にいさんはねこ!
■はじまり
兄さんと喧嘩をした。
喧嘩といっても、明日の任務の仕度にあれこれと口を出してくる兄さんにげんなりし、おれがふいと家を出た、それだけのことだ。
十三のときから暗部の分隊長を務める兄さんにしてみれば、おれの拙いところばかりが目に付くのだろう。
だが、おれとてもう十六だ。一から十まで何もかもを気遣われるような歳でも、また実力でもないということを、あの兄は全く理解しようとしない。
夏の眩い陽もようやく赤く陰り始めた集落の細い路地を当てもなく歩く。外へ出てもよかったが、この時刻はうちはの集落の方が余程静かで心慰められた。
しかし、しばらくすると、おれの後方を一匹の猫がにゃあにゃあと鳴きながら付いて来るようになった。立ち止まって、振り返る。そいつは夕映えをする黒猫で、言葉を介さないことから、どうやら忍猫ではないらしかった。
とはいえ、うちはの集落で猫は珍しいものではない。元来うちはは猫と縁深く、空区からやって来る旅の猫もいるくらいだ。ほっそりと優美な肢体のその猫を見かけるのは初めてのことだったが、きっと流れの猫か何かだろうと、そいつの由来など気にも留めなかった。
ただ、にゃあにゃあと後を追ってくることが今は一人になりたいおれにとっては少々疎ましい。しっしっと追い払っても威嚇の気を発しても、どこ吹く風の猫は果たして野良としてやっていけているのだろうか。
「腹が減っているのか」
やがて根負けをしたのはおれの方だった。
路地を抜け、開けた道脇の石積みに腰掛ける。決して人当たりが良いとはいえないおれに臆することもなく傍らにまでやって来た猫は、またにゃあにゃあと鳴いた。
「悪いが、今は何も持っていない」
すると、また「にゃあ」と猫。
その後も話が通じているのかいないのか、おれが何を言っても猫はにゃあにゃあと鳴くばかりだった。にも拘わらず、猫は一向に立ち去ろうとはしない。いい加減にゃあにゃあと小うるさい猫に、元よりイタチの口出しに辟易していたおれは、うんざりとし始めた。
まったく、今日は厄日だ。どいつもこいつも、おまけに猫までがおれにうるさい。
猫を膝に抱き上げる。
やはり野良猫としての自覚が足らないのか、そいつは艶やかな毛並みを撫でるとまたごろごろと喉を鳴らした。本当に根負けだ。おれはイタチとの喧嘩以来、むっつりとしていた口許を僅かに緩めた。
「兄さんもせめてお前みたく、にゃあにゃあと煩いだけならよかったのにな」
猫が頷くようににゃあと鳴く。
そのとき、猫の眸が夕焼けに染まったような気がした。
■兄が猫になりまして
猫と一通り戯れた後、日が沈む頃になっておれは元来た家路を辿った。
猫は家の前の角辺りまでは付いて来ていたが、いつの間にかその姿は何処にもなくなってしまっていた。夕飯くらいは分けてやろうかと思っていたというのに、やはり猫は気ままで、野良は野良だ。
手を洗って台所へ行くと、母さんが夕飯を作っていた。卓袱台には四人分の茶碗が伏せてある。どうもおれが夕飯の一番乗りのようだった。
「兄さんは?」
一方的に出てきた手前、兄さんとはまだ顔を合わせ辛い。しかし、部屋で書き物でもしているのかと思いきや、
「さあ。任務じゃないかしら。遅くはならないって言っていたけど」
母さん曰く、おれが散歩に出かけた後、兄さんも家を空けたらしい。暗部の任務は時刻も非番も問わない。急な召集でもあったのだろうか。そう思う反面、兄さんが家にいなくてほっとしたところもある。
おれは母さんと共に夕飯を済ませ、いつもより早めの風呂に入り、明日の任務のため早々に寝床に就いた。
そして、その夜更けのことだ。このところ続くねっとりと湿った残暑のせいか、おれはふと喉の渇きを覚え、目を覚ました。
