3-1_夢の中、
夜、外套を纏った旅装束のイタチは月明かりに照らされた細く頼りない道を一路雨隠れへと歩いていた。
頭上に浮かぶ赤い満月は、イタチに様々なことを思い出させる。そういえば八年前のあの夜にもこんな月が掛かり、十六年前の今夜は九尾の狐が木ノ葉を襲った長い長い夜だった。
辺りに人影はない。里の暗部や上忍が多数潜む森を通るのは、つい一月ほど前までその指揮を執っていたイタチにとっては容易く造作のないことだ。
だが、国境の森を抜けた頃からイタチは異変に気付いてもいた。
雨隠れはその名が表す通り、年中雨に閉ざされ、大小多くの湖沼を抱える国だ。しかし、イタチの前に広がるのは風の国よりも広大な、生物の気配すら絶えた砂海だった。そして赤く膨らんだ月が昇る遠い砂丘の下、外套姿のサスケが佇んでいる。
サスケはイタチを待っていた。
ただそのことにイタチはさして驚きはしなかった。この砂海に足を踏み入れたときから、必ずいるだろうと思っていた。
「暁へ行くには手土産が足りないんじゃないのか、兄さん」
イタチがサスケのところまで行くと、サスケは口を開いた。互いに外し合う間合いが今の二人の距離だった。
もはや慎重に言葉を選ぶこともあるまい。イタチは率直に訊ねた。
「何故おれが暁へ行くと知っている」
一月前、木ノ葉上層部からイタチへと下された暁への潜入命令は極秘のものだ。父母にでさえ知らされていない。
暁。
尾獣を狩る彼らとの戦線が開かれて以降、木ノ葉は苦境に立たされていた。とかく情報が足らない。その正体を木ノ葉隠れだけでなく五大国全てが掴みかねていた。
しかもそのうえ、戦況は刻一刻と悪化する。暁の動きが活発になったこの三年の間に木ノ葉の里の防衛線は徐々に押し上げられ、既にいくつかの隠れ里の尾獣は抜き取られてしまっている。
木ノ葉に九尾がある以上、いつか必ず暁は里へと侵攻してくる。
今日明日には木ノ葉が戦場になる。目前に迫る最悪の事態を回避するために誰かが暁の内から情報を流すより他なかった。
そして、その白羽の矢は「うちはイタチ」へと立てられた。上層部はイタチにうちはの監視と殲滅に代わる新たな任務、暁への潜入を課したのだ。
うちは根絶やしが他でもないイタチの手によって実行されるはずだった夜から八年、その年月だけ老いたうちはにはもう武装一斉蜂起をするだけの力は残っていないと里は判じた。里の脅威は今やうちはから暁へと移ったのだ。
暁は尾獣を狩る。イタチは当代切っての実力者であるだけでなく、あの九尾でさえも操ることの出来る写輪眼の正統な後継者だ。暁が欲しないはずがない。
それに木ノ葉隠れは密かにうちはイタチという存在を恐れていた。イタチは木ノ葉の闇に触れ過ぎた。今は里に与しているが、イタチもまたうちは一族の男だ。もし何らかの理由でイタチが里を裏切ってうちはに付けば、里は再び力を取り戻し勢い付いたうちはや機密の漏洩という内憂を抱えることになる。
イタチの裏切り。その要件は十分に揃っていた。事実、八年前、里がイタチを脅したようにイタチもまた里に脅しを掛けている。イタチは里の安寧への忠節を尽くしているが、里にとってただ都合のいいだけの駒ではないのだ。
今回の暁への潜入にはイタチを里やうちはから遠ざけることが出来るという上層部の思惑もあるのだろう。だが、イタチはそれら全てを承知の上で、もう二度と里には戻れない任務を受け入れた。一族の、何よりサスケの里での無事と引き換えに。
そのサスケが今イタチの目の前にいる。
「任務変更の書を見たのか」
一ヶ月前のあの森へ命令変更の封書を携えてきたのは他でもないサスケだった。だが、サスケはイタチの問いに肩を竦める。
「あれには封印術が施されていた。中を見ることは出来ない」
確かにサスケの言う通り、封書には無理に開けられた形跡はなかった。では、
「では、何故」
