2-3_真昼の中、
深夜イタチが宿のシャワーから戻ると、夕食の後イタチより先に風呂を済ませていたサスケは部屋に一台しかない狭いベッドの端で、壁側に身を寄せ静かな寝息を立てていた。きっと兄を待つ内にうとうととしてしまったのだろう、薄い毛布は彼の体の下に敷かれて皺が寄っている。
秋にはまだ早いとはいえ、森の夜はもう冷える。
イタチは濡れた髪をタオルで無造作に拭いながら、点けっぱなしだった部屋の電灯を切った。それからクローゼットから予備の毛布を取り出し、こちらに背を向けたままの弟に掛けてやる。昔から人の、とりわけ父や兄の気配に敏かった弟はこんなほんの少しのことでも起きるかと思ったが、今夜は目を覚ます様子もなく昏々と眠っている。こうして見る寝顔は普段気難しげに寄せられた眉が下がっているせいか、まだいとけなくてイタチに幼い頃の弟をふと思い出させた。
疲れているはずだ。イタチはベッド脇の床に腰を下ろした。
サスケは暁との最前線を駆け抜け、一人ここまでやって来た。単独任務はとかく気を張る。そのうえ、あの暁との戦闘に一度目は否応なく巻き込まれ、二度目は自ら首を突っ込んだ。
森を哨戒する手は増やした。サスケを襲撃した暁は捕縛し、イタチが改めて幻術に掛けた上で既に木ノ葉へと移送している。暗部には拷問と尋問を専門とする部隊がある。そこで口を割らなければ情報部へと引き渡され、山中が潜るだろう。
だが、根のダンゾウがそうであるように世には不都合な言葉はそれごと奪ってしまうような呪印すらある。暁の斥候が何処まで喋るか、あるいは何処まで喋ることが出来るか。山中が潜ったことをきっかけに彼らの精神が何らかの封印術によって強制的に閉ざされる可能性だって捨てきれない。
夕飯の後、イタチ立ち会いの下、サスケの言った通りの洞穴から暗部隊員らが運んできた暁の斥候たちの身体検査は一応済ませたが、それもあくまで当座のものだ。イタチと交戦した暁の忍のように体内に爆薬が仕込まれていないか、その程度でしかない。
幸い、サスケを襲った斥候らの体からは火薬は検知されなかった。もしサスケの幻術の発動と同時にあの広大な森をも抉る爆発が起こっていたかと思うとぞっとする。イタチとは違い、サスケにはあれを防ぎ切る手立てはない。いや、ないはずだ。イタチが十六年間、弟だと信じてきたサスケならば。
髪を拭いていたタオルを傍らに置く。カーテン越しに差し入る今夜の月明かりは仄暗く赤い。それはイタチにサスケが飛び出していったあの夜と、うちは一族の眸に宿る血継限界を思い起こさせた。
あの夜、サスケがイタチに見せたのは間違いなくうちはの高み、万華鏡写輪眼だった。彼は咄嗟に隠そうとしたが、イタチは弟の眸に浮かぶ三つ巴が確かに廻り始める瞬間を昨日のことのように覚えている。
深い愛情の喪失や自身への失意によって開かれるという伝説の瞳術、万華鏡写輪眼。長いうちはの歴史の中でも開眼した者は数少ない。しかし、裏を返せばうちはの血を持つ以上、サスケも開眼し得る可能性を秘めているということだ。
仮にサスケがその万華鏡写輪眼を眸に宿していたとして、だがしかし、やはり疑問は残る。いったい彼はいつ何処で深い愛情の喪失を、自身への耐え難い失意を得たというのだろう。
慕っていた兄に父母を殺され、一夜にして一族皆殺しという憂き目を目の当たりにし、復讐の暗い炎を燃やしたサスケがやがて成長し、兄と同等の力を手に入れ、里の罪人である兄を手に掛け一族の無念を晴らす。そういう筋書きもあるにはあった。だが、実際は父母を含めうちは一族は木ノ葉の里に健在であるし、兄であるイタチもこうして任務で長く離れることは幾度もあれど、今はまだサスケの傍にいる。
サスケはまだ何も失ってはいないのだ。
背後を振り返れば、サスケはやはりイタチには背を向けて眠っていた。幼い頃からの癖でふと弟に手を伸ばし掛け、途中思い直す。髪を梳けばさすがに起きてしまうだろう。
