1-4_繭の中、



 六月九日、草木も眠るという丑三つ時にイタチは先ごろ母が夏物に替えた薄い布団の中でふと目を覚ました。
 うっすら眸を開くと、南賀ノ川の土手や庭の池の茂み辺りに飛び交い始めた蛍が一匹、イタチの眠る部屋へと迷い込んでいる。明かりを落とした闇の中で独り仲間を探し、仄かにうち光る様は何処か物寂しげだ。いや、そう感じてしまうのは、今のイタチの心の在り様のせいだろう。蛍の彼は数日前に飛び出して行ったきり帰らないサスケなのかもしれないし、あるいはイタチ自身かもしれなかった。
 イタチは起き上がり、明かり窓を少し開いた。涼しい夜風が部屋に吹き入る。今夜の月は高く小さかった。今はこの部屋の暗闇を彷徨う蛍も、いずれ夏の香に誘われ外へと飛び去っていくだろう。
 再び閨に戻り、体を横たえる。目を瞑ると、忍らしく眠りはすぐに訪れた。
 それから、どれほどか経った頃、部屋の襖がそろりと開かれる気配があった。共に住む父や母ではない。サスケが戻って来たのだと、目は閉じたままだが、しかしイタチは確信して思った。
 サスケが帰るなら今夜だ。六月九日。イタチの誕生日に誰よりも拘っていたのは弟だった。
 様子見に寝た振りをする。すると、中を窺っていたサスケは部屋にそっと入り、音もなく後ろ手で襖を閉じた。足音を忍ばせ、布団の傍らにまでやって来る。途中、彼も蛍の明かりに気が付いたようだったが、これといって気に留める素振りはない。イタチの狸寝入りさえどうでもいいようだった。
 夜の無音が密度を増す。布団の傍に腰を下ろしたサスケは、まるで幽鬼のようにしてぼんやりイタチを見つめたまま動かなかった。イタチはイタチでサスケの出方を待とうとした結果、目を開く機会を失ってしまっていた。蛍だけが瞼越しの真っ暗な宙でちかちか光る。
 やがてその光跡が兄と弟の間を横切った時、サスケはおもむろにイタチが眠る布団に手を差し入れてきた。中を探り、イタチの手に微かに触れたサスケの指先は火よりも熱い。反射的に動かしてしまいそうになる自身の手をイタチは理性で押し殺した。
 だが、そんな燃え盛る炎を身の内に抱きながら、サスケは相変わらず無感動だった。決まりきった型にあてはめるように探り当てた兄の手を布団から取り出し、自らの頬へと添えさせる。そうして、あろうことか慣れない手つきで自分自身の体の線を下へ下へと辿らせた。それは不器用ながら、男女が営む愛撫に他ならなかった。
 動揺が全くイタチになかったと言えば嘘になる。けれど、いつかはこうなる。イタチは予感めいてもいた。
 そのサスケの手に初めて僅かな躊躇いが生じたのは、服の上からだが、イタチの手が彼の下腹部に触れたときだった。小さく息を呑むサスケの気配が空気を微かに揺らしてイタチに伝わる。イタチの手を握る彼の手には緊張に張り詰めた汗がじわりと滲んでいた。
 思い止まり、引き返すか。イタチは期待したが、サスケはやがて意を決したように兄の手を自らの服の中へと導いた。
「ん…」
 直に触れるサスケの肌が火照っている。きめの細かいそれはイタチの手によく馴染み、吸い付くようだった。下腹から臍の辺りへ。臍の辺りから鳩尾、胸へ。兄の手に胸をまさぐらせるサスケの手つきが次第に妖しく大胆になっていく。その内、ついにイタチの指先が平らな胸の中でぷくりと膨れた肉芽を掠めた。
「ふ…」
 サスケの結んだ唇からが昂った息が密やかに漏れる。 
 限界だなとイタチは判じた。これ以上はよくない。
 目を開く。はじめに眸に映ったサスケはさほど驚いた風ではなかった。ただイタチの手を逃すまいとして、シャツの中でより強くそれを握る。兄に気付かれず最後まで一人で事を進めることなどできないとサスケも端から分かっていたはずだ。
「サスケ」
「…兄さん」
 身を起こす。光の尾を曳いて蛍はするりと窓から出て行った。頼りない朱の月明かりだけが二人の光の全てになる。
 サスケはイタチの置いた数拍の間を拒絶と取ったらしい。
「男はだめか」
 と言う。その肌の熱とは裏腹にサスケの眸は案外冷めて、落ち着いていた。
 そうじゃないとイタチは答える。
