にいさんはねこ!



■明日になったが

 明けて翌朝はおれにとって身の毛もよだつ、阿鼻叫喚なできごとから始まった。
 くすぐったい。
 首許や頬、耳に感じる異変に、昨夜の不眠のせいか、おれはぐずぐずと夢現を彷徨いながら身を捩った。
「ン…んん…」
 だが、その異変はいつまで経ってもちっとも収まる気配がない。
 不快じゃないが、うざい。うざいというよりかは、こそばゆい。
 季節がら蚊だろうか。それとも最近伸びてしまった髪だろうか。
 ともかくおれはその異変を振り払おうと半ば夢の中、手を伸ばした。
 が、それが手のひらに触れた瞬間、おれは飛び起きた。いや、正しくは飛び起きることができなかった代わりに目をかっ開いた。
 瞠目し、揺れるおれの眸に飛び込んできたのは、昨夜おれのベッドに潜り込んできた兄のイタチがおれの体に圧し掛かる姿だった。それどころか何を考えているのか、おれの首筋や頬、耳の裏に鼻先を当てふんふんとにおいをかいでいる。
「ににににいさん…!?」
「にゃあ」
 まだそれ続けたのかよ!
 おれは腹の底から湧き上がる怒りに任せて、兄の体を押し返した。
「いい加減にしろ!朝からなに莫迦なことしてやがる!」
 だが、おれよりも身長が高く、忍として鍛え上げられた兄の体はびくともしない。あげく押さえ込まれ、まるで毛繕いでもするようにぺろぺろと首筋を舐められた。
「ぬぁあ…」
 ぞくぞくと妙な感覚が背筋を駆け抜ける。へなへなと全身から力が抜けた。しかし、兄さんは毛繕いをやめてくれない。
「や…ッ、ちょ、にいさんっ、やだっ、いやだって…!」
「にゃあ」
「うぅ…っン…!はぅ…っ」
 絶妙の舌遣いで耳の裏をぺろりと舐められて、思わず声が上擦る。
 だめだ。これはもう何かとてつもなくだめだ。
 おれは渾身の力で圧し掛かってくる兄さんの胸に手をついた。
「もうやめてよ、兄さん…!」
 すると兄さんは、「にゃ?」と小首を傾げた後、ようやくおれの首筋に埋めていた顔を上げてくれた。ただ体の上から退く気は更々ないらしく、今度はおれの腹の上にどっかり座って猫のように顔を洗う仕草をし始める。
 おれは半身を起こしながら、先程とは違う意味でいよいよ血の気が引いていくのを感じた。
「おい、兄さん…」
「にゃん?」
「まさか、アンタ…、本当に猫になっちまったのか!?」
 おれをからかうだけなら、ここまでせずともいいはずだ。
 不意に昨日、路地裏で出会った黒猫を思い出す。あの時、おれはついうっかり「兄さんもせめて猫のお前のようににゃあにゃあと煩いだけならよかったのにな」と言ってしまった。
 呪いなどナンセンスだ。だが、あの言葉をきっかけに兄さんに何らかの術、たとえば猫だと思い込ませるような幻術が遠隔に掛かってしまった可能性はある。
 だとすれば、おれのせいだ。
「ごめん、兄さん…」
 おれのせいで、兄さんはこんな気ままで毛繕いが好きな猫になってしまった。
 哀しさと後悔が波のように押し寄せる。喧嘩はしたが、兄さんはいつまでもおれの憧れの忍だ。その背をずっと追ってきたのだ。
 おれはなおも顔を洗う兄さんの肩口に顔を埋めた。
「兄さん」
「にゃ?」
「…おれが必ず解の術を探し当てるから。だから、元に戻ってくれよな、兄さん」
「にゃあ」
 兄さんは猫になってもおれが落ち込んでいることは分かるのか、慰めるようにおれの頬に自分の頬をこすり合わせてきた。
 今のおれにとっては、たったそれだけのことが嬉しい。猫になってしまった兄さんにも、ちゃんとうちはイタチの記憶が眠っているのだ。きっと何とかなる。してみせる。希望はある。
「兄さん…」
「にゃあ」
 しかし、だからって、
「にゃん」
「ぬぁんっ…!」
 そのおれへの毛繕いはやめてくれ!
 耳の裏が実はとても弱いことをおれは今日初めて兄さんに教えてもらった。


<つづく>