頼しなかった」
「それはまあそうだろうな」
「だが、そのおかげで今のおれはなぜ兄さんが口煩かったかを分かっているつもりだ」
だから、と今から言おうとしていることが恥ずかしくて、おれは兄さんから視線を外した。
「…だから、これからも心配させてやってもいいぜ」
どうやらおれは忍の腕とは別に、まだ兄さん離れができそうにない。
おれはまだ兄さんの眸に映る兄さんの弟でいたいんだ。
すると、一拍ほどを置いて、兄さんはふっと口許を緩めた。
「そうか。それならこれからもほどほどに心配させてもらうとするか」
兄さんの指先がいつものようにおれの額を小突く。
ただ猫のときとは違って、もう頬擦りをされることも、擽ったい毛繕いをされることもない。
「……」
おれは兄さんの指が触れた額を押さえながらしばし考え、切り出した。
「…なあ、兄さん」
「うん?」
「おれはまだアンタの幻術の中にいるのか」
「ああ。種明かしはしてしまったが、お前に掛かっているおれが猫だという幻術はまだ解除していない」
「そうか…」
ということは、おれが今いるここは現実ではないということか。
兄さんは今すぐに解こうかと言ってくれたが、おれは首を振った。
ここが幻術の中ならば。
おれはある思いを秘めて、兄さんを見上げた。
「兄さん。おれがさっきアンタに告げた思いは、幻術も現実もない。おれの真実だ」
「サスケ、お前」
兄さんが目を開く。おれは構わず兄さんへと身を乗り出した。
「兄さん、おれは兄さんになら本当に抱かれてもいいんだ」
■いろいろおわる
翌朝、おれは幻術から目を覚ました。
しかし、兄さんとのことは幻術の中でのできごとのはずなのに、どうにも体、特に腰と尻に鈍痛を感じて仕方がない。強力な幻術の後遺症のようなものだろうか。
体の気怠さになかなか起き上がれず、ベッドの中で寝返りを打つ。すると、隣にいた裸の兄さんと目が合った。そして、おれも素っ裸だった。
「……えっ」
言葉を失うおれに兄さんがしれっと告げる。
「言っただろう。おれの言葉や仕草が猫に見える幻術はお前には掛かっていると。だから、昨夜のできごとは紛れもないお前の現実だ。それにしても、ねこはお前の方だったな」
その後、木ノ葉の里では長く「うちはサスケは兄のイタチと「甘栗甘」で団子を食べさせ合ったり、手を繋いで任務に行ったりしている」という尾ひれの付いた事実が囁かれ、おれは頭を抱えてのたうち回り、父さんは泡を吹いて倒れた。
<おわり>