1-2_繭の中、



 と、そういうもう十年以上も昔のことをふと思い出したのは、イタチが火影への報告を済ませ、執務室を辞したその回廊の果てに静かに佇む弟の姿を見つけたからだった。
 窓から差し込む斜陽は赤い。彼もまた今日の任務を終えた帰りなのだろう。木ノ葉の額宛と中忍の装備を纏っている。
 イタチは床に伸びる弟の影の手前で立ち止まった。
「おれを待っていたのか」
「…ああ」
 そう微かに頷くサスケの顔色は優れない。目の下にはうっすらと隈が浮いている。
「あまり眠れていないのか」
 イタチが弟の暗い頬に手を伸ばすと、その手は途中でやんわりと払われた。
「今日の任務は朝が早かっただけだ。支障はない」
「そうか。それならいいが」
 自然、会話が途切れる。遠くの足音は火影に仕える忍のものだろうか。やけに大きく響いた。
 この頃のサスケは少し様子がおかしい、とイタチは感じている。
 こうしてこちらが傍に歩み寄ろうとすれば後退りをするくせに、家の戸や集落の門の前で、そして今日はついにこの火影棟までやって来てサスケはイタチの帰りを待っていた。かといって取分け用があるようにも思えない。今もサスケは何を切り出すでもなく、イタチの顔や出方を窺っている。
 治りきらない風邪のようなものだ。イタチは思う。サスケの様子がおかしいのは何も今に始まったことではない。
 特に八歳の時分はひどかった。何かに怯えたように始終イタチと一緒にいたがり、挙げ句あんなにも楽しみにしていたアカデミーですら一時は通うのを強く拒んだ。親しかったうちはシスイの自死や兄と父の対立が家内で表面化した時期でもある。元来繊細なうちはの血を色濃く継ぐサスケは幼いながら、いや、幼いからこそ余計深く純粋に何か感じるところがあったのかもしれない。
 ところが一転、イタチに対し余所余所しく、また粗野になったのは十三の頃のことだった。両親は同じ十三の年の頃には既に暗部へ上がり、分隊長を務めていたイタチと自らを比べたうえでの劣等感からくる反抗期だろうとさほど深刻ではなかったが、何かにつけ牙を剥かれるイタチにとっては本当のところ、たまったものではなかった。閉口することもしばしばあった。だが、同世代の仲間や教師に恵まれ、下忍となり任務をこなし成長する弟の姿を見守る内に、もう兄ばかりを慕って付いてくる年頃でもないのだろうなと納得をしていた。
 それがイタチの二十一の誕生日を前にした今、再びサスケの長患いの風邪がぶり返し始めている。
 無愛想な物言いは相変わらずだが、あれだけ噛み付いてきていたのが嘘のように任務さえなければサスケは明け暮れイタチの傍から離れない。三度目の風邪は何処か八歳の時のそれに似ていた。
「兄さん…?」
 いつまでも黙ったままの兄を不審に思ったのか、サスケが眉をしかめる。イタチはその何処か仄暗い水を湛えたサスケの瞳を思いやった。口許を意図して緩める。
「いや、何でもないよ」
 いつまでも小さな弟だと思っていたサスケももう中忍だ。責務ある隊長として一隊を率い、重要な任務を負って国内外へ派遣されることもある。忍ゆえに兄にすら腹を割って話せない不安や悩みもあるだろう。イタチでさえ暗部に召集されて間もなくの頃は、胸につっかえ抱えたわだかまりを和らげたくて、アカデミー帰りのサスケの顔を迎えに行く振りで見に行っていた。
 話すことはできない。けれど、ただ会いたい。その気持ちはよく分かる。
 イタチは軽くサスケの背を押した。
「帰ろうか」
「ああ」
 今度は拒まれなかった。


 火影棟を出て、二人が連れ立って歩く日暮れの里は賑やかだ。大人も子どもも、忍もそうでない者たちも皆一様に優しい杏色に包まれ、今日の家路を急いでいる。もうすぐ夕餉の時刻だ。きっと二人の母も今頃ことことと鍋が鳴る台所で忙しく立ち働いていることだろう。
「最近は忙しいのか」
 イタチは隣を歩くサスケに訊ねた。やはりどうにもその横顔に影を落とす目の下の隈が引っ掛かる。胸がざわつくのだ。こんなにも美しい夕焼けの中だからこそ、ひどく、余計に。
 だが、サスケはひとつも気にした風がなかった。
「別に。普通だ。…それにアンタの方がよっぽど家を空けている」
 その僅かに責めを含んだ物言いにイタチは苦笑した。なるほど、サスケの指摘は尤もだ。
「そうかもしれないな」
 イタチの所属は火影直轄の暗殺戦術特殊部隊だ。里内の秩序を司る警務とも、外貨を稼ぐため国や個人の軍役や依頼を受ける里の多くの忍らとも性質を異にする。そのような部隊に身を置くイタチが多忙な訳をサスケが察せられないはずがない。もしかすればサスケはこの頃家を空けることの多い兄を通して忍び寄る禍の足音を聞いているのかもしれなかった。
