2-1_真昼の中、
あれから一つの季節が訪れ、去っていった。夏の虫はもう鳴かず、秋の虫にはまだ早い。季節の谷間特有の静寂が今イタチがいる森には満ちていた。
あの夜から三ヶ月と少し、うちはイタチに長期任務が言い渡されたのは六月半ばのことだった。
あの日以来、弟のサスケとは何もない。翌朝ですらイタチの布団で目を覚ましたサスケは昨夜の出来事などなかったかのように振舞い、平生と変わりなく素知らぬ顔で任務へと出掛けて行った。そのうえ時を置かずして今回の任務だ。あの夜のことは片方の吊り縄が切れたブランコのように二人の間で宙ぶらりんのまま、うやむやになってしまっていた。
ただイタチにもサスケのことばかりにかまけているわけにはいかない事情がある。
イタチは遥か高い梢から、鬱蒼と生い茂る森の木々の中を疾駆する忍らの姿を眼下におさめていた。木ノ葉隠れの者ではない。
尾獣を狩る組織、暁。その攻勢は日に日に規模を増している。
徒に混乱を招くことのないよう里の広くには伏せられているが、火ノ国には既に暁の忍が数多く侵入し、こうして里の包囲網も徐々に狭められつつある。結界はあるが、チャクラの塊である尾獣を狩ろうという彼らに対して一体どれほどの効力を発揮するか。甚だ疑わしい。
イタチら暗部に通達されたのは、その結界の防衛と暁の遊撃だった。とはいえ、木ノ葉を取り巻く山林は深く広い。少数精鋭の暗部だけでは手が足らず、今や里の信頼厚い手練れの上忍たちも臨時に、そして極秘に編成され、暗部の指揮下に入っている。
イタチは分隊長としてその一隊を率い、暁の勢力下にあると密かに囁かれる雨隠れとの境、最前線の森での監視にあたっていた。一見静謐と自然そのままを宿したようなこの森にも木ノ葉の忍が多く散り、潜んでいる。
梢から梢へ、イタチは暁の忍を追って小鳥のように音もなく樹間の暗がりを次々に飛び移った。
彼らがこちらに気付いた様子はない。それに三人、スリーマンセルだ。尾獣を狩るS級手配の連中はツーマンセルで動くと聞く。であれば、この森で暁を迎え撃つ木ノ葉の陣容を探りに来た先見部隊、斥候のようなものだろう。ただ心中そう推察するイタチにも確信はない。
とかく暁に関してはこちらにある情報があまりにも乏しかった。彼らが根城としている雨隠れのその名の通り、全ては雨に閉ざされ、霞の中だ。木ノ葉に漂う手詰まり感は否めない。
不意に前方、森の林立がやや途切れた。薄暗かった辺りに早秋の光が差し込む。
ここだ。
イタチは腰から苦無を引き抜き、構えた。最後の梢を蹴ると同時に起爆札付きのそれを暁の行く手数歩前に素早く撃ち込む。
風を裂いた苦無が鋭く地に突き刺さった。
遥か上空からの突然の強襲に暁の忍たちは俄に足を止める。引くか進むか。明らかに躊躇った様子の、その数瞬の動揺が今の彼らにとっては命取りだ。
下草もろとも起爆札が辺りの地面を吹き飛ばす。熱を孕んだ爆風が激しく木々の葉を揺らした。だが、森の巨木を裂くほどの威力はない。元より狙いは撹乱、目眩ましだ。
もうもうと立ち込める噴煙と土煙が晴れるまでの僅かの間。しかし、イタチにはその一瞬だけで十分だった。視界を奪われ遮られた暁の忍たちをイタチの写輪眼は既に捉えている。
「写輪眼…!うちはか!」
舞い上がる土埃の中、突如目の前に現れた忍の、その面の奥深くに紅く光る眸を見つけ、暁の一人が戦慄の声を上げた。だが、もう遅い。イタチの強力な幻術は疾うに発動している。
刹那、断末魔の悲鳴と呻きを上げ、暁の男はその場にもがきながら転げた。おぞましい幻に、しかし彼にとっては紛れもない現実に精神をあっという間に喰い潰され蝕まれ、男は激しい痙攣を繰り返す。
生かして捕縛する。それはイタチの、あるいは木ノ葉の慈悲などではない。単純に生きている人間の方がより多くこちらが知りたい情報を語るだろうからに過ぎなかった。木ノ葉は喉から手が出るほど暁の情報を欲している。肉体的に生きてさえいればいいのだ。口を割らせる手段などいくらでもある。それこそあの夜イタチを拒むサスケを無理に喋らせたように。