「それじゃあ、おれがアンタの弟だから、アンタがおれの兄貴だから、だめなのか」
「違う。そんなことはどれも些末なことだ」
 サスケが心底にイタチを求めるのなら、イタチはこの場でサスケを抱いてやってもよかった。だが、今のサスケはそうではない。心底に求めているのかもしれないが、イタチにはサスケが刹那的な情動に突き動かされているようにしか見えなかった。何より今はサスケ自身の心がイタチには見えない。心もその底も真っ暗な闇の中だ。
「じゃあ何故だ、兄さん。何故おれを抱けない」
 ぐいと膝を進め、身を乗り出したサスケは初めて内に籠る情欲を眸に宿らせた。実の兄の情けを欲して眸の黒が危うげにちらちら揺らぐ。肉欲の赤みを帯びた目許はサスケの身の切なさを何よりも強く訴えていた。
「体が疼くんだ、兄さん。おれの中に兄さんを感じる。おれのずっと奥に、深くに、兄さんがいて、そこではおれと兄さんが交わり合っているんだ。だが、足らない。こんなだけでは、全く足らない。おれは兄さん、兄さんが今すぐ欲しい」
 サスケは切羽詰まったようにイタチの手で再び胸を乱暴にまさぐろうとした。唇からは濡れた吐息が途切れ途切れに零れる。イタチの胸は痛んだ。こんな弟の媚態を目の当たりにする日が来ようとは、さしものイタチも思ってもみなかった。
「サスケ」
 イタチはやんわりと、だがきっぱりと首を振った。
「やはりそれはできない」
「……」
 一瞬、サスケのイタチを見つめる目が大きく見開く。それから、手を掴む力が弛んだ。するりとイタチの腕がシャツの内から落ちる。
 サスケは明らかに肩を落としていた。だが、傷付いた顔を見られまいと俯く。そうして、絞り出した声でぽつりと訊ねた。
「…どうしてだ」
「体だけを一時慰めて何になる」
 イタチは下を向くサスケの顎を手で取り、顔を上げさせた。月の細い光にもサスケの目の下の隈が更に濃さを増し、青白い顔色の中でいっそう浮き立っているのが見て取れる。きっとサスケはまた眠れていないのだ。イタチの推察が正しければ、サスケは眠ることに怯えていた。もしかすればずっと、幼い頃から。
「お前、本当はおれには話したくないことがあるんだろう」
 言うと、サスケの目が僅かにすいと横へ逃げた。許さず、顎を取る手に力を入れる。強引にもう一度こちらを向かせた。
「おれには話せないか」
「…アンタに話すことなど何もない」
「どうしても、いやか」
「話すことは何もないと言っている」
 サスケが苛立ち、鋭い怒気を声に孕ませた瞬間、彼の眸に映ったのはイタチの万華鏡写輪眼、三枚の刃の紋様だった。しまったとサスケは自らのしくじりに舌打ちをしたが、今更手遅れだ。逃げを打とうとした体も顔もイタチは力尽くで引き戻す。そもそも不眠により体力を落としたサスケでは万華鏡の月読はおろか、ただの幻術すら破れまい。
「あ…、あ…」
 ぐらりとサスケの視界が大きく歪む。体がびくんと痙攣し、やがて全身からはみるみる力が抜けた。その傾く体をイタチは受け止め、腕で支えてやる。
「お前は暫く眠るといい」
「いやだ…やめろ…」
 サスケがかぶりを振り、苦しげに喘ぐ。
 イタチは半ば虚ろになり始めた眸のサスケの背を抱いて、自身の布団へと横たえた。
 黄色い月。
 サスケが鬼のかくれんぼで、ずるいことをするイタチ。
 月はともかく、イタチが知らないイタチをサスケはいったい何処で見たというのか。知ったのか。
 眠ることを拒むサスケから導き出される答えは一つしかない。
 夢だ。
 サスケは夢を恐れている。
「兄さん、いやだ…」
 サスケの手がイタチの支配を拒もうと伸ばされる。
 イタチはその手を取り、抵抗を奪った。せめて指をしっかりと絡めて握ってやる。
「怖い夢は見せない。…ただ、その前に少し確かめさせてもらうぞ」
 幻術のため朦朧とするサスケも何をされるかは悟ったのだろう。イタチの万華鏡を映すサスケの眸がぐらぐら揺れる。
「あ…こんなの…、やめてくれ…っ、兄さん…ッ」
「許せ、サスケ」
「ぁう…っ!」
 イタチはいやがるサスケを強引に捩じ伏せ、彼の夢の中へと踏み入った。