お盆だからって幽かな兄さんが帰ってきました



■終わりの始まり

「サスケ、お前明日は休んでもいいぞ」
 火影への任務報告を済ませ、その執務室を出ようとしたところで呼び止められ、言われたことがそれだった。
 足を止め振り返る。部屋にも、そして溢れて崩れそうな紙の束にも外からの夕暮れ色が染みている。
「なぜだ…?」
 ここ数日続いた単独任務で失敗した覚えはない。おれと兄さんが組んでいるのだ。くだらない失態など犯すはずがない。
 だが五代目の言はそういったことではなかったようだ。
 ここのところおれと交代し休暇を取っていた連中が続々と任務へ戻ってきたと言う。
「比べてお前は出突っ張りだろう。人手不足とはいえ悪かったな。明日はゆっくり休め」
「…了解した」
 執務室を出る。
 イタチは外で待っていると言っていたから、玄関先か門柱の傍にでもいるのだろう。
 のろりと歩いた。
 家族と過ごすため取ったという休暇が終わる。それで、ああこのお盆ももうじき終わりなのだと思った。無論、前々から知っていた、当たり前に訪れるただの一日だ。けれど、今改めておれは「終わり」を感じている。 
 胃がきゅっと絞られる。手を当てた。握る。感触がある。おれにはある。けれど兄さんには…。
「…兄さん?」
 階段を下り、誰もいない玄関を見渡す。そう、誰もいないのだ。兄さんもいない。
「兄さん」
 がらんとした物音のない玄関を小走りに抜け、門を潜る。
 二・三日前まではぱたりと人通りの絶えていた木の葉の道は、漸くいつもの賑やかさを取り戻したようだった。お盆も終盤に差し掛かり、露店や商店が店を開け始めているからだろう。行き来をする人々にも忍装束の者が多く混じるようになる。
 だがやはりその中にも兄さんの姿は見つからない。
「…っ」
 顔を左右へ遣る。
 気配を探る。
 耳を欹てた。
 だが、いない。イタチが、兄さんが、おれを待っていると言った兄さんがいない。
「兄さん!」
 思わず声を上げた。
 道を行く幾人かがぎょっとしておれを見たが、知るもんか。
 おれの声が聞こえたなら返事をしてくれ、兄さん。
 そう願った、その時だった。
「サスケ、こっちだ」
 声は意外なところから降ってきた。
 先ほどまでいた火影の執務室の上、その屋上に人影を見つける。
「兄さん」
 急ぎ取って返し、開いた屋上の扉のその向こう、イタチは鉄柵に凭れるようにしておれを待っていた。
「なんでこんなところに…」
「外で待っていると言っただろう」
 やっぱりおれたちは擦れ違ってしまうようだ。
 言葉一つでさえ互いに取り違え、待ち合わせても待ち合わせてもなかなか会えない。
 また胃が萎む。
「報告は済ませたのか?」
「…ああ。明日は休みだ」
「そうか。休息も偶には必要だ」
 兄さんは立ち尽くしたおれに背を向けた。
 風が吹く。秋の気配を連れた涼風だ。おれの前髪が揺れる。だが兄さんの長い髪はそうはならない。そうなればきっと美しいのだろうけれど、そうは決してならない。彼は本当はもうこの世にはいない、幽霊なのだから。
「ここからの眺めはいつまでも美しいな」
 イタチは夕焼けに包まれた里にそっと目を細めた。
 その体が夕日に透けてきらきらと眩しい。そうしてその向こうにはずっと長く里の道が続いている。
 まるで灯籠流しだ。
 佇む兄さんにそう思って、そう思ったことがこんなにも胸の痛みを呼び起こす。
 見ていられなかった。
 おれは「そうかよ」とだけ否定めかして呟き、後はふいと目を逸らす。
 それでも兄さんが少しだけ振り返ったと分かったのは、その声がまっすぐにおれに向かっていたからだ。
「おれは好きだよ、サスケ」
「……」
 おれも。
 おれも好きだよ、兄さん。兄さんのことが。誰よりも。
 ねえ、いつ帰るの?
 子どもの頃あんなにも聞きたがったことが、今はもう口に出来ない。