それにしても、あれほど長く悪夢を患っていたサスケがこんなにも穏やかに眠れるようになったのはいったいいつの頃からだろうか。離れていた間のサスケの心変わりはイタチにも知りようがない。
ただ、その夢の一端を知った今のイタチにはサスケがいつからか万華鏡写輪眼に目覚めたわけも、あの夜に身を投げ出すようにしてイタチを求めたわけも分かるような気がした。
イタチが垣間見たサスケの悪夢。
その中で、サスケは八年前に分岐した「有り得たかもしれない世界」を繰り返しながら、幾度もイタチを失い、たった独り彷徨い歩き続けているのだ。
兄さん、とサスケがイタチを呼ぶ声だけが今もまだイタチの胸を苦しめる。それは幼いいつかの日の声であったし、今日の昼や夕方の声でもあった。そうして、あのうち光る蛍が逃げ出した夜、イタチが無理に聞き出した悪い夢の中で、代わりにイタチが見せてやった幸福の幻の中で、何度もイタチを求め、兄を呼んだサスケの声だった。
あの夜から三ヶ月、イタチの心もまた揺れていた。
このまま何も告げず置き去りにして弟は、サスケは本当に幸せになれるだろうか。
誰もが思い描く正しい道を真っ直ぐに行ってくれるだろうか。
サスケはずっと昔からその答えを知っていた。知った上で彼は何年もかけてイタチが周到に拵えた道を拒絶していたのだ。
イタチが強いた道ではやがてサスケは行き詰まる。夢の中、サスケは世界に振り上げた怒りの刃を握り締める拳の強さで自らの手のひらまで深く傷付けていた。
イタチを許さなかったことはないと言ったサスケは、いつだって許していると言ったサスケは、もう思いを定めている。あのイタチの元を忍んで訪れた夜から。もしかすればもっとずっと昔から。同じ身を焼くのならば、兄に思いを焦がすのならば、憎しみではない、それと対極を成すもので、と。
イタチがそれは真綿で絞め殺すことだと早々と切り捨てた道を、それでもサスケは望んでいる。
たった一度きりだとしても、そのただ一度を望んでいる。
サスケは全てを知ったうえで、自らの行く道を選んだのだ。
それは誰にも触れられない彼だけの決心だからこそ、このうえなく眩く、尊い。
そんな弟にイタチが与えてやれるものは何か。憎しみではなく、うちはの名や強大な力でもなく、幸福ですらないそれは。
果たせるとしたら、今夜が最後だ。
イタチがシーツに膝を着くと、サスケが眠るベッドはぎしりと軋んだ。
その頬にそっと触れる。
「ん…、兄さん…?」
目を覚ましたサスケは、だが状況がいまいち呑み込めていないのか、寝ぼけ眼に映る兄とのごく近しい距離に驚いた様子がなかった。そういえば幼い頃、特にサスケが八歳の時分はこうして二人でじっと真っ暗な夜が過ぎるのを待っていた。
「どうしたんだ…?」
ひたりと頬に手を当てられたまま、サスケが訊ねる。
イタチは答えずにさっき掛けてやった毛布を取り去り、サスケの体を仰向けにした。そして、その首筋におもむろに唇を滑らせたところで、ようやくサスケが焦ったような声を上げた。
「あ…ちょ…にい、さん…」
だが、イタチは弟を制して、彼の体をまさぐり続ける。
「静かにしていろ。隣に聞こえる」
「でも、おれ、こんな…」
サスケの声音には明らかに動揺と困惑が滲んでいた。しかし、拒絶の色はない。
イタチは唇をサスケの耳に這わせながら、その下腹部へ手をつっと伸ばした。性的な意図を持って股ぐらに触れれば、若いサスケはすぐさま反応を見せる。
「あ…、あ…」
「いい声だ」
布越しにもサスケが息衝いているのが分かる。
イタチはもう一度サスケの首筋に顔を埋めた。サスケは特に耳の裏が感じるのか、唇でそこから下へ辿ると、堪えきれなかった上擦る吐息がその口から慎ましやかに漏れ零れる。
「ン…、にいさ…ん…」
鎖骨から胸、鳩尾、腹へとサスケの体の線を接吻けで撫でていく。まだ戯れのような愛撫だというのに、房事に慣れないサスケは絶えず悩ましげに体を捩った。
