3-3_夢の中、
砂漠の晴れた夜に雲はない。
サスケはただ二人きりのこの夜を惜しんですらいるかのようにまた長く間を空けた。
永い静寂の後、やがて、言葉が戻る。
「選択をしてもらうためだ」
「選択…」
「アンタがこの世界の正体を知った今、ここに立つおれやアンタを紛い物だと断じて終わりを望むのならば、夢の一欠片としてこのまま共に消えていくことも悪くない。だが、覚えているか、兄さん。六月のあの夜のことを」
「ああ…」
忘れるはずがない。
本来の現実の通りにイタチの命の時が進むのであれば生涯最後の誕生日の夜、数日前に飛び出していったきり帰らなかったサスケが身を忍んでイタチの床へと現れた。
残された時間の僅かさに追い詰められていたとしても、あのときのサスケに嘘偽りはなかった。サスケは本気だった。本気で兄に抱かれようとしていた。
「あの頃すでに暗部のアンタや上忍たちが次々に里外任務に投じられていた。だから、おれは木ノ葉の苦境も、そのせいでアンタがいずれ里やうちは、そしておれのために抜け忍になり暁へ行くことも分かっていた。アンタはもうすぐにおれの前からいなくなる。おれはそれをどうやっても、どうあがいても止められない」
現実の、サスケにとっては毎夜うなされた夢の、その再現が八年越しに始まろうとしていた。
だが、今更うちは殲滅はあり得ない。里の脅威は暁へと移ったのだ。
「ならば、兄さん、アンタはおれに何を残せる?」
サスケの声音が微かに揺れを帯びる。それは引き裂かれていく彼の心の押し殺した呻きのようでもあった。
俯いたサスケの握り締めた拳が震える。
「もう一人のアンタはもう一人のおれに裏切りとうちは根絶やしという憎しみを残して生かした。だが、アンタはどうだ。アンタはいったいこのおれに何を残せる」
本当の想いなど置いて行けるはずがなかった。
サスケの夢の中、もう一人の弟は兄の真実とそれを知らない世界の狭間で心を引き裂かれ、苦しんだ。
サスケは本来心根の優しい少年だ。彼の優しさはきっと忍の世に横たわる不条理に目を瞑り、理不尽を黙って胸に仕舞えない。イタチも、またもう一人のイタチもそう判じたからこそ、自ら憎しみを引き受けた。引き受けようとした。
だが、サスケはかぶりを振る。
「もう無理だ、兄さん。たとえアンタがこれからどんな手を使っておれに憎しみを植え付けようとしてももう無理なんだ。おれは兄さんの真実を知ってしまっている。どれほどアンタに手酷く裏切られようとも、おれがアンタを憎めるはずがない」
ならば、イタチはこの弟に何を残してやれるというのだろう。
イタチはいつだってサスケの問いに返せる答えを持たない。サスケが真実を知るこの世界のイタチが弟に残してやれるものなど何もないのだ。
「アンタは何も残さない。憎しみすらも残さずおれの前から、この世界から、去っていく。おれは気が狂ってしまいそうだった」
だから、サスケはあの夜イタチの許へと現れた。
消え行くのが止められないなら、せめて兄の瞳とその瞳力を持つもう一人の自分と同じように兄と確かに結ばれたい。そんな悲痛なほどの願いを胸に隠して。
「失明を恐れてアンタの瞳が欲しかったわけじゃない。だが、おれは兄さん、アンタの瞳が欲しかった。この世界のアンタにとってもおれは瞳を与えるに値する存在であるのか、アンタが何かを残すに値する弟であるのか、どうしても知りたかった」
だが、拒絶されて初めて気が付いたとサスケは言う。
「形だけこの世界をおれの望む通りに変えても仕方がない。たとえあの場で強引に抱かれても、それはおれの一方的な押し付けでしかない。アンタの心が伴わないのなら意味がない。おれはもう一人のアンタと同じ過ちを繰り返そうとしていた」
もう一人のイタチは弟の幸福を里とうちはだと思い込むあまり、何も語らず、ただ弟に目隠しをして思う通りに導いた。
だが、それはこの世界のイタチも同じだ。
真実を知ることがサスケに不幸をもたらすと思い込むあまり、これまで一度としてサスケと真正面から向き合うことをしなかった。あしらって取り合わず、近寄るなと門前払いを繰り返し続けた。ただ遠ざけていたのだ。
「…おれもお前に拒絶されて初めて気付いたことがある」
イタチが言うと、サスケは訝しげに眉根を寄せた。
「お前の暗部入りのことだ」
何故そんなにもお前は暗部に拘る。
「たった一言だというのに、おれはおれ自身の傲慢さでお前にずっと問うてやることすらしなかった」
だが、イタチが望む通りの正しい道をサスケに与えても仕方がない。サスケの心が伴わないなら意味がない。
歩む道を決めるのは他の誰でもないサスケ自身であるべきだ。
サスケを抱こうとした夜、こんなものは要らないと突き放されてようやく気が付いた。
「サスケ。おれがもしお前に何かを問うていたら、世界は変わっていたか」
幾つもあった分岐をこの空しい砂の地へとは続かない道を二人で歩めただろうか。
だが、その逡巡すらも今はもう詮無きことだ。二人はこうしてついに夢の終わりへと辿り着いてしまった。
「今更遅いのかもしれない」
それでもイタチはこの弟に、たった一人戦ってきた弟に問うてやりたかった。
「お前はどうしたい」
と。
僅かにサスケの頬が強ばる。それは小さな子供がする泣き顔にも見えた。
だが、彼は泣かなかった。奥歯を噛んで声を詰まらせる。
「おれは…」
長い語らいの中、いつしかサスケの背後では丸い月が西に傾き始めていた。
月も陽も沈む一番暗い夜明け前、しかしサスケの瞳はまだ火を失ってはいなかった。
血継限界写輪眼。そのうちはの血脈にだけに許された神代の巴がイタチが見守る中、静かに赤く燃え立ち始める。
そして焔の中、彼の万華鏡写輪眼が開かれた。
「おれは諦めたくない」
万華鏡写輪眼。
それはこれまで多くを失いながらも、諦めてこなかった証の光だ。
その瞳が星を戴き、この夜と朝の狭間で強く美しく煌めいている。
サスケは最後の瞬間まで戦うつもりなのだ。この十六年間たった一人でそうしてきたように。そして戦場へ出るもう一人のサスケのように。
「兄さん。もう一人のアンタはもう一人のおれに言ってくれた。二人でなら変えられたかもしれないと。そして目の前のアンタは、おれの兄さんはまだこうして生きている」
諦められるはずがない。
「おれの革命はまだ終わってはいない」