3-2_夢の中、



「…お前はいつから気付いていた」
 この世界の正体に。
 イタチが問いかけると、サスケはこれまでの月日を思い返すように一度長く目を閉じた。そして、ゆらりと開く。
「おれが最初に妙だと感じたのは物心がつき始めた頃だった」
 ちょうどイタチと森の修練場で遊び始めた頃、兄の知る世界と自分を取り巻く世界に微細な差異があることに気が付いたと言う。
「だが、幼いおれにはどこまでが現実で、どこからが夢なのか、分からなかった」
 赤い月と黄色の月。イタチばかりが鬼のかくれんぼとサスケばかりが鬼のかくれんぼ。
 混ざり合う夢と現実。
 ただそのどちらもが幼いサスケにとっては紛れもない現実だった。
 確かに追懐すればあの頃のサスケはあたかもその目でその耳で見聞きしたかのようにこの世界に存在し得ない事象まで口にしていた。
 半分は夢の中。何気なく抱いたイタチの心証は一面でそう遠くはなかったのだ。
 しかし、やがて成長に伴い知識が追いつくにつれ、サスケは次第に口を閉ざすようになる。彼は皮肉げに鼻を鳴らした。
「当然だ。黄色の月の世界のことも、これから先に何が起こるのかということも、おれの他は誰も知らない。言ったところで、アンタですらおとぎ話だと笑って、取り合ってはくれなかった」
 しかし、もう一人のサスケがこちらの夢を繰り返し見るように、こちらのサスケもあちらの現実を繰り返し夢に見る。父や母、一族、兄を失い、その名ですら貶められる夢をだ。
「アンタに分かるか?毎夜の如く目の前で為す術もなく、父や母を、一族を、そしてアンタを失うおれの怒りが、悲しみが、絶望が。そしてその夢は一歩、また一歩と確実に迫るおれたち自身の未来でもあった。だが、そんなことは誰も知らない。誰も知らず、平和にへらへらと笑っていやがる。だから、おれは一人で始めることにした」
 もはや何をと問うまでもない。
 全てを悟ったサスケはいずれ父を、母を、一族を、そして兄をも奪う世界にたった一人で反旗を翻したのだ。
 言っただろう、とサスケの片頬が歪んで持ち上がる。
「そうなるようにしてきた。おれはずっとそうなるように、そうしてきたんだ、とな」
 いつかの夕暮れのうちはの小路、昏い目をしたサスケの憤りがイタチの胸に木霊する。あれはサスケ自身の身の処遇への吐露などではなかったのだ。
「手始めはアンタが十三の頃、里の上層部から下されたうちは皆殺しの任務を阻止することだった」
「…お前が暗部に拘ったのもそういうわけか」
「ああ、そうだ。アンタはおれに暗部には近付くなと再三言って聞かせたが、本当は逆だ。おれはアンタにこそ暗部には近付いてほしくなかった」
 イタチが暗部へ入隊するということは現実の世界で起こったあの恐ろしいうちはの血雨降る一夜を手繰り寄せ、イタチが一族殺しの罪を負い、里を抜けるという本来の筋書きをなぞることになる。
「だから、お前自身が暗部に入り、中からおれやダンゾウ、上層部を見張るつもりだった。いざとなれば八年前のように強引にでも事態を回避するつもりで」
 言うと、サスケはくくと喉を鳴らした。
「その通りだ。さすが兄さんは察しがいい。だが、おれは兄さんみたく幻術時間までは操れない。あの時、うちは殲滅は免れた。だが、うちはと里の火種をなかったことにするまでには至らなかった。おれは結局うちはの根絶やしも、アンタの里抜けも先送りをしたに過ぎない」
 事実、イタチが十三のとき里から下されたうちは粛清という命令は実に八年もの間、継続された。
「夢は幻術に似ている。おれはこの夢の全てを思い通りにすることは出来なかった」
 本当にアンタの言った通りだとサスケは口許に自嘲を浮かべた。
 遠い森で一羽の蝶が羽ばたくだけでも明日の世界の何処かは変わってしまう。どれだけそうなるようにしたとしても、そうならないときもある。
 あの夕焼けの日、イタチは期せずして弟に示唆していたのだ。
 傲慢になるな、サスケ。何もかもが全て思い通りにはいかないものだ、と。
「それでもなお、おれはアンタがおれのため周到に仕立て上げてきた道を拒絶し続けた。受け入れることなど到底出来なかった。当たり前だ。行き着く先にアンタの死があるのなら、分岐に佇んだ時にそれがどちらの道にあるのか分かっているのなら、どうしてアンタが死んでしまう未来を選べる」
 しかし、暁の侵攻、木ノ葉の劣勢、任務変更によるイタチの里抜けと暁への潜入。破綻の影はサスケを嘲笑うかのようにそこここに現れ始める。
 無理に歪め続けた本来の筋書きが八年の歳月をかけ、元に戻ろうとしていた。
「おれは焦った。おれたちに残された時間が尽きかけていることを分かっていたからだ」
 ふとこれまで険しかったサスケの目許が僅かに緩む。それはイタチが長く親しんだ、よく知る弟の顔だった。
「皮肉なことに今のおれにはもう一人のアンタの気持ちがよく分かる」
 繰り返される夢の中、もう一人のイタチもサスケに道を強いていた。それが正しい幸福の道だと頑なに思い込んで。
「もう一人のおれはそんなものは望んでいなかったとアンタを責めたが、おれには分かる。アンタは、イタチは、弟のおれに死んでほしくなかったんだな。ただおれに生きていてほしかった」
 微かに俯くサスケの声が、喉が、絞るように震える。
 だが、次の瞬間には彼はもう真っ直ぐに強く顔を上げていた。
「目の前のアンタはおれのことを愚かだと思うかもしれない。何故こんなことをと思うかもしれない。だが、おれも同じだ、兄さん。おれはアンタに死んでほしくなかった。ただ生きていてほしかった」
 サスケが二人の他は何もない広漠の荒野にゆっくりと両腕を開く。
 兄さんと彼は兄に問いかけた。
「何故雨隠れへ続く道がないのか、何故こんな果てのない虚しい砂漠にアンタは迷い込んでしまったのか、分かるか?」
 道には行く先がない。同時にこれまでイタチが辿って来た道も、国境の森も、もしかすれば里までもが今はもう消え失せてしまっているのかもしれなかった。
 イタチはそのわけをもう悟っていた。サスケの夢に踏み入ったあの夜からずっと。
「十七になったおれはもうアンタとの夢を見ない。見ることが出来ない。おれが十七になった日に二十二のアンタはいないからだ。アンタは二十一で死ぬんだ、兄さん」
 また砂海に風が吹き始める。
 それは幾年月も経て降り積もった砂を揺らし、二人の髪を横へと流した。
「…兄さん。おれにとって過去は幸福の夢そのものだった。独りになったおれは過去から繋がる父や母、一族、兄さんのいる世界を何度も夢に見た。再現した。こうなればよかった。何故こうはならなかった。こうなるにはどうすればよかったのか、とな」
 だが、今やもう一人のサスケは目覚めた。
 イタチの去った世界でその死と生きた意味、そして自らの無念すらも背負って戦うことを選んだ。戦場へ行くのだ。
「おれはもう叶わない過去の夢には彷徨わない。だから、この夢はじきに終わる」
 ならば何故。
 何故、今。
 イタチは弟を見つめた。
「お前はおれの前に現れた」
 この夢の終着地に。