衣擦れの微かな音とサスケの徐々に浅く短く濡れていく息遣い。ただそれだけが二人きりの夜の部屋を満たしていく。
その内にサスケの手がそろりと、だがどこか意を決したように決然とイタチの背中に回された。昼間、あの森で爆発の衝撃から庇うため抱いたときのようにシャツをぎゅっと強く握られる。
イタチはそれを機に弟のシャツの中に手を入れた。裾を捲り上げながら、弟の体に直に触れる。やはり手のひらに吸い付くような瑞々しい肌だった。
「ぅん…兄さん…」
「サスケ…」
一歩、また一歩と闇夜に二人して踏み込んでいくような錯覚に囚われる。その背徳の高まりに、あるいは胸に触れられる羞恥にサスケは目許を赤らめた。
「あ…、にいさん…、ン…、そんなところ…」
「お前のここに触れるのは二度目だな」
そう言うと、ばつが悪くなったのか押し黙るサスケの体は忍らしく引き締まっていた。だが、その一方で十代半ば特有の白さと線の細さ、危うさがある。それはサスケの内面そのものを表しているようで、イタチの胸を締め付けた。
九尾が里を襲った十六年前の恐ろしい夜も、それが慣例だというのにアカデミーの入学に父が付き添わないと知り、隣でしゅんと肩を落としていたいつかの昼も、父や一族の男らと揉めるイタチをサスケが必死に叫んで止めたあの夕方も、イタチのサスケへの思いは変わらない。その思いがイタチを生かし、今日の昼間も今この時もイタチにサスケを抱かせている。
イタチは抱きしめる代わりにサスケの肌に熱心に接吻けた。吸い取るようにして弟に痕を残す。
「ん…っ、ン、っあ…」
先程の兄の言いつけを守り、声を上げまいと堪えるサスケの手がイタチのシャツを握り締める。
だが、次第にその吐息は甘い喘ぎになり、縋るようだった手は緩々とイタチの背を思わせ振りに撫で始めるようになる。そのぎこちなさがいとけない。
もしかすればサスケはイタチの愛撫から生まれる幸福と悦びに体だけではなく、幼い頃から何処か頑なだった心まで開こうとしているのかもしれなかった。
「あ、ん…、兄さん…」
イタチの濡れて下ろした髪にサスケの手が差し入れられる。うなじの辺りをうっとりと辿られ、イタチはサスケの胸を愛していた顔を上げた。
一目見て、サスケが何を望んでいるのかが分かる。今夜まだ触れていないところがたった一つだけある。
「にいさん…」
紅潮した目許も、微かに震える睫毛も、媚態と切なさを湛え揺れる眸も、そしてイタチを求め少しだけ開いた唇も、イタチには弟の何もかもがこのうえなくこんなにも愛おしい。
つと惹かれ合う。
だが二人の唇が重なる寸前、イタチの胸に去来したのはついに弟と結ばれる喜びではなく、心に掛かる僅かな迷いだった。
本当にこれで全てよかったのか。
それを人の、少なくとも兄の機微に神経質なほど敏いサスケが悟らないはずがない。刹那、どんっと半身を突き返される。
「サスケ…?」
面食らって弟の顔を覗くと、ついさっきまでは情欲に潤んでいた眸が今はもう激しい怒りに燃え立っていた。
「哀れみでなら抱くな!」
強い語気と怒気、そして失望がその唇から溢れ出る。
「体だけを一時慰めて何になるとおれに言ったのはアンタだ、兄さん」
「サスケ…」
「おれはアンタの哀れみがほしいわけじゃない」
おれはアンタがほしいんだとかぶりを振って吐き捨てるほどに、サスケ自身が悲しかった。
弟に伸ばした手を拒絶されるのはこれで何度目になるだろうか。
「すまなかった」
イタチはサスケから離れた。そうでもしなければ、ただ一時のことだとしても、体だけのことだとしても、弟を慰めてやりたくて、今度はイタチがこのまま強引にサスケを抱いてしまいそうだった。
「お前は朝まで休め」
ベッドの上で俯き、顔の見えないサスケを置いて部屋を出る。
サスケからのいらえはついぞなかった。