3-4_夢の中、
今まさにサスケの永い夢は終わろうとしていた。
現実のサスケは目覚めた。戦場へ行く彼はもう過去の夢には彷徨わない。この夢の地平は現実と切り離されたのだ。
そして、イタチは弟がこの夢の終着地に現れたときから、十六年もの間、彼が思い続けてきただろう唯一つの望みを分かっていた。それは同時に兄を、両親を、一族を失ったもう一人のサスケのいくら願っても叶わない明日でもある。
今ここにある兄弟の対峙と離別。それが八年前起こるはずだった夜の再現であるというのなら、そしてそれぞれの別れの先にある現実をサスケが知っているというのなら、サスケが望む行き先は決まっている。
「兄さん、おれは…」
荒涼の、もはや道すら絶えた砂地に佇んだサスケの声が震えて揺れる。そして全ての、最後の迷いを振り切るように強く真っ直ぐ決然と兄を見つめた。
「いきたい」
暁へ。
そして、
「兄さんと共にいきたい」
三度、イタチの髪を靡かせる風が出る。それは小さな星のように瞬く砂をサスケからイタチへと流した。
「言っただろう、兄さん。おれは兄さんのことは許している。おれが許せなかったのはこのおれ自身だ。おれはアンタの筋書きを何も変えられなかった。変えられたかもしれないのに何も気付けなかった。だから、今度こそ変えたい。変えられるなら、兄さん、おれのために一人の道を選んでしまったアンタの心を」
世界は初めて朝のない夜明けを迎えようとしていた。
もしもイタチが望むのなら、サスケは本当にこの夢を真昼に微睡んだ夢のまま、有り得たかもしれない懐かしい日々としてそっと終わらせてしまうだろう。サスケはそういう弟だ。
だが、夢の果てか、それとも新たな現の始まりか。
ここが、これが、最後の分岐点だった。誰でもないイタチが明日を選ぶのだ。
沈む赤い月を見送る。
イタチは夜にぽつねんと取り残された明けの星を見上げた。
「…サスケ。お前が万華鏡を開いたあの夜まで、おれは月は赤いものだと疑ったことはなかったよ」
それと同じだ。
人の、忍の、世の暗がりを歩いたイタチにとって弟のサスケは新たな光、闇夜にただ一つ光る導き星のようだった。だが、
「だが、どうしておれは思ってやれなかったのだろう。あの星もまた闇の中でただ一つ、一人きりの残り星だったのだと」
イタチの二十一の誕生日を前にした木ノ葉の美しい茜色の日、長引く風邪を抱え、ついに火影棟にまで兄を迎えにやって来たサスケの、その床に伸びる影の手前でイタチは立ち止まった。
それから数ヵ月後、サスケが「暁」との戦線を掻い潜りイタチの元までやって来た日、サスケを留めた宿の一室にはカーテンの隙間から差し入る夕陽に伸びるサスケの影があった。けれど、その影は出て行くイタチまでは届かず、サスケは独り部屋に取り残された。他でもないイタチがそうしたのだ。
そして八年前の現実のあの夜、一族を、父母を手に掛けた兄を追いかけてきた弟の影は、振り返った兄の影は、ついぞ互いに届き合うことはなかった。
「サスケ」
僅かに砂が鳴る。それは波紋のようにこの砂漠のしじまに広がり、イタチは長らく立ち留まっていた地より一歩をサスケへと踏み出した。写輪眼に赤を灯し、万華鏡を開く。
イタチの歩の先、サスケは竦んだように動かない。ただ瞳の中で少しずつ大きくなる兄の姿をひたすらに見つめていた。
だが、それでいい。この二人の離れてしまった距離は、別離は、イタチによる選択の終点だったのだから、この夜明けにはイタチがサスケの許へと歩み行くべきだ。
サスケの夢で垣間見たもう一人のイタチの最後の数歩、その先には、死別の時も、二度目の別れの時にも、弟のサスケがいた。里のため、平和のため、口を噤んで罪を負い二十一年を歩んだ彼は、けれどきっと最後の数歩は弟のためだけにいきたかったのだろう。それは決して弟のためではなく、彼自身のための数歩だった。
イタチも同じだ。二歩、三歩と、砂漠の砂を踏みしめ、イタチは兄を待つサスケへと歩み行く。
初夏、木漏れ日の優しい光が降り注ぐ明るい森で幼い弟を連れてかくれんぼをした日々、イタチがサスケを探す鬼だった。見つけても見つけても、サスケはイタチの腕の中からするりと逃げて、引き留める間もなく、森の奥へと身を翻してしまったから、イタチは幾度も何度もサスケを探し、十を数えなければならなかった。
