18 噂の話



 体育祭はついに佳境を迎えていた。
 都会に立地しながらも優に一周二百メートルを取れる運動場をぐるりと囲んだ生徒らの熱気が秋晴れの空に沸き上がり、その叫びにも似た声援が学校という閉じられた空間を埋め尽くしている。
 今ばかりは競技の準備に一日追われた実行委員たちもその手を休めて立ち止まり、運動場の中心、生徒らの大声援を受ける競技の行方を見守っていた。
 男女混合六百メートルリレー。例年最終競技に位置付けられる体育祭の花形は、無論それに相応しく入る得点も大きく、クラスの順位を左右する、いや決定付けるといっても過言ではないだろう。
 サスケのクラスとて例外ではない。ここまでの競技を終え、現在の順位は二位。一位の五組とは僅差だった。十分に逆転が狙える。
 だが、やはりどのクラスも足に覚えのある者を揃えてきていた。サスケと同じくバトンを待つトラック内に並ぶ面々は、サスケのクラスと抜きつ抜かれつを繰り返してきた暫定一位の五組も含め、陸上部や運動部を中心とした磐石の顔触れだ。
 サスケは各競技終了ごとに校舎の窓に貼り出される点数を見上げた。
 逆転は出来る。だがこの競技を必ず一位で終えなければならない。
 その折、わっと歓声が上がった。
 視線をサスケらが待機するトラックの対角線上へと振り向ける。ちょうど各クラス第三走者から第四走者へとバトンが渡るところだった。
 サスケのクラスの女子は三番手でリレーゾーンを駆け抜ける。
「厳しいね」
 と言ったのは第二走者を務めた水月だった。
 既に半周百メートルを走り終えた彼は何処か他人事のような調子だったが、しかしその彼が快足を飛ばして最下位争いから順位を三位までを押し上げたのだ。
 第一走者の女子が第四走者を見送り、こちらへ駆けて来るのが見える。
 クラスの第一走者を任されるほどの彼女だ。本来は彼女が先頭を切ってリレーゾーンへとやって来るはずだった。だが彼女は初めのコーナー争いに競り負け、転倒した。それでも素早く立ち上がり、擦れて血の滲む足で最下位から懸命に四位の背を追い、彼女は走った。走り切って水月にバトンを繋いだ。
 やって来た彼女は声を上げて応援をすることはなかった。サスケらの傍へ来ることもない。自分にはその資格がないとでも思っているのだろうか。ただ一心に胸の前でぎゅっと手を組み、第四走者の友人をひたと見つめている。
 その大きく見開かれた眸からは、今にも涙が零れてしまいそうだった。
 ふいと視線を外す。
 慰めはしない。
 それにはまだ早い。まだ終わってはいないのだ。
「頼んだよ、サスケ」
 歩き始めたサスケの背に水月が言った。
 だが、サスケは振り返らなかった。ただ「おう」と応えて、トラックへと向かう。
 サスケと共に走る最終ランナーたちは、それぞれの第四走者のバトンだけを見据えていた。


 一周ある。
 サスケは隣を駆け抜けていく五組のアンカーの風を感じながら考えた。
 まだ一周、二百メートルが残されている。最終走者のみに許された距離だ。
 二位のクラスがリレーゾーンに駆け込んで来る。だが、ほぼ同時にサスケにバトンを繋ぐ第四走者も飛び込んで来た。必死の形相だ。顔を赤くし、息を上げ、足は縺れかかっている。
 やや失速。
 それに気付いたサスケは彼の耳に届くよう怒鳴った。
「走れ!」
 彼が二位との差を詰め走ったのだ。ここでスピードを殺しては無駄になる。
 サスケもまた駆け出しながら背に手を差し出す。ほぼトップスピードで行く。リレーゾーンが途切れる。その寸前、手の中に練習中何度も握ったバトンの感触が確かに強く響いた。
 間に合った。いや、間に合わせた。彼が。
 落とさない。しかと握る。
 ぐんぐんと背後になる第四走者の彼が何かを叫んだ気がしたが、それは彼自身の荒い息に掻き消され、或いは言葉の形にすら最初からなっていなかったのか、霧散した。
 だが、「頼む」。彼はそう言いたかったはずだ。
 サスケは走った。スピードを上げる。