すると、サスケは口許に薄っすらと微笑を浮かべた。それはイタチにとってはあまり馴染みのない弟の酷薄な笑みだった。
「アンタも薄々は気が付いているんだろう?あの夜、おれの夢を覗き見たときから」
「……」
そうだ。本当は疾うに気が付いている。
サスケは知っていた。繰り返し夢に見ていた。
イタチが里を抜け、暁へ行くことも、八年前にうちは粛清があるはずだったことも。
サスケが八年前のあの夜に家にいたのは偶然ではない。イタチも里も長年あの危機が回避されたのは、里とイタチ、双方の人質であるサスケが偶々家にいたためだと思い込んでいた。
だが、現実は違う。そう仕向けていたのだ、当時たった八つだったサスケが。
今にして思えば、サスケがあの頃アカデミーへ行くのを拒んでいたことも、始終イタチといたがったことも、説明がつく。
本当はあの夜、父や母も含めうちは一族はみなイタチの手に掛かり、死ぬはずだった。そうして幼いサスケは独り里に取り残され、兄への復讐と憎しみを糧に生き延びるはずだった。
うちは粛清は八年前にあり得たはずの過去であり、今夜イタチが抜け忍となりサスケの前から消えるのもまた遅れてやってきた過去なのだ。
なあ兄さんとサスケが言う。
「八年も遅れた手土産が兄さんの万華鏡写輪眼だけでは足らないんじゃないのか。兄さんお得意の許せであのうちはマダラが納得するとは思えない」
そのことも知っていたか、とイタチは思う。
うちはマダラ。暁の糸を裏で引いているのは、かつて木ノ葉隠れの里を千手と共に創り上げたうちはの男だ。しかし彼は、徐々に千手に傾く里と、束の間の平穏にうちはの誇りすら忘れようとしていた一族に絶望し、失意の中、里を去った。うちはマダラは弟の死の上に築かれた里についぞ弟の死の意味を見出すことができなかったのだ。
イタチとマダラの邂逅は、それもやはり八年前に遡る。だがイタチが八年前に里を抜けなかったせいで、マダラの目論見にも支障が出てきている。
イタチが覗き見たサスケの夢では一年後の今夜、十尾が姿を現すはずだった。しかし、尾獣は今もまだ木ノ葉をはじめ、複数の里に健在だ。暁は尾獣全てを手中に収める算段をまだ付けられていない。
なあ兄さんとサスケが繰り返す。
「たとえば、こんなのはどうだ」
イタチを見据えるサスケの漆黒の眼が写輪眼へと明かりを灯す。そうして赤い瞳の中、その三つ巴がぐるりと廻り、美しくも何処か禍々しい星の華が結ばれた。
思わず呟く。
「万華鏡写輪眼…」
やはり開眼していたか。
だが、イタチの顔色を変えさせたのはサスケのその瞳のせいではなかった。一度瞬き、再び眼を開いた彼の瞼の下から悠然と現れたもの、それは本来うちはの血脈のみでは持ち得ることの出来ない神代の瞳、輪廻眼だった。
押し殺した息を密かに呑み込む。
イタチは今はっきりと目の前の少年と対峙した。
「お前は誰だ。お前は本当におれの弟なのか」
砂漠の夜がしんと凍てつく。
その中でサスケは輪廻眼を万華鏡へ、万華鏡を三つ巴の写輪眼へ、そして写輪眼をこのぬばたまの夜を写し取ったかのような黒曜の眸へと戻した。先程の禍々しさを打ち消したような落ち着いた声音と面立ちでイタチと向かい合う。
「ああ、そうだ。おれはアンタの弟だ、間違いなくな。ただ、おれは長く夢を見ている」
「夢…」
サスケの言葉にイタチはかつて無理に踏み入り、強引に語らせた弟の悪夢を思い出した。
サスケが見ていたのはもう一人のサスケの長い物語だった。
「それはもう一人のお前の夢か」
訊ねるが、サスケは答えない。曖昧にして、代わりに「兄さん」と問いかけを返される。
「幻術使いのアンタは考えたことがないか」
幻術に掛けられた人間がその幻から目覚めた時、脳の中に造り出されたもう一つの現実、別世界はどうなるのか、と。
今度はイタチが答えないでいると、サスケは自らおもむろに口を開いた。