それももう仕舞いだ。
「サスケ」
見つけた。
ついに見つけた。
明け星の下、イタチとサスケ、二人の影が寄り添い合う。そしてイタチはもう弟が逃げてしまわないようにサスケを懐深く強く抱き締めた。
サスケはもうあの頃のように無邪気に兄の腕へと飛び込んでくることはなかったが、その手が恐る恐るイタチの背へと回る。兄の外套をそろりと、だが一途にきゅっと握る弟の仕草がいとけなく、こんなにもこのうえなく愛おしい。
「兄さん、兄さん…」
「サスケ…」
触れ合った互いの頬が温かい。イタチの全てが腕の中にある弟の体の確かな感触、体温、それだけになる。
十六年前、サスケが生まれたあの夏の日からイタチのサスケへの思いの奥はずっと変わらない。その思いが過酷な境涯に身を投じ続けたイタチを生かし、今この時イタチにサスケを抱かせているのだ。
「これがお前の再現したかった現実か」
問うと、サスケはじっとイタチの腕に抱かれながら肩の上で頷いた。
「ああ、そうだ。おれの夢はおれの現実になる」
「…二度と里には戻れない」
イタチは兄の温もりで冷えた体を底まで浸して満たすような弟の背を引き寄せた。すると、サスケがより深くイタチの首元に顔を埋める。
「覚悟の上だ」
「裏切り者の烙印を押されることになる」
「兄さんだけを悪にはしない」
「父さんと母さんには」
問うて少し顔を離す。覗き込めば、厳しく険しかったサスケの面持ちはいつしか晴れやかに穏やかに凪いでいた。
「二人はおれにも言ってくれた」
サスケ、分かってるわ。
恐れるな、それがお前の選んだ道だろう。
誇りに思う。
「そうか」
イタチの写輪眼にはサスケの、サスケの写輪眼にはイタチの万華鏡が映り込む。
イタチはサスケの髪にそっと手を差し入れ、そのまま弟の頬を指で撫でた。額を合わせれば、互いの万華鏡の紋様がよりいっそう深く重なり合う。
深い悲しみによって開かれるという、うちはの瞳に受け継がれる瞳術、写輪眼。もしかすればサスケは憎しみではなく、うちはの名や強大な力でもなく、幸福ですらもない、ただ悲しみを兄と共に重ね、愛しみ、二人で手を取り合って生きていきたかったのかもしれない。
うちはと里の確執。
兄の手による一族粛清と、里の暗がりに葬られた兄の死と真実。
それはサスケにとって悪夢のような現実であり、現実のような悪夢だった。
何度打ちのめされ、幾度絶望と辛酸を舐めたことだろう。
だが、それでもなおサスケはたった独り、彼の譲れない正義を胸に戦った。
サスケがその瞳に宿した怒りも憎しみも、終わることのない失意も後悔も、誰もなかったことには出来ない。それらすべてがイタチの弟、うちはサスケなのだ。
イタチは愛しい思いで弟の渇いた眦を指でそっとなぞった。
「お前の怒りも憎しみも、悲しみもすべておれがお前を愛している」
「兄さん…」
イタチの指の下、サスケの万華鏡の淵が涙で歪んで盛り上がる。
これまでずっと堪えてきただろうその悲しみの雫は頬に添えられた兄の指を越え伝い、流れ星のようにきらりと茫漠の砂漠に滴った。
そこから世界が色鮮やかに蘇る。
長かった夜が終わりを告げ、美しい朝焼けと誰も知らない明日がこの地に到来しようとしているのだ。
「サスケ。お前は何も変えられなかったと言ったが、そんなことはない」
サスケはイタチの変革者だ。
サスケが生まれたとき、イタチが十三のとき、そして今。
イタチの心を変えるのはいつだって弟のサスケだった。
夜明けの「暁」へと続く道がサスケの向こうに照らし出される。それはもう一人のサスケが幾度も夢見、その兄であるイタチがついぞ勇気を持って選べなかった道だ。
「おれといこう、サスケ」
暁へ。
そして、共に。
「おれはお前といきたい」
イタチの朝陽が差し込む眼差しに、はっとしてサスケの瞳が大きく見開く。
そしてその眦の最後の涙が一粒光って頬をつと流れれば、イタチの瞳の中、涙を振り切ったサスケの星がゆっくりと柔らかにも強く瞬いた。
「ああ、兄さん。おれはアンタとずっとそうしたかった」
この長い夢の果てを越え、八年前あの夜、もう一人のイタチが弟の手を取って行けなかった道を二人は歩いていくのだ。
永く、永く、遠くまで、