 その折、アカデミー帰りの子どもたちがわっと歓声を上げ、二人の脇を過ぎていく。夕風に乗り空を渡る雁も烏ももう森の寝床へ帰る頃だ。
「いい夕暮れだな」
 イタチは茜の空を見上げて言った。そうだなと風に吹かれたサスケが同意する。
 だが、世界はこの里ほど幸福ではなかった。
 大国間の戦火に踏み荒らされた小国では今もなお局地的な紛争が続き、その大国ですら初代火影によって講じられた尾獣均衡の上に形だけの和平を結んだ、それだけだ。それだけの平和だ。
 現実の歪みは既にこの夢のそこここに潜み、ふとした拍子に顕在化する。そのうえ、それは何も大国間の戦争だけではなかった。
「お前も知っているはずだ」
 話を向ける。すると、サスケは周囲を憚って声を落とした。
「十五年前の九尾襲来か」
 ああ、と頷く。
 丁字路の角を曲がれば、うちはの集落へ続く小道だった。途端、人通りはぱたりと途絶える。サスケは先程よりも鋭い声を吐いた。
「だが、それが兄さんが帰らないのと、…いや、暗部に何の関係がある」
 西日が差した。川沿いの道に遮るものは何もない。南賀ノ川の土手に二人の影がいっそう濃く長く伸びる。
 イタチは静かに口を開いた。
「お前はあの災厄に二度目はないと言えるのか」
「それは…」
 返せる言葉のないサスケの肩が僅かに沈む。
 今この里で九尾の人柱力を務めるのはサスケの友人の少年だ。サスケにとっては耳障りな話だろう。しかし事実、厳しい箝口令が敷かれているため明かしてやることはできないが、既にある組織によって人柱力が拐われ、尾獣が奪取された里もある。木ノ葉の九尾が狙われるのも最早時間の問題だ。
 だが、イタチは唇を強く結んだサスケのため、そしてどうせ本当のことは全て言えやしないのだから、努めて気軽に振る舞った。
「そう深刻になるな、サスケ。おれも少々脅して言い過ぎた。ただ先々を見据え様々備えをしておくのもまた暗部の務めだということさ」
「暗部の」
「ああ、そうだ。だが、そのせいでお前との時間が取れなくなっているのは悪いとも思っている」
「…いや、おれが出過ぎたことを言ったんだ」
 困らせて悪かったと素直に謝られ、イタチは苦笑した。
「そう突然殊勝になられると余計に困るな」
 サスケには言ってやれないことが多いからこそ、兄としてまだ残る良心が少々痛む。
 狩られた尾獣。
 尾獣を狩る組織、暁。
 そして、もう一つ。これもサスケを含めた里に住まう多くの人々には伏せられているが、十五年前のあの日、同じく先代の人柱力から引き摺り出され奪われた九尾の瞳には、確かにうちはの血継限界である写輪眼の巴模様が浮かんでいたという。あの恐ろしい夜、九尾は操られていたのだ。人為的に、それもうちはの人間によって。
 かつて忍世界を二分し、世界の覇権を争った千手一族の純粋な力が細胞培養という形でしか存在しない今、うちはの強力な幻術に対抗できるのは、同じうちはの瞳術だけだ。
 里の中枢からは密かに嫌忌されていたうちは一族であるイタチの暗部召集には、里への間諜という一族の思惑の他にもそういった里側の訳もあって実現したことだが、その暗部への入隊をサスケが口にし始めたのはいったいいつの頃からだったろうか。もう朧気だ。しかし、普通は里長である火影や父がいるからといった無邪気な理由で警務部隊に憧れを持つものだろうに、小さな頃からから、それこそイタチが暗部入りを果たした頃から、サスケは暗部への強い思いを募らせていた。
 今もまたそうだ。
「おれはいつ暗部に召集される」
 うちはの集落を前にサスケが足を止めた。イタチも少し行って立ち止まる。溜め息が出た。
「またそのことか」
 やや滅入る。サスケのそれはこれまで幾度となく繰り返されてきた問いかけだった。そして、いつだって返せる答えをイタチは持たない。
 サスケは里の創建から長く続くうちはと里の軋轢を知らない。誰からも知らされていない。だが、暗部入りを果たしたイタチが一族の男らにクソガキと罵られ、以来同じうちはから猜疑と恐れの目を向けられ疎まれていることは肌身で感じているはずだ。だからこそここで、集落の出入りの門まであと五分ほどの人気のないこの小道で、わざと話を切り出したのだろう。
 それに、集落の中で表立って口にすることじゃない。サスケが暗部暗部と言う度にイタチはそれとなく釘を刺してきた。
