1-3_繭の中、



 事態が急変したのは、数日後の夜、イタチが国外任務から戻ってきた日のことだった。
 今日の昼間、サスケが暗部への入隊を直訴しに来た。深夜、火影の執務室に任務報告のため訪れたイタチに告げられたのはそういうことだった。
「事前承諾も得ず、突然ここへ乗り込んで来おった」
 三代目直々の話にイタチは軽く息を呑む。と同時に辺りに人の気配がないか、素早く探りを入れた。
 そのことに気付いたらしいヒルゼンが首を振る。
「案ずるな、既に人払いは済ませてある」
 なるほど三代目の言う通り、執務室にもその外にも誰かが潜み、聞き耳を立てている様子はない。二人ともが口を閉ざせば、聞こえるのはぱちりと弾ける火立ての炎の音だけだった。小柄な三代目のその向こう、格子窓の外には今夜も赤い月が出ている。
「それで、サスケは」
 イタチの問いに、ヒルゼンは執務机に所狭しと積み上げられた紙の山の陰から火皿のパイプを引き寄せた。二度火を入れ、煙を呑む。
「お主の言い分はよく分かった。が、今すぐわしの一存だけでは決められぬ。そう突っぱねて追い返しておいた。周りの者はさぞ肝を冷やしたじゃろうな」
 三代目は軽く笑って口の片端を上げるが、肝くらい冷やすだろうとイタチは思った。たとえうちはと里の軋轢を知らずとも、火影は里長、火ノ国の軍務を預かる木ノ葉の忍組織の頂だ。いくら三代目が里の者たちに分け隔てのない気安い人柄だからといって、一忍に過ぎないサスケが火影に直訴したとあっては指揮系統が乱れる上、他に示しがつかない。逸脱行為は明らかだった。
「申し訳ありませんでした」
 乗り込んできたと三代目が言うほどだ。サスケのここでの振る舞いはだいたい想像がつく。火影への敬意と礼を大きく失した態度だったに違いない。
 だが、ヒルゼンはイタチの謝罪を半ばで制した。
「いやいや、お主を責めておるわけではないよ」
「ですが、サスケはおれの弟です」
 弟。その言葉を殊更強く言ったつもりはなかったが、口に出せばそうなった。
 僅かな互いの沈黙の後、三代目から溜め息とも唸りとも取れる声が漏れる。
 かつてプロフェッサーと呼ばれた老人の眦に深く刻まれた皺は、決して一枚岩とは言い難い里の船頭としての気苦労と寄る年波のせいだろうか。他里の影たちが次々に世代交代をする中、木ノ葉の里にも次期五代目の話がないわけではなかった。里の上役たちの間では、ヒルゼンの愛弟子であり伝説の三忍と謳われる自来也や綱手姫の名は何度となく上がっている。だが、今はそのどちらもが里を長く不在にしている上、綱手姫は初代火影「千手柱間」の直系だ。三代目でようやく千手の血統ではなく、その師弟の系譜まで火影の門戸が開かれたというのに、初代の孫娘が火影に就くとなれば縁故主義の復権だなどと、うちはが反発を強めるのは目に見えていた。
 今しばらくは穏健派のヒルゼンが里長を務めるだろうとイタチは踏んでいる。
「ともかく」
 とヒルゼンの吐いた煙が薄暗い部屋の天井の辺りまで燻る。
「サスケが乗り込んできたのがここであったのは幸いじゃった。ダンゾウの根の方に行っておったらと思うと、そちらの方がぞっとする」
 確かにうちはシスイの万華鏡写輪眼を奪い、かねてからうちはの監視を続けていたイタチに弟のサスケの身の安全と引き換えにうちは殲滅を持ち掛けてきたダンゾウだ。うちは根絶やしにサスケが利用できると判じれば、自身の組織である根に引き入れ、捨て駒扱いするだろう。うちはにはうちはの力で。里の安寧のため、うちはの排除を目論むダンゾウは、決してうちはの力そのものを侮ってはいないのだ。
 サスケが暗部の、それも闇深い根に近付く。それは言い換えればサスケが里とうちはの真実の姿へ近付くということだ。そして、「何も知らぬ弟だけは助かる道もある」、三代目が黙認し、ダンゾウがイタチと交わした密約が根底から揺らぐということでもある。
 うちは粛清。イタチが十三のとき里から下された命令には今も変更がない。そして、うちはが里との緩やかな融和を頑なに拒み、武装一斉蜂起の道を貫くのであれば一族滅亡も已む無し。イタチの覚悟も変わりはしない。
 だからこそ、イタチはサスケが暗部へ近付くことを恐れていた。
 真実を知ったとき、果たしてサスケは里とうちは、いったいどちらへ付くのか。
 サスケを斬って捨てる覚悟だけは未だ持てない。
 ヒルゼンのパイプから紫煙が細々と立ち昇る。ゆらゆらと定まらず身を揺らし、やがて掻き消えてゆくそれは、ひどく儚く頼りなげに見えた。
「このことを里やうちは、根は」
 イタチの問いにヒルゼンは首を振った。
「いや。知っておるのはここにいるお前とわし、それからお前の両親の四人だけだ。里としても、今回のことは内密に穏やかに収めたい」
 ヒルゼンの意を汲み、イタチは頷いた。
 うちはから、それも族長であるフガクの子から火影直轄を二人も輩出したとなれば、フガクの求心力は大きく低下する。里からすればフガクと集落を箍にし、うちはの不満分子を囲い抑え込んでいるのだ。その箍が外れればどうなるか。小勢力に分かれた幾つもの組織が無秩序に反体制活動を繰り返し、泥沼化の様相を呈している小国の内戦を見れば、火を見るよりも明らかだった。
 瞬身のシスイを七年前に失い、イタチもまた里に付いた。里そのものも第三次忍界対戦や九尾襲来の痛手から立ち直り、有望な次世代も育ちつつある。
 里とうちはの均衡は徐々に崩れ始めている。たとえうちはが里との融合を拒んだとしても、ダンゾウはともかく、里の上役の多くは今や強硬手段によるうちはの排除ではなく、均衡の果てにいずれ訪れるだろう「うちはの血」の静かな死を望んでいる。写輪眼など今いるうちはから取り出せばいいのだ。
「サスケは随分と思い詰めておった」
 ぎしりとヒルゼンが深く背を預けた椅子の背凭れが軋む。寄せた眉根にも深い皺が刻まれる。
「何故暗部に入りたいのかと理由を訊ねても何も語らん。イタチ。お主、何か心当たりはあるか」
 訊ねられ、ありませんとは答えなかった。
「…わかりません」
 と答えた。忌憚のない本音だった。
 サスケが何かを焦り、急いているのは分かる。だが、何をそんなにも焦り、急いているのか、イタチには分からない。
 一拍間を置いて、そうかとヒルゼンはゆったりと煙を吸った。
「今夜はお主も帰ってやるとよい。兄のお主にならばサスケも腹を割って話せることもあろうて」
「ご配慮、感謝します」
 そうは頷いたものの、果たして本当にそうだろうか。そうなるだろうか。それもイタチには分からない。
 今は「おれが疎ましいか」と問うたとき、素直に身を硬くし言葉を失っていた幼い頃のサスケがひどく懐かしかった。


 イタチが一族の集落に戻ると、既に辺りの家々は明かりを落とし寝静まっていた。ただ一軒だけ、ぽつりと小さな明かりを仄かに灯した家がある。
 その家の引き戸を開くと、奥から出てきたのはエプロン姿の母だった。普段なら疾うに眠っている時刻だろうに。
 家内は諍う声もなくしんとしていた。だが、どこかしら空気がぴりぴりと張り詰めている。それは落ち着いてはいるが、不安は隠せない母の面持ちに似ていた。
「イタチ…」
「話は三代目から聞いています」
 これまで表立って父と対立をしてきたのは長男のイタチだった。あからさまな衝突も何度となくあった。だが、次男のサスケはイタチやミコトには年相応かそれ以上の反抗を見せたこともあったが、父のフガクにだけは従順だった。そのサスケが初めて父親の意向に真正面から刃向っている。母が案じるのも当然だ。
 憂色を浮かべる母にイタチは頷いて返した。
「おれが様子を見てくるよ」
 背負っていた荷を一旦母に預け、家に上がる。
 サスケと父がいるのは察するに座敷の方だ。庭を望む縁側の雨戸は今は全て締め切られ、渡り廊下の薄闇は夜の海の底のように重苦しい。父母にお前は一族と里の中枢を繋ぐ役目なのだとイタチが告げられた数年前の夜も、幼いサスケはこんな息苦しい海をたった一人で泳いできたのだろうか。いつの間にかイタチとサスケ、立場が入れ替わってしまったなとイタチは思う。
 座敷に近付くにつれ、父がサスケを一方的に叱りつける厳しい声が聞こえてきた。何を言っているかまでは聞き取れないが、大方火影への身勝手な陳情など以ての外だとかそういう話だろう。いや、そういう切り口でしか父もサスケを叱責できないのだ。イタチと同じくフガクもまたサスケにはあらゆることを伏せている。
「サスケ!」
 障子戸が乱暴に開かれたのと、咎めるような父の怒声、それからイタチが座敷へ続く廊下の角を曲がったのはほぼ同時だった。
 引き留める父の声を振り切り現れたサスケは突然姿を見せた兄に多少驚いた様子だったが、すぐに視線を足下へと逸らした。伸びた前髪が彼の顔を隠す。表情は全くといっていいほど読めなかった。
「サスケ」
 俯いたままのサスケと対峙し、イタチは静かに切り出した。
「おれは釘を刺していたはずだぞ」
 それも何度も。
 しかし、サスケはそれらを自ら引き抜き、投げ捨てた。そのうえ、イタチとは口もききたくないのか唇をぎゅっと引き結んで黙り込んでいる。
「サスケ」
 やはり反応は何もない。そのあまりの手ごたえのなさに、ぴくりとも動かぬ強情さに、さすがのイタチも今夜ばかりは苛立った。
「ちゃんとおれを見ろ」
 暗部には近寄るな。
 繰り返し言って聞かせてきたのは里のためではない。誰のためでもない。イタチがサスケを何より大切に思うからこその諫言だった。私情といってもいい。
 何も知らないでいること。それこそが、名門うちはの誇りを胸にサスケがこの里で生きていくための唯一の方法なのだ。そして、イタチが父や母、一族と引き換えにやっと手に入れたただ一つの幸福の約束手形でもある。それなのにサスケはいとも簡単にこんなものは不要だと手放し、あまつさえ父や母、イタチの目の前で破り捨てようとすらしている。
 うちはは衰退をし始めた。しかし、里との根深い対立は依然として厳然と現実にあり、一触即発の火種はそこここに燻っている。あの最も危機的だった夜だって、当時偶然里とイタチ、双方の人質であるサスケがアカデミーに行くのを拒み、家にいたからこそ回避されたに過ぎない。二度目はないと誰が言える。
 何故分からない。
 いや、分からないのは仕方がない。
 だが、何故おれの言うことを聞かない。何故おれの言う通りにしない。
 イタチに積もるサスケへのもどかしさはいつもそこに尽きた。
「おい、サスケ」
「……」
「いい加減、なにか一言くらい返事をしろ」
 と、いつまでもこちらを見ない弟にイタチが僅かに気色ばんだ、その時だった。
「アンタに…」
 ようやく言葉を発したサスケが唇を震わせる。そして、
「アンタにおれの何が分かる!」
 突如鋭く振り上げられた顔、その怒りに見開かれた瞳にはうちはの血継限界、写輪眼の巴が刻まれていた。しかし、それ以上にイタチをぞっとさせたのは、彼の目の下に浮かんだ隈だった。この暗がりでもはっきりと分かるほど数日前よりもずっとひどい。もはや単なる寝不足では説明がつかないところまできていた。
「お前、それは」
 思わず伸ばしかけた手は音を立てて振り払われる。痛みよりも驚きの方が強かった。
「サスケ…」
 呼びかけたところで、どうにもならない。
 まるでイタチの心内を代弁するかのようにサスケが言うのだ。
「…アンタにおれの気持ちは分からない」
 失望と諦観。サスケの兄への赤い眼差しはそれらの色を濃く帯びていた。
 空気が重い。じとりと湿り、肌に纏わりつく。黒くくすんだ古い家の天井が今にも上から圧し掛かってきそうだった。 
 そんな長い二人の沈黙の対峙を打ち破ったのは、「うう」というサスケの突如漏らした苦痛の呻き声だった。
「くそっ…が!」
 痛みを堪えるように低く唸ったかと思うと、強弓に射貫かれたかのようにサスケの体がびくんと大きく痙攣する。
「サスケ、お前」
 異変に気付いて踏み出す。しかし、
「何でもない」
 両手で顔を覆ったサスケに来るなと拒まれる。
 じりじりと、距離にすればたった数歩のところで二人は互いに鬩ぎ合った。
 サスケは明らかにイタチから目を隠そうとしていた。だが、サスケの両目に宿る写輪眼。そこにくっきりと浮かんだ三つ巴が何かに引き摺られるようにずずずと廻り始める瞬間をイタチは見逃しはしなかった。
 まさかとは思う。しかし、可能性がないわけではない。
 あれはうちはの高み。万華鏡写輪眼、その片鱗だ。
「サスケ、おれによく目を見せてみろ」
 また一歩前へと出る。すると、近付かれることを恐れたようにサスケが半歩後ずさった。そして、
「おれに構うな!」
 どんっという強い体当たりは突然きた。咄嗟に避けられなかったのはイタチの落ち度だ。動揺があった。僅かの迷いが一瞬の判断を鈍らせた。
「…っ」
 曲がりなりにも中忍の体当たりをまともに食らって、よろめく。息が詰まった。それでも、すぐさま体勢を立て直し、脇を駆け抜けていくサスケに「待て!」と制止をかける。
 だが、サスケは両目を握るように強く押さえたまま脱兎のごとく廊下の角を曲がり、走り去ってしまった。戸が乱暴に開く音からして家まで飛び出して行ってしまったのだろう。
 追いかけなければ。イタチも踵を返す。しかし、
「放っておけ」
 背後からイタチを止めたのは父のフガクだった。息子たちのやり取りを聞いていたに違いない。
「あいつも中忍だ。もう幼いだけの子どもじゃない」
「ですが、父さん」
 振り返り、食い下がる。
 父は小さく首を振った。
「頭が冷えれば戻って来る。それに、どうせ里の外には出られまい」
「……」
 監視が付くのだろう。それも、かつてイタチにシスイが付いたような、うちはによるサスケへの監視が始まる。
 イタチは憤りの溜息を密かに吐いた。火影直轄の暗部を望むサスケはうちはにとって危険分子になってしまった。避けたかった事態だ。群れから爪弾きにされ、はぐれるのはイタチ一人で十分だったというのに。
「…父さん」
 イタチは改めて父に向き直った。今更追いかけたところで、忍の足だ、サスケもすぐには見つかるまい。
「サスケはまだ何も知らない。頭ごなしに言ったところで納得できないのは当然です」
 だが、それは父を責めた言葉ではなかった。
 アンタにおれの何が分かる。
 アンタにおれの気持ちは分からない。
 サスケの訴えが苛むのは他でもないイタチの胸だ。あの失望と諦観の眼差しは泣き顔にも見えた。
 何故そんなにもお前は暗部に拘る。
 果たしてイタチはこれまでサスケにそう訊ねてやったことがあっただろうか。腹を割って話してやったことがあっただろうか。
 たった一言だったというのに、真実を知ることがサスケに不幸をもたらすと思い込むあまり、イタチはサスケと真正面から向き合うことをしなかった。あしらって取り合わず、近寄るなと門前払いを繰り返し続けた。ただ遠ざけていたに過ぎない。
 サスケはもうずっとはぐれていたのだ。爪弾きにされていたのだ。他の誰でもない、サスケを想うイタチによって。悔しくないはずがない。寂しいと思わないはずがない。
「何も知らない方が幸せな時期はもう疾うに過ぎていたのかもしれんな」
 ぽつりと父が呟く。
 頷きはしなかったが、その通りかもしれないとは思った。
 雨戸を開く。見上げれば、月が出ていた。赤い月だ。
 だが、妙な違和感があった。
 疑ったことなどない。月は赤いものだ。しかし、人はみな思い込みの中で生きている。
 長らく塞がれていた水路が開いて渇いた砂地に水が染むように、イタチの胸の奥をある疑義がじわじわと浸食した。
 サスケは本当に何も知らないのだろうか。
 いや、サスケが何も知らないなど、いったいいつ思い込んだのだろう。
 実のところ、何も知らないのは、繭の中で眠っているのは、サスケではなく、おれの方なのではないか。
 イタチだけが思い込みをしないなど、有り得ないのだ。
 夜風がぬるりと逃げていった。