水でも飲んでくるか。
腰まで掛かっていたタオルケットを剥ぎ取り、体をむくりと起こす。
だが、待てよ。はたと気が付く。おれはいったいいつタオルケットなど掛けたのだろう。
次の瞬間、寝惚けていた体中の感覚が一気に開いた。暗闇の中、暑さのせいでは決してない冷たい汗がこめかみと背筋をつっと流れる。
いる。
何かがおれの部屋に、もっと言えばおれのベッドの上、おれの隣にいる。
幽霊や心霊現象の類ならまだいい。恐ろしいのは、忍のおれが一切侵入者の気配を気取れずに、寝首を掻かれていたかもしれないということだ。
恐る恐る真っ暗闇の中、ぼやけた輪郭のその隣の何か手を伸ばす。
すると、おれの手が触れる寸前、そいつはまるで猫が喉を鳴らすかのように小さな唸り声を上げて、ごろりと寝返りを打った。
夜目が利き始めたおれの目にそいつの正体が明らかになる。
それは二十一にもなるおれの兄、うちはイタチだった。
「ぎゃああっ」
思わず叫び声を上げ、後退りをする。そして、そのまま間抜けにもどさんっとベッドから転がり落ちた。
「な、な、ななな…ッ!」
動転する心臓を無理やり抑え付け、なんとかベッドの縁に手を掛けて、そろりとマットの上を覗くと、いる。やはりいる。
こんな大騒ぎをおれが一人としているというのに、全く目覚める様子もなく、おれの兄がおれの部屋のおれのベッドでおれのタオルケットに包まりながら、すやすやと眠っている。
だが、イタチならその侵入におれが気付かなかったというのも、情けない話だが納得ができた。
おれは意を決して、イタチを怒鳴りつけた。
「アンタ、いったいこんなところで何してやがる!」
しかし、起きない。
仕方なく今やおれのベッドを不法占拠する体を揺らす。
「おい、起きろよ、兄さん。ここはおれのベッドだぞ。自分の部屋で寝ろよな!」
すると、ようやく目が覚めたのか、うっすらとイタチの眸が開いた。
だが、
「にゃあ」
開口一番、兄の言い分がそれだった。
ぴきんと額に青筋が立つ。
「ふざけるな!」
おれは明日任務なんだぞ。
昼の喧嘩の仕返しにしても、あんまりにも遊びが過ぎるだろうが。
「いいからさっさとそこを退けよ。おれは寝たいんだよ」
と苛立つおれがいくら追い払っても威嚇の気を発しても、どこ吹く風のイタチはベッドから降りようともせず、あまつさえまた丸まって眠ろうとしてしまう。
「おい、兄さん!」
「にゃあ?」
「あああああ!」
おれは頭を抱えた。全力で吐き捨てる。
「くそがぁっ!」
「にゃ」
「にゃ、じゃねーよ!」
本当にくそがぁっ!
そんなにおれが昼間の助言を邪険にしたのが気に入らなかったのかよ。それにしても真夜中にこんなやり口は陰湿すぎやしないか?
しかし、わなわなと怒りに震えるおれを前に兄さんはなぜか猫になりきっているらしく、喉をごろごろと鳴らして折れる様子はない。その後も話が通じているのかいないのか、おれが何を言っても兄さんはにゃあにゃあと鳴くばかりだった。
こうなれば根比べだ。
おれは兄さんが占領するベッドに猛然と上がった。タオルケットを半分奪い返す。
「おれは寝るからな!」
「にゃあ」
「もう知るか!勝手にしやがれ!」
おれは兄さんに背を向けて、力いっぱい目を瞑った。
ああ、これはきっと悪い夢なのだ。
こんなのは兄さんじゃない。
兄さんは猫じゃない。
兄さんの助言は尤もだったと思うおれの良心がおれに見せた幻なのだ。
明日になればこの悪い夢も終わり、兄さんはいつものおれの兄さんに戻っている。そうに違いない。いや、どうかそうであってくれ。
おれは祈るように願いながら、眠りに落ちた。
ちなみにいつの間にか寝返りを打ってしまったおれは兄さんの寝顔のどアップに、朝まで三度もベッドから転がり落ちた。
<つづく>