イタチは残り二人と相対した。大気がざわめき、やがて土煙が晴れる。
距離にして数メートル。最初の一人がこちらをうちはと名指しした以上、彼らも迂闊には目を合わしてはこないだろう。うちはの名とその血継限界は忍の世に知れ渡っている。
だが、彼ら二人は引かないともイタチは踏んでいた。逃走をするにしても、幻術に陥った仲間を連れていくか、もしくは肉体を完全に破壊するかしなければならない。忍の体はそれそのものが情報の塊だ。どれほど優れた忍だろうと、残して行けば仇になる。忍の基本だ。彼らが知らないはずがない。
風がイタチの後ろ髪を揺らす。互いに交わす言葉はない。
短い沈黙の後、起爆札に焼かれた焦土が微かに乾いた音を鳴らした。瞬間、暁の二人が散開する。真正面からは指揮官らしき男が、もう一人は地の利を活かし、こちらの背後を取ろうとでもいうのか、森の林立へと身を潜ませる。
忍刀を抜き放ち正面から仕掛けてきた男の斬撃を、イタチは腰に帯びた次の苦無を引き抜き、受け流した。やはり幻術を警戒しているのか、男の目線は互いの獲物を注視したまま動かない。
暁の忍刀とイタチの苦無の激しい打ち込み合いに両者の刃が金切り声を上げる。国境を越え、木ノ葉に潜入を試みるくらいの手練れだ。一撃一撃は確かに重く、鋭い。イタチは一歩、また一歩と後退を余儀なくされる。だが、あちらが陽動であるようにこちらの標的もまた目の前の彼ではない。
イタチは間断なく繰り出される男の連撃を苦無で捌きながら、その一瞬の隙を突いて、森に紛れ背後に回り込んでいたもう一人の忍に手裏剣を投げ放った。射線上でないと油断したもう一人の忍は死角の的をも正確無比に射抜くイタチの手裏剣術に、印を結ぶ両手の指と膝裏を撃ち抜かれ、悶絶しながらどうっと倒れ伏す。
これでしばらくは激痛で動けまい。よしんば痛みを堪えたところで、彼はもう忍としての手も足も奪われたも同然だ。
仲間の二人をあっという間に失い、最後の一人、指揮官の男はさすがに怯んだ。忍刀の切っ先にも僅かの迷いが生まれ、目線が上がる。それを見逃すイタチではない。視線を合わせ、彼にも幻術をかけようとしたまさにその時だった。
「ぐ…っ」
森に鋭利な青い稲妻が走り、男の胸が背後からのいかづちに貫かれる。人体が焼け焦げる臭気が彼の胸から吹き出した。
イタチは眉を顰めた。妙だ。こちらはまだ何も仕掛けてはいないのだ。
不審に目を細めるイタチの前で、脱力し、壊れた人形のようにがっくりと最後の忍が崩れ落ちる。
そしてその向こう、深い森の奥からから姿を現したのは木ノ葉の忍、イタチの弟、サスケだった。
「兄さん…」
「お前…」
辺りに人の気配がないことを確かめて、イタチは暗部の面を取った。
何故と思う。
何故今サスケがここに。
だが、先ずはサスケの千鳥、たぶんその亜流型だろう、それに胸を刺され焼かれた忍の男が気に掛かる。倒れ伏し、ぴくりとも身動ぎしない男の傍らにイタチは膝を着いた。
「殺してしまったか」
呼気も拍動もない。男は事切れていた。
サスケはイタチの側までやって来ると、幾分か声を落とした。
「…咄嗟に手加減が出来なかった」
サスケもまた忍だ。敵方は生かして捕らえるべきだということも、兄であるイタチがそうしようとしていたことも、無論この程度の相手にイタチが遅れをとるはずがないことも分かっていたに違いない。だが、サスケの体は彼の言う通り咄嗟に動いてしまった。それはとりもなおさず彼の目に飛び込んできた戦闘の光景の中にいたのがイタチだったから、兄だったからに尽きるのだろう。
サスケは項垂れた。
「悪い。余計なことをした」
「済んだことは仕方がない」
指揮官の男を誤って失ってしまったのは痛手だったが、まだ暁は他に二人いる。情報は彼らに吐いてもらえばいい。それにこの国に入り込んだ斥候は彼らだけではないのだ。
短く息を吐き、立ち上がる。
しかし、ふと違和感を覚えた。
死んだ男の腹が先程よりも盛り上がっている、ように見える。
自爆。イタチの脳裏にすぐさま浮かんだのはその二文字だった。
