17 休日の話



 日曜日の昼下がりはひどくしんとして、とても静かだ。
 時折風を部屋に招くために開けた窓の隙間から外を通る車のエンジン音が微かに聞こえてくるだけで、あとは何もかもが別世界のように遠い。
 元よりイタチの借りる部屋は独り暮らしをする学生や若者向けのアパートが並ぶ駅の、更に徒歩十五分ほどは離れたところにあるため、余計にそうなのだろう。休日を外で過ごすのなら、多くは快速急行で二つ三つほど先の繁華街まで足を伸ばす。
 近所の住人たちはそういうわけで他へ出払ったか、或いは自分達のように部屋に閉じ籠っているらしい。ここでは実家のように近所の女性たちが道端でかしましく長いおしゃべりに興じたり、退屈をしたその子供らがきゃっきゃっと追いかけっこをして騒ぐ声が無遠慮に入ってきたりすることはない。
 イタチが大学や駅に近い利便性のよい立地ではなく、この部屋を選んだ理由も主にその辺りにあるのだが、実のところ週末になればほぼ入り浸りに来る弟のサスケにも同じようなわけがあるんじゃないだろうかとイタチは見ている。
 十四・五の頃に一度荒れ、その時この部屋へ何かから逃れるように身を隠すようにやって来て以来、サスケはこの兄だけがいて他には何もない小さな世界がいたく気に入っているようだった。
 荒れた遠因は間違いなくその兄のイタチの存在にあるのだが、外からの大きな声はこの部屋では遮断される。彼の刺々しくざらついていた十四の心は、この二人きりの部屋で慕っていた兄と幼いころのように過ごす内、少しずつ慰められ癒されていったのだろう。
 前の道をまた一台の車がのろのろと通って行く。
 買い物は午前中にサスケを伴い済ませた。
 昼食はその帰りに立ち寄った常連客でもっているような古い喫茶店で十年、いや二十年は変わっていないだろうメニューからスパゲッティナポリタンとミックスサンドを注文し、それぞれ半分ずつにして食べた。顔なじみの老マスターはそれでは少ないだろうと心配をしてくれたが、揃って二度寝をしたせいで朝食が随分と遅かったのだ。
 そうしてそれから少し遠回りをして川沿いの道を散歩がてらに歩いて帰り、部屋の掃除を手分けして軽くした後、イタチがサスケに断って居間のテーブルにノートパソコンを開いて今に至る。休日とはいえ大学の研究レポートを幾らかは書き進めておきたかった。
 少々行儀悪くカウチを背凭れ代わりに床に胡座を掻き、イタチはキーボードに指を走らせる。
 その隣ではサスケが放っておかれることに特段不平を言うわけでもなく、黙々と読書に耽っていた。背は兄のようにカウチに預けているが、上半身そのものはイタチの方へと傾いでいる。別にイタチの作業を邪魔しようだとか、或いは甘えようだとか、彼にそういうつもりは一切ないのだろう。ただそうすることが昔からサスケの中で当然のこととして染み付いているため、並んで座れば体が自然とイタチに寄るのだ。
 無論受け手側のイタチにもとっても、それは昔からのごく当たり前のことで、多少手の動かし辛さは感じるものの、それだけだ。退け、なんていう言葉は欠片も出てこない。そも思いもしない。
 ところでサスケが読んでいるのはイタチが研究レポートの資料にと積み重ねている専門書の一番上の一冊だった。キーボードの音の合間合間にサスケがページを捲る紙擦れが紛れる。
 サスケは素行こそ荒れた時期もあったが、基本的には物事に対して頑ななほど熱心で生真面目だ。中学・高校と常に上位の成績を維持してきたのもその性格に因るところが大きい。それでも今手にしているのは大学の研究で使うような専門書だ。受験を終えたばかりの高校一年生の幅は広いが表層の知識ではきっと読み込めはしないだろう。
 試しに「解るのか」と問うてみると、
「序章と一章は」
 という答えが返ってきた。
 どうやら二章の途中で挫け始めたようだった。
 そうだろう。だが、それでいい。
 世に名門と知られる一族の中でも非凡の才を早くから示した兄と比べられ続けた弟はどうも自己肯定感が低いのだが、その兄から見ればこの弟には自分とはまた違う才覚が備わり、今は目覚めの時を待って眠っているようにも思える。サスケがイタチと同じ進学先を熱病に浮かされたように訴えたとき、よく考えろと根気よく説き伏せたのもまたイタチだった。