「夢は幻術に似ている。夢にいる間はそれがあたかも現実かのように錯覚し、夢を夢とは気付かない。だが、目覚めればやがてその夢は泡沫の如く消えていく。見ていた夢は何処から来て、何処へ行くのか。アンタは考えたことはないか」
「…お前は考えたことがあるんだな」
「そうだ。おれはもうずっと考えていた」
サスケが砂漠の空に灯る月を振り仰ぐ。赤い月だ。ついこの間までは疑うこともなかった。イタチが知る月は赤いものだ。しかし、
「人は誰もが己の知識や認識に頼り、縛られ、生きている。それを現実という名で呼んでな」
サスケの淡然とした声が乾いた風に乗り、赤い月の砂海を渡っていく。
二人の外套が時折吹き通る強い風を孕んではためいた。
「しかし知識や認識とは曖昧なものだ。その現実は幻かもしれない。そうおれに教えたのは他でもないアンタだ、兄さん」
黄色い月。
サスケが鬼のかくれんぼで、ずるいことをするイタチ。
そしてイタチがサスケに聞かせたという言葉の一つ一つ。
月はともかく、イタチが知らないイタチを、イタチが語ったという、しかしイタチ自身は身に覚えのない言葉一つ一つをサスケはいったい何処で見たのか。聞いたのか。知ったというのか。
三ヶ月前、イタチが導き出した答えは夢だ。
そしてその夢とは恐らく。
「人は皆思い込みの中で生きている」
サスケはまるで決まりきった台詞を諳んじるかのようにして言った。
「この現実は幻かもしれない。この現実は」
夢かもしれない。
「そうは考えられないか」
砂の上を撫で往く風がそろりと止んだ。
イタチは弟の背後に控える赤い月を見上げる。
黄色の月。幼い頃、サスケがイタチにおぶわれた背で語った話はおとぎ話ではなかったのだ。あのとき、また兄さんはおれを信じてくれてないと小さなサスケは膨れたが、イタチは他でもないお前の言うことなら信じるよと嘯いたが、本当に全くサスケの言う通りだった。
イタチは遊び疲れた弟はもう半分は夢の中なのだと弟を信じ切れてやれなかった。あのときからサスケはこの世界の正体をまるで耳打ちをするかのようにひっそりとイタチにだけは教えてくれていたというのに。
イタチは眼差しを道の途切れた砂の上に佇む弟に戻した。
「つまり、この世界こそがもう一人のお前の白昼夢ということか」
「ちゃんと気付いたか」
ここはいつかどこかのサスケが見ている夢の一欠片だ。
サスケが夢見るもしもの世界。
目覚めては消えていくその夢の残像。
「本来の現実でアンタを失ったおれは何度も繰り返し夢に見た。兄さん、アンタと共に在り続ける世界をな」
「そういうことか」
全てを覆い尽くす真っ白な繭の中、サスケは蚕のように微睡みながら眩しい真昼の夢を、イタチと共に在る二度とは戻らない日々を繰り返し見ていた。
目の前のサスケが八年前に分岐した世界を彷徨っているのではない。もう一人のサスケがもう夢でしか叶わない兄と在る世界を彷徨っているのだ。
赤い月明かりがサスケの眸に差し入る。サスケは瞬いて目を開いた。
「確かにここはおれの夢だ。だが、現実と地続きの可能性の幾つかでもある。もしおれが、もしアンタが、幾つかの時点で別の選択をしていたらこの夢は現実として有り得ていたかもしれない」
「だから、お前は選び続けていたのか」
慕っていた兄に父母を殺され、一夜にして一族皆殺しという憂き目を目の当たりにし、復讐の暗い炎を燃やしたサスケがやがて成長し、兄と同等の力を手に入れ、里の罪人である兄を手に掛け一族の無念を晴らす。そんなイタチが望んだサスケの未来へとは続かない道を。
そして、実際にこの世界は十六年もの間、誰にも気付かれず、サスケの思う通りに紡がれてきた。
木ノ葉の里に健在である父母と一族。
任務で長く離れることは幾度もあれど、今はまだサスケの傍にいる兄のイタチ。
対峙するサスケの眸がひたりとイタチを見据える。
「その通りだ。ここはもう一人のおれが、アンタを失ってしまったおれが、望んだ世界だった」