万が一にも敵方に情報を渡さないため、忍の男は体内に爆薬を仕込んでいたのだ。すぐに起爆をしなかったのは、こうして近付いた敵ごと吹き飛ばすためか。
「サスケ…!」
イタチは即座にサスケを庇いながら飛び退いた。だが、男はもしもの時には味方ごと処理する腹積もりだったのか、異様に膨らむ爆薬の量は優に辺り一帯を吹き飛ばす分量だ。
間に合わない。
イタチはサスケを地面に押し倒し、上から覆い被さった。
「兄さ…っ」
戸惑うサスケの声がイタチの体に押し付けられ、塞がれる。
幼い子どもがするようにサスケに忍装束をぎゅっと握られ、イタチの全てが森を駆けてきたのだろう弟の汗のにおいと腕の中にある体の確かな感触、体温、それだけになる。
懐深くサスケの頭を抱き込み、イタチは両の眼を開いた。
直後、鋭い閃光が走り、男の死体から猛烈な火炎柱が上がった。耳をつんざく破裂音が森閑を打ち破り、起爆札などとは比べものにならない爆風と熱風が嵐の夜のように吹き荒れ、地を焼き、百年の木々を根こそぎ倒していく。ほぼ爆心地に近いイタチとサスケの二人には吹き上げられた小石と抉り取られた大岩が雨霰と容赦なく降り注いだ。大地が唸る震動に激しく臓物を揺さぶられる。
その間イタチは身動ぎもせず強くサスケの体を抱いていた。腕の中でサスケが苦しげに呻く。
「に、いさん…」
「いいからお前は黙っていろ」
そう耳許で囁くと、弟は大人しく何も言わなくなった。
ややある。
遠くの空で雁が鳴いた。
森に静寂が戻る。
どうやら爆薬を仕込んでいたのはあの男だけだったらしい。
イタチは全身を襲う疲労感を覚えなからも、サスケの体の上に伏せていた顔を上げ、慎重に辺りの様子を窺った。
そこは惨憺たる光景だった。ほんの少し前までは秋の葉を彩り豊かに繁らせていた木々は見る影もなく無惨に焼け落ち、地も森も黒く煤け、ところによっては炭化している。
イタチは念のため周囲の高温が下がるのを待って、サスケから体を退けた。身を起こし、サスケにも手を貸す。イタチとしてはごく自然にそうしたのだが、サスケはあえて目の前に差し出された兄の手は無視して一人で立ち上がった。彼もまた焦土を見渡して、ぽつりと呟く。
「ひどい様だな」
イタチは「ああ」と返した。
焼け野は佇む二人を中心に円を歪にして広がっていた。幾らかましになったとはいえ熱を持った空気は二人の肌をちりちりと焼き、火薬の異臭もまだ鼻につく。これでは暁の連中は生きていた者を含め肉片すら残さなかっただろう。全て吹き飛んだ。それほどに激しい爆発だった。
しかし、そのただ中に在りながら、サスケには自らと兄の無傷や無事を訝しんだ様子がない。あの爆風と高熱、衝撃を僅か一瞬で完全に防ぎ切る手立てなどそうそうありはしないし、万が一そういった強力な結界術があったとしても、あのときイタチは印すら結んでいなかった。だが、サスケは平然とこの傷一つない現状を受け入れている。
そして、イタチもまたそれそのことにさして驚きはしなかった。むしろ、今このときまで何処かでまだ信じられない思いだったものが確信へと変わっていく。
暁の男がいた所まで歩いて行くサスケの後ろ姿をイタチは黙って見送った。
サスケは知っているのだ。イタチの万華鏡写輪眼、その誰にも明かしたことのない切り札を。
「なあ、兄さん」
その場に屈み、何かしら暁の痕跡はないかと調べていたサスケは、しかしほどなくして見切りをつけたようだった。立ち上がってイタチを振り返る。
「あいつら、他にもいるのか」
「どうしてだ」
暁のことは機密事項だ。イタチが言葉を選んだことを察したらしいサスケは、この回りくどいやり取りにやや辟易とした態度を見せた。うんざりとして肩を竦める。
「ここへ来る途中にもいたからだ」
「遭遇したのか」
「ああ。いきなり襲ってきた」
サスケの話によれば、襲撃者は三人。サスケが木ノ葉の忍と見るや否や、突然仕掛けてきたそうだ。だが、忍としての技量は三人を相手にしてもまだサスケの方が上だった。昏倒させ、手足の自由を奪い、森の洞穴に隠してきたと言う。当然、サスケ一人では大の男三人を里まで運ぶ術はない。