 事実、暗部というところは里という大樹を生かすため、時には小枝を切り落とし、時には不要な木々を間引いてしまう、そういう部隊だ。倫理や道徳、人道などといった正義は存在しない。介在してはならない。ゆえに、こちらが暗部と知れば同じ木ノ葉の忍であっても一線を引く者は多かった。里に警戒されていると自覚のあるうちはの者なら尚更だ。
「おれには何が欠けているんだ」
 日没が間近に迫り、サスケがよりいっそう憤る。体の横できつく握られた拳は微かに震えていた。
「サスケ」
 イタチが言外にその話はよせと諌めても、一度形にしてしまったサスケの吐露は止まらない。身を乗り出して一歩を踏みしめる。砂利の道が互いをすり潰して音を鳴らした。
「アンタは十二で入隊し、十三で分隊長にまでなった。おれはもう十五だ。アンタが入隊した年齢は疾うに越している」
「…年齢が問題なのではない」
「じゃあ何だ」
 サスケが顔を上げる。彼はイタチを責めているのではなかった。ただ遣り処のない持て余した憤懣をぶつける相手を目の前に探していた。渇いた地面に吐き捨てるように激情を迸らせる。
「おれはアンタと同じ中忍で、任務は里が望む通りにこなしている。写輪眼だって開眼した。十二の頃の兄さんと今のおれを比べていったい何が足りない。何が劣っている。遜色はひとつもないはずだ。そうなるようにしてきた。おれはずっとそうなるように、そうしてきたんだ」
 サスケの全身から手負いの獣のごとき切迫感すら孕んだ気勢が立ち昇る。然しものイタチも些か気圧された。ここまでサスケが身の処遇に対して激しく言及するのは初めてのことだった。
 サスケの背後で黄昏が真っ赤に燃えている。そのせいで彼の顔には、胸には、腹には、暗く拭いきれない影がある。
 イタチは慎重に言葉を選んだ。
「傲慢になるな、サスケ。何もかもが全て思い通りにはいかないものだ」
 遠い森で一羽の蝶が羽ばたくだけでも明日の世界の何処かは変わってしまうのだ。どれだけそうなるようにしたとしても、そうならないときもある。最善が常に最良になるとは限らない。
 だいたい暗部というところはサスケにとってはひどく不向きな部隊だとイタチは思っていた。感情に揺さぶられやすいうちはにあって、どちらかといえば合理的で冷淡とも取れる兄のイタチとは異なり、弟のサスケは一族の気質を色濃く受け継いだ。なかなか表に出そうとはしないが本来は心根の優しい少年だ。何も知らないからこそ培われた正義もある。
 果たして彼の正義は芽吹いたばかりの小枝を切り落とすことはできるだろうか。不要だからといって命を伸ばす木々を間引けるだろうか。不条理に目を瞑り、理不尽を黙って胸に仕舞えるだろうか。
 父や母に手を掛ける覚悟はあるだろうか。
 長引く風邪を抱えるサスケにそれらができるとは到底思えない。
 よしんばサスケの風邪が治ったとして、だが彼には、イタチにはあって彼には決定的に足らないものがひとつある。それは、イタチにとってのサスケが、何も知らない弟がいないということだ。
 サスケは暗部にはなれない。どれだけサスケ自身が強く望もうとも里がうちはサスケを選び、信頼することはないのだ。
「お前はまだ若い」
 なおも食い下がろうとするサスケをイタチは静かに諭した。
 一方で憮然とするサスケとの間には何か大きな隔たりがあるとも感じる。イタチがサスケに全てを言えないのと同様に、サスケもまたイタチには明かしていない隠し事がきっとある。
 だから、こんなにも伝わらない。届かない。イタチの言葉は全てサスケに辿り着く前にその見えない壁に阻まれて、失速し、地に落ちてしまっている。
「何をそんなに焦っている」
 それでもイタチは問うた。
「暗部だけがお前の道じゃない。模索する時間は」
 ある。
 そう言いかけたイタチをサスケが鋭く遮った。
「そんなものは、もうねえよ」
 ただその声音には先程までの激情はなかった。平淡だった。だからこそ、底のない不気味さがある。
「おれはもうすぐ十六で、アンタはあと数日で二十一になっちまう」
 写輪眼の発動もなしにサスケの眸は黒く爛々と光っていた。その眼光の陰鬱さにイタチは言いようのない胸騒ぎを覚える。六月だというのに薄ら寒かった。
 ともかく、頭ごなしの否定は何かの焦燥に駆られているサスケをより崖の近くへと追い詰めるだけだ。イタチはなるたけサスケに歩み寄ろうと腐心した。
「聞け、サスケ。何事にも天の時というものがある」
 だが、やはりどう言い尽くそうとも、イタチの言葉は二人の隔たりを越えられない。
 サスケの視線はふいと遠くへ投げられる。
「その天がいつまでもおれの時を定めないのなら、おれが動くまでだ」
 それきり、サスケは口を閉ざしてしまった。