 サスケにはサスケの行くべき道がある。なにも全てにおいて兄の背を追う必要はない。
 それにたとえ違う道を歩いても、サスケはイタチの弟で、イタチはサスケの兄だ。永遠にそれだけは変わらない。
 疲れた時にはここへ、イタチのところへ、いつだって休みに来ればいい。
 その為の鍵はもうサスケに渡してある。
 肩に凭れたサスケの髪に耳を擽られる。彼の本のページは先程から進んではいなかった。大分苦戦をし、何度も同じ箇所を繰り返して追っているようだ。納得がいくまでは少しも次へ踏み出せない。そんな彼の性格そのものを見ているようで、イタチはキーボードを打つ手を止めた。それから本を取り上げる。
「おい」
 とサスケは非難の声を上げたが、元はイタチのものだ。それを積み上げていた本の山に返して、カウチとサスケの背の隙間に手を入れる。そうしてその腰をぐいとこちらに引き寄せれば、今度は鼻先が擽られた。惹かれるようにして弟の髪に顔を埋める。彼からは実家のではなく、イタチの部屋のシャンプーの香りがした。
「研究のレポートはいいのかよ」
 兄に好き勝手をされることに慣れた弟は案外冷静にそんなことを言った。けれど何の予防線なのか、片手をイタチの胸に突っ張っているところが少々小憎たらしくて、けれど可愛い。つい苛めたい気持ちが沸き上がる。
 イタチは唇でサスケの弱い耳の後ろに触れてキスを落とした。
「あ…」
 と腕に抱いたサスケの体が微かに跳ねる。彼はその心のようにとても敏感で、ひどく深く感じやすい。
「兄さん…っ」
 今度は慌てた声で胸を押し返される。だが構わなかった。所詮、五つ年下の少年の力だ。力尽くでどうとでもなる。
「おれも休憩だ」
「はあ?おれも、って」
 何だよ、という続く言葉は絞るようにその体を抱いて唇で奪ってしまう。
「…んっ…ん…ふ…、あ…」
 普段は意地でも出さないだろう弟の甘い声が接吻けの端から漏れる。
 けれど、ただ合わせるだけの軽いキスだ。
 初めは戸惑っていたサスケも次第に快楽とは言えない程の小さな悦びを求めるようにイタチの唇に自らの唇を擦り合わせ始めている。
 そうして互いに好い角度を探り合っていると、ふと時間を忘れた。突っ張っていたはずのサスケの手もいつの間にか力なく床に落ちていた。
 無論、ことを今以上に進めるつもりはない。あくまで休憩なのだ。イタチの腕は確かにサスケの体を抱き寄せてはいるが、もう片方はより体重をこちらに掛けてきたサスケを預かるために床に突いて支えている。
「ん…」
 イタチは最後にその薄い上唇をわざと湿った音を立てて吸い、顔を離した。閉じていた眼を開く。
 それを気配で察したらしいサスケもイタチから数瞬遅れて伏せていた睫毛を震わせた。ゆっくりと薄い瞼の下からその黒の眸が姿を見せる。
「……」
 よくないな、とイタチはサスケの眸をほんのすぐ傍で見つめながら思った。
 呼吸を整えるように軽く息を吐いたサスケの眸が濡れている。「涙で」ではなく、夜のベッドで深くまで抱き合った時のような、あのとろりとした眼だ。
 しくじったと後悔したのはサスケをそうさせてしまったことではない。そんな弟の眸にイタチもまた身の内に灯る火を感じたからだ。
 このままもう一度弟の唇を吸いたい。
 衝動的な欲求と同時に、だが一方ではパソコンの画面に開いたままのレポートも気に掛かる。期限までにはまだ余裕があるが、これを遅らせてしまえば他に支障が出ないとも限らない。
 一瞬の逡巡の後、イタチはサスケの体を抱く腕の力を僅かに弛めた。が、
「兄さん…」
 床に垂れていたはずのサスケの手にくしゃりとシャツの裾を引かれる。
 それは幼い頃イタチに遊ぼうと飛び付いては父や母に咎められ、すがるようにシャツを握り締めてきた小さな手と重なり、イタチの自制心はもう一度ぐらりと揺らいだ。
 今の十六のサスケは兄のちょっとした意地悪にもそれ相応にやり返してくるため悪戯に苛めて遊ぶのも愉しいが、あの頃の小さなサスケは今も手放しで甘やかして可愛がって抱き締めて守って、愛してやりたい。

 ねえ、一緒に遊ぼう、兄さん。

 イタチを黙って見つめ返すサスケの唇が濡れてしっとりと赤い。そうしてその奥、うっすらと開いたそこがイタチによって淫らに掻き乱されるのを待っている。
 長い休憩になりそうだ。
 イタチは床に突いていた手のひらをサスケの頬に優しく甘く滑らせた。