 まず第二コーナー手前で二位の走者を危なげなくかわした。一瞬競ったが、それもかわしてぐいと前へ踏み出る。抜けない。負ける。そう僅かにでも思ったのが相手の敗因だ。あっという間に三位に後退した彼の気配が遠ざかる。
 だが、五組の背はまだ先だった。
 コーナーをほぼスピードを落とさず曲がり切り、直線に出る。
 視界がぱっと開けた。各学年クラス対抗式を取るため、毎年それぞれに趣向が凝らされる応援旗がトラックに鮮やかな原色の花を咲かせている。一際大きな歓声はサスケのクラスからだろうか。
 声の大渦が押し寄せる。その波を切り裂いてサスケは真っ直ぐに走った。ただ走る。走る。五組の背中を追って。


「意外だね、サスケがこういうのに熱くなるなんてさ」
 水月がそう言ったのは、体育祭も迫る一週間前のことだった。たった今解散の合図が出た早朝自主練習はリレー選抜が決まった一ヶ月前から続いている。
 吹き出した汗が項を流れた。三百メートルを三本。さすがに息も上がる。
「たかが学校の一行事だろ」
 差し出されたペットボトルの封を切りながら、それそのままをこの同級生に、いや同じリレーチームのこの第二走者に言い返せるのじゃないかと思った。つるむがいつも何処か飄々とした風の水月は、不平を山ほど口にしながらも、だが早朝練習を欠かしたことがない。それを指摘すると彼は肩を竦めた。
「サスケがやるって言うなら、ボクもやらなきゃな。って、思っちゃったんだよね」


 確かに水月の言う通り、たかが学校の一行事だ。
 だが、それは負けてもいいという理由にはならない。頼まれ、引き受け、任されたのだから。そう思う。
 第三カーブ。
 ついに五組の背を捉える。
 単純な足の速さではサスケの方が上だ。けれど、ここまで彼を上回るスピードで走った疲労が一足ごとに蓄積されていくのを感じる。ドクドクと胸の内で跳ねる心臓。上がる息。苦しい。苦しい。
 だが、まだいける。この時のため三百を繰り返してきたのだ。まだいける。全力でいける。
 しかし、残された距離は四分の一すら切っていた。
 間に合うか。どうだ。どうか。
 最終コーナーを曲がる。
 大きくアウトからでは間に合わない。狙うならインだ。
 サスケは即座に決断した。
 攻める。
 肉薄する。
 刹那、進路を防ぐように振り上がる五組の腕。だが、それも構わず押し切った。ただ前へ、前へ。
 ぶつかり合う互いの体。揺らぐバランス。
 しかし、足だけは縺れなかった。
 まだ行ける。まだ進める。まだいこう。真っ直ぐだ。
 最後まで諦めない。
 一歩前へ踏み出す。
 瞬間、サスケから世界が消失した。
 本当に何もなかった。音もなかった。見えるものも限られた。沸き上がる両軍入り乱れた声援も、興奮を帯びた放送委員の実況も、来賓らの拍手も、身を乗り出すこれまでバトンを繋いで来てくれた走者たちの姿もなかった。
 あるのは感覚が隅々まで行き渡った充実した体ひとつと踏み締めるトラック、そしてゴールテープ、それのみだった。
 五組の奴もきっとそうだ。
 息を詰める。
 一瞬が永遠に引き伸ばされ、永遠が一瞬に絞られた。
 ぴんと張り詰めた白のゴールテープが二人に迫る。


 改札を潜り駅舎を出ると、辺りには既に夕焼けが訪れていた。
 この時刻に駅を利用する者は少ない。父を含め会社勤めの大人らが家路を辿るにはまだ数時間あったし、駅周辺はどちらかといえば年齢層の高い住宅地だ。サスケと同い齢くらいの学生は隣駅、家族向けの新興住宅街に住んでいることのほうが多かった。中学の同級生らも大概はそうで、どちらかといえばサスケの家が校区のぎりぎり端にあるといってもいいくらいだ。
 ただ最近は少しずつ若い世代も戻り始めているらしい。小さな子供を連れた若い母親たちが駅前のスーパーに出入りをするのが横目に見える。
 その比較的新しい大型スーパーを幾らか歩き過ぎたところで、それは突然横手からやって来た。
「サスケ」
 聞き覚えのある、聞き間違えようのない、だがここでは聞くはずのない声にサスケは初め「嘘だろう」と思った。
 足が縫い止まる。
 振り向くと、いつも退屈げなコンビニエンスストアの駐車場。そこを囲う柵の内、車に背を預けた兄のイタチが確かにサスケを呼んでいた。
「兄さん…?」
 方向転換。足を向ける。歩こうとして、結局小走りになった。
「何をしているんだ、アンタ」
 低い柵を跨ぐ。
 この辺りは数年前彼が出て行ってしまった父母の家があるだけはでなく、昔からうちは姓の多い地域だ。血はもう随分遠くなってしまったとはいえ、親族であることに変わりはなく、今でも大人たちは頻繁に集まりを繰り返している。
 サスケは左右を見遣った。前の道を途切れ途切れに渡る顔にうちはの姿はない。胸を撫で下ろす。
 幼い頃から何事にも秀で、元々才覚豊かな一族のその期待を一身に背負った兄は、だからこそうちはを出て以来、一族の鼻つまみものだ。誰も彼もがイタチについては言葉を濁す。露骨な敵意だってサスケは見聞きしてきた。
 その上、兄自身も滅多なことではこの町に寄り付きもしない。
 兄さんは帰って来ない。
 そう何度も思おうとして、いつの間にかそうきちんと思っていたのに、目の前の兄はひどくあっさりとまたこの町へと戻って来た。
 いったいどうしたというのだろう。
 だがイタチはサスケの問いかけには答えず、凭れていた車のドアから背を起こした。
「少し待っていろ」
 そう言い置いてコンビニへと入って行く。
 戻って来た彼の手にはペットボトルが握られていた。それはサスケがイタチの家でもよく好んで飲むものだ。兄とは昔から嗜好が違うため、兄の部屋へ行く前には必ずコンビニへ立ち寄り買うことにしている。
「今日はよくがんばったな」
 子供に掛けるような言葉と共に差し出され、体育祭のことだと思い至る。
「アンタ、見て…」
「最後のリレーのところだけな。偶々時間が空いたんだ」
「…なら、声くらい掛けろよ」
 受け取りはしたが、すぐに開けてしまうには躊躇われた。たった今まで冷蔵の棚で冷やされていたそれは秋の半ば、夕暮れ近くには手にも冷たい。ひんやりする、その程度だったけれど。
「お前が友達といたからな、悪いと思った」
 イタチは言った。
 ただサスケはどう答えていいのか分からない。自分がどうのこうのと言うよりは、イタチが「友達といたからな」、そう言うわけを朧気ながらも理解しているからこそ、そんなことはないと言うのはイタチの心遣いを蔑ろにしているようで出来なかった。
 代わりに違うことで口を開く。
「…唐揚げの方が良かった」
 もらったペットボトルに目を落とす。好きだけれど、500mlはこの場だけでは飲みきれない。
 そんなサスケの額をとんとイタチの指が小突いた。
「母さんの夕飯があるだろ」
 ちゃんと帰れよ。
 兄はそう言っているのだろうか。
 アンタこそ。
 サスケは心中言い返した。
 アンタこそ、ちゃんと帰れよ。帰って来いよ。
 だが、声にするには憚られる。そういう話を二人でするには時間が経ち過ぎてしまっていた。
「外でそれはやめろって、何回も…」
 サスケは兄の指を払おうとして、ペットボトルを持ったまま手の甲を上げた。
 だが、その前に額から離れた兄の手が、今度はこめかみに差し入れられる。
「あ…」
 と心臓が跳ねた。先が失われる。
 近い、と思った。
 身長差も思った。
 細身であるイタチは、だがこうして真ん前に立たれると、サスケの世界を全部かんたんに覆ってしまう。
 こんな距離も、触れてくる手のひらも、温かさも、もう慣れたはずなのに、頬にそっと添えられた彼の手のひらの体温と感触に体中全てが浚われてしまいそうだった。
 我に帰れたのは気の抜けたコンビニの入店メロディが微かに兄の背後で流れたおかげだ。
「おい、やめろって。誰かに見られたらどうする」
 首を振って抵抗する。だが、そういうことによく慣れたイタチは、いやがるこちらには構わず、普段は頬におろしている髪を一房後ろへ流すようにして梳いていった。それで漸くその手の意図に気付く。
 露になる頬の傷。
 サスケは眉根と口を不服に歪ませた。
「あんまり見るな」
 イタチがじっと見つめる先、サスケの頬には浅い擦り傷が広がっていた。幾筋かの血が滲んでいるのは、体育祭前日に拾い損ねた運動場の大粒の砂利に勢いよく擦ったためだろう。まだ痛みも傷口も生々しい。
「…もういいだろ」
 サスケは今度こそ兄の手を軽く払って逃れた。
 体育祭の最終競技は、サスケが僅かに早くゴールテープを切ることで幕切れとなった。だがその後、サスケも最後まで競り合った五組も両者勢いを殺せず、足を縺れさせた五組がそのままサスケを巻き込んで派手に転倒してしまったのだ。腕をなんとか付いたため顔はこの程度で済んだが、足や体を庇った腕の擦り傷はもっと酷い。
 ただ頬の傷を隠していたのは、それそのものを隠したかったのではなく、こんな怪我をしてしまったことを隠してしまいたかったからだ。結局イタチには転んだところも見られ、傷も見抜かれてしまっていたけれど。
 そのイタチは傷の具合を確かめられたことに満足をしたようだった。案外かんたんに手が離れ、ふわりと頬に髪が落ちる。
「痛かったな」
 昔からそう言うのがイタチの癖だった。
 「大丈夫か」でもなく、「痛いか」でもない。どれを言われたところで、サスケは「べつに」としか答えないから、自然兄は「痛かったな」と言うようになった。
 以前は決めつけのようなそれに反発もしたが、今は痛いとはなかなか言えない性格だから、兄のその言葉に素直に救われている。
 サスケはペットボトルの蓋をきりりと回した。一口含む。酸っぱさの向こうに甘さが少しだけ見えるこれだけは、甘味を嫌う自分も唯一好んで飲んでいた。
 サスケがいつも通り「べつに」と口の中でぼそぼそ答えると、イタチは小さく笑った。
「だが、格好良かったよ」
 思わず見上げる。
 夕陽が重なった。
 眩しくて、瞠った目を細める。
 ちょうど、ごとんごとんとのろまな列車がゆっくりと駅舎から滑り出して行くところだった。
 手にしたスポーツ飲料の甘さだけが舌の上に残っている。
「お前は」
 と、イタチは彼にしては珍しく、物を考えるようにして話し始めた。ゆっくりと紡がれる一言一言が夕日のようにこちらの胸に沁みてくる。
「兄貴のおれから見ても愛想がいいとは言えないがだが、だが昔からみんなに好かれていた」
「…そんなこと」
「あるさ」
 そのわけが分かったような気がする、とイタチはもう一度笑った。
「大切にしろよ」
 友達といたからな。
 母さんの夕飯があるだろ。
 そう言った兄の声がまだ胸の内に響いている。
 時折イタチを無性に責めたくなるのは、彼の言葉には自身がいないからだ。
 父、母、一族、友人、先生、仲間。
 それじゃあアンタは、兄さんは、いったいどこにいるんだ。
 そんな決して答えの返ってこない問いかけが、サスケの胸をしばしばきゅっと締め上げる。
 喉が渇いてまたペットボトルに口を付けた。
 今は500mlが恨めしい。たとえば他愛なく言ってみた唐揚げならば、他の200mlくらいのパック飲料だったならば、食べ終わるまで飲み終わるまでこの兄だってそれくらいは待ってくれるだろうに。
 500mlでは叶わない。きっと残りはあとで飲めよと言われてしまう。
 閉められないペットボトルの蓋が、サスケの狭い左手の中で収まりどころを探していた。
「おれに説教するな」
 と、やっとそれだけを呟いた。
 すると、ぽんと軽く兄の手が頭に乗る。
「サスケ。深く取るな」
 そのままくしゃりとやや乱暴に髪をかき混ぜられた。
「おれはお前が格好良かったと伝えに来ただけだ」
 本当だろうか。
 もし本当だとしたら、
「…ばかだろ、アンタ」
 わざわざ捨てて出て行った町に、そんなことだけのために。
 サスケが小さく呆れると、イタチはふふと笑って顎で車を示した。
「乗れよ」
 と言う。
 サスケは「え…」と詰まったが、イタチは五歳年長らしい顔つきで口角を上げた。
「さっきからずっとまだ帰りたくないって顔をしているぞ、お前」
「……」
 たぶん、つまるところ、結局はそういうことだ。
 まだ帰りたくない。
 兄と離れてしまいたくはないから。
「三十分だけドライブしよう」
 イタチの誘いにサスケはうんと素直に頷いて、ペットボトルの蓋を閉めた。
 また甘さだけがまだ体中に残っている。