16 困ったことの話



※ 「15:料理の話」の続き


 右腕が持ち上げられる感覚にイタチはうっすらと目を覚ました。
 とは言え、まだ半分以上は眠りの中に落ちている。意識はぼんやりとしていた。
 右腕は眠る前こんこんと咳をするサスケの背に回していたはずだ。眠り辛そうにしている彼を抱き寄せ、その背をさする内どちらともなく眠ってしまったのだろう。
 隣を探れば、腕の下にいたはずのサスケはいない。重くて外したというわけではないようだ。
 トイレにでも立ったのだろうか。そう思い、暫く夢現に微睡みながら待ってみる。
 が、彼は一向に帰っては来ない。
 寝返りを打つ。
 このまま寝入ってしまいたい気持ちもあった。この頃は大学の講義も研究も忙しく、研究室の机で小一時間船を漕いでいるだけの夜もある。
久しぶりのベッドだ。二人の体温で暖まった布団がなんとも心地良い。
「……」
 だが、やはり気になる。
 トイレにしては遅すぎる。
 サスケは元々体調を崩していた上、あの寒い中で長い間イタチを待っていたのだ。
 吐いたり、倒れていたりするんじゃないだろうな。
 そんな胸騒ぎを覚えて、イタチは強引に眠りを断ち切りベッドを降りた。


 寝室を出てまずは玄関脇のトイレや洗面所を確認する。
 が、サスケの気配はない。代わりに明かりを落とした居間から、けほんけほんと咳が聞こえてきた。
「サスケ?」
 扉を開け、電灯を点ける。
 急に明るくなった部屋の中、カウチを背凭れに座っていたサスケは眩しげにこちらを見上げていた。
 だが、すぐに咳込む。寝る前よりひどい咳だ。
 部屋が冷えていることに気付き、エアコンと加湿器の電源を入れる。
「大丈夫か?」
 そう言って背をさすろうとしたイタチの手をサスケは首を振ってやんわりと拒んだ。
「…わりぃ。起こした」
 どうやらこの弟は咳込むせいで兄を起こしてはいけないと一人ベッドを出たらしい。
 ともかくイタチは咳が続くサスケのため、しょうが湯を淹れることにした。ぜえぜえと鳴る喉が痛々しい。
「ほら」
 湯気がくゆるカップを渡すとサスケは素直に礼を言って受け取った。少し口を付けては、こくりと喉を濡らすようにして飲んでいく。喉が大分痛んでいるようだ。
「薬、飲むか?」
「明日になっても治ってなかったらな。…兄さん、もういいぜ」
 咳がおさまったらおれも戻る、とサスケは言うが、先ほどよりはましになったとはいえ、しょうが湯を飲む合間にこほこほと咳込む彼を一人置いてはいけない。
 イタチは少し考えて寝室へ戻った。が、掛け布団を持ってすぐに居間へ取って返す。
 サスケはカップに口を付けたまま、怪訝そうに眉根を寄せた。
「なんだよ、それ。アンタ、寝るんじゃないのか」