「偽装はしてきたが、奴らが目覚めるか、お仲間が発見するか、時間の問題だろうな。おれは兄さんみたく幻術時間までは操れない」
「分かった。あとで回収に向かわせる」
おおよその場所と目印を聞き、イタチは改めてサスケと向かい合った。
森に吹く秋風がこの場にわだかまる爆発の高温をそろりと押し流していく。
「それで、お前はどうしてこの森にいる」
何故今ここに。
弟が不意に森の奥から現れたときから消えない疑問をイタチは口にした。
すると、サスケはこちらが拍子抜けするほどあっさりと答えた。
「任務だ」
「任務?」
「これをアンタに届けるよう言われた」
サスケが懐から取り出したのは一通の封書だった。渡され、手にする。一見何ら変哲もないそれには暗部隊員それぞれに解の印が申し伝えられている封印術が施されていた。間違いなく木ノ葉、それも暗部からの通達だ。その書をサスケが運んでくるということは。
「お前、まさか」
イタチの表情が自然と険しくなる。
サスケは性懲りもなく暗部に近付いたのか。あれほど念を押し、警告したというのに、また。
だが、サスケは憮然と目尻を尖らせた。イタチへの不満を露にする。
「勘違いするな。これは三代目から下された正規の任務だ」
「暗部経由ではないのか」
「暗部だけでは人手が足らないそうだ」
確かにイタチを含め暗部の主力、里の上忍は現在「暁」との戦線へ密かに投じられている。
里の手薄は憂慮すべきことだが、初代柱間によって各忍隠れへ配された尾獣らも、砂の一尾、霧の六尾、雲の八尾、そして木ノ葉の九尾を残すのみとなった。既に半数は暁の手の中だ。今やこの世界の安寧の根幹たる尾獣均衡は揺らぎ始めている。第四次忍界大戦、その前哨戦の狼煙は上がっているのだ。
暁はいつか、しかし必ず木ノ葉と九尾を狙ってくる。これ以上の侵攻は決して許されない。人員を割こうとも、木ノ葉は何としてでもこの森で彼らを食い止めねばならなかった。
加えて里の形勢を悪くしたのは、暁が国という形態を取っていないということだった。あちらはいつ何処へ姿を現すか分からない。そのため、こちらは先制もままならなず、防戦を一方的に強いられ、そのうえ里や国という大構えがあるからこそ防備にはどうしても頭数が要る。
そういった事情で暗部や上忍らが里から出払った今、中忍の内でも高い任務遂行率を誇るサスケが伝令として抜擢されるのはごく順当で妥当なことだ。実際、サスケは暁の忍たちを軽く片付けている。
サスケはだめだ、というのはイタチの私情でしかない。
「それとも暗部のアンタにはおれへの任務にまで口を出す権限があるのか」
サスケの皮肉交じりのそれにイタチが素直に詫びると、サスケは膨らませた兄への反発心を挫かれたのか、「もういい」と言った。伝令書を顎で示す。
「中を確認してくれ。見届けるまでがおれの任務だ」
「分かった」
印を結び、封を切る。中にあった紙片にはよくある任務変更が簡潔に記されていた。
「確認したな」
「ああ」
ふっと息を吐いて通達書を燃やすと、灰もなく小さな火の粉だけ舞った。それからイタチとサスケ、二人の間には何もなくなる。
サスケの兄を見つめる眸は物言いたげにも見えたし、そうでもないようにも思えた。
「…じゃあ、おれはもう行く」
先にふいと視線を逸らしたのはサスケの方だった。二、三歩後ろへと下がる。
ここから里までは忍の足で一日半程だ。けれど、森の西方には早くも秋の暮色が迫っている。夜陰はサスケの姿を隠すだろうが、それは敵もまた然りだ。それに彼はもう一昼夜を休みなく駆けて来ている。
「待て」
イタチは立ち去ろうとするサスケを引き留めた。
「…今度はいったい何だ」
と振り返る弟は疎ましげに兄を強く見据える。
その視線に含まれる拒絶には一切構わず、イタチは告げた。
「今夜は一晩おれのところに来い」
羽音を立て、焼かれた木の枝にイタチの烏が飛来する。
しかし、それは触れるとすぐにそろりと崩れて落ちた。