■朝になったら

 表題を隠しながら本を読むというのはなかなか骨が折れる。
 おれは早々に座って読むのを諦め、ベッドに腹這いに寝そべりながら今日の買い物の帰りに図書処で借りてきた本を捲ることにした。
 五代目の計らいで取れた久しぶりの休日は朝から何ら変わりなく過ぎていった。相変わらずイタチはおれの生活にあれこれと口を出し、朝から掃除洗濯片付けを終わらせたと思ったら、今度はやっぱりスーパーに買い出しに行こうと言われ、帰って来たら来たで早速作り置きのものも含めて一日中二人で料理ばかり。
 夕食と風呂を終えるころにはもう夜もすっかり更けていた。
 だが口煩いイタチの小言はまだ頭上で続いている。
「サスケ。正しい姿勢で読めよ。目が悪くなるだろう」
「おれの目は永遠の万華鏡写輪眼だから問題ない」
 視力は落ちないはずだ。たぶん。
 それでもああだこうだと言う兄さんにいい加減虫を払うように頭の上で手を振る。
「ああもう。うるさい。静かに本くらい読ませろ」
「読書は感心なことだ。だがまずはすべきことを済ませてからにしろ」
 まだ明日の任務の準備もしていないだろう、とか、
「アンタはおれの母さんか」
「何言ってる。おれはお前の兄だ」
 莫迦だなと真面目な顔で返されるのが腹立たしい。
 おれはばたんと音を立ててそこそこ分厚い本を閉じた。すると、すかさず「こら、扱いが乱雑だぞ」と咎められる。
「……」
 胃がじくじくと痛んだ。熱くて、痛い。気持ち悪い。胸になにか重くて黒い塊が圧し掛かり沈んでくるような気分だった。
 なんだよ。わざわざあの世から来ておれに言うことはそれかよ。そういうことばっかりかよ。
「…うっせぇ」
 おれは苦しい胸の内を明かすように吐き出した。
 だが震えるような細いその声は兄さんには届かなかったらしい。
「なんだ?聞こえない」
 聞き返され、次は思わず大きな声が腹から出た。
「うるせぇって言ってんだ!」
 跳ね起きる。
 腕に当たって滑り落ちた図書処の本が兄さんの足許で小さく呻いた。
「お前が煩くさせているんだ」
 兄さんは拾い上げようとして、だがそうはできない。
 何故なら彼はもうすぐあの世へ帰る幽霊なのだから。
「…っ」
 灯籠流し。
 昨日の夕日に透けた兄さんの姿がフラッシュバックする。
 おれはまだ訊けていない。兄さんがいつあちらへ帰るのか、まだ訊けていないのだ。
 だが薄々は気が付いている。お盆が終わる。兄さんはいなくなる。
 迎え火はちゃんと焚けよ。そう言った兄さんがもう随分と遠い。帰って来てまだ一週間も経ってはいないのに。
 ずきりとした。
「…ごめん」
 おれは謝った。だがそれは兄さんを「煩くさせている」ことへの謝罪なんかじゃない。
 はっきりとは自分でも解らなかったが、こんなバカバカしいやり取りで、けれどこんなにも悲しい気持ちで、こんなままの二人で、終わりを迎えてしまいかけたことが申し訳なかった。
 イタチはおれが借りた本の表題を知ったことだろう。里の風習風俗についてだなんて本当に退屈な内容だ。借り手の少ないそいつを拾い上げる。
 そしてそれを枕許に置く代わりにおれはベッドに座り直した。
 イタチが隣に降りて来る。
 すると目の高さくらいにちょうどある彼の肩が「預けてくれてもいい」と言っているみたいで、おれは少しだけ兄さんの幽体に額を寄せた。
 乗っけたいけれど、乗っけられない。
 けれどあの時のように額を合わせ、抱き締めるみたいにされる。
「…兄さん」
「うん?」
「今夜は眠りたくない」
 しかし兄さんは「だめだ」とやっぱり最後まで年長者らしかった。
「お前は忍だ。休息は取れるときに取っておけ」
 さあベッドに入れと言われる。
 いやだ、と口にすればまた喧嘩になってしまいそうだったから、おれは仕方なく兄さんに従ってベッドに体を横たえた。
 タオルケットを引っ張り上げ、電灯を消す。
 ベッドの半分はもう兄さんのものだ。
 向かい合って額を合わせたら、兄さんの手がそっとおれの瞼を撫でていった。
「こら、サスケ」
「ん…」
「目を瞑らないと眠れないだろう」
 おれが?
 それとも兄さんが?
 訊けない。代わりにゆっくり瞼を下ろす。
「なあ兄さん…」
 おれは兄さんに体を寄せた。
 兄さんはそんなおれに「いつもの強気はいったいどうしたんだ」と、ふふと笑う。
 だが構わなかった。
 兄さんの輪郭を確かめるように手のひらを滑らせる。暗闇の中でも、閉じた眸の中でも、彼のことが見えない日はなかった。
「アンタをおれに入れて」
 深くまでアンタをおれに入れていって。
「……」 
 なあ、兄さん。
 明日はおれちゃんと送り火を焚くよ。
 そして今後こそ上手にさよならをアンタに言うんだ。
「だから。にいさん、」
 おれにアンタを…。
「あ…」
 吐息は夜の底で途切れた。


■さよならだ、兄さん

 翌朝、目を覚ますと隣に兄さんはいなかった。慌てて自分の体を探ったけれど、兄さんが入っている気配はない。部屋にも何処にもいない。返事もない。
 ただテーブルに作った覚えのない二つのおにぎりと書き置きを見つけて、そうか兄さんはもう行ってしまったのかと疑いもなく理解した。
 明け方おれの体に入って結んでいったらしいおにぎりを手に取る。頬張ると母さんの味だった。
 朝は米食にしろ。書き置きの一行目に「うっせぇ」と昨日と同じことを繰り返す。
 それから「顔を合わせ辛いからもう行く」と綴られていた。
 きっと兄さんはおれが送り火を焚こうと思っていたことも、でも焚かなきゃならないと何処かで思っていたことも、分かっていたのだろう。
 いいんだ。
 兄さんに一方的にさよならをされるのはもう慣れている。そうして、おれからはまだちょっと言えない。だから、これでいい。
 また来年。
 そう思い、二口目を頬張っておれは胃の違和感に気が付いた。
「…?」
 おかしい。おにぎりの一口や二口でここまで腹が膨れるわけがない。
 それにこの胃の圧迫感。重さ。胸のむかつき。
 はたとしておれはごみ箱を漁った。
 すると、予想通り甘栗甘の団子をはじめ、この一週間で兄さんに強請られ「アンタ、どうせ食えないだろうが」「雰囲気だ、雰囲気」というやり取りを経て買わされた甘味ものの残骸(勿論ひとつ残らずきれいに食べられていた)が山のように発掘された。
 顔を合わせ辛い。
 しれっと書かれたイタチの走り書きを思い出す。
 く…っ、
「くそがぁっ」
 おれはチャクラを練り上げながらベランダに駆け出した。
 夏のよく晴れた青空に向かいすぅと息を吸い胸を膨らませる。
「火遁・豪龍火の術!!」
 来年こそ覚えとけ…!
 だからまた必ず来やがれよ、兄さん。
 おれからの送り火はきっと天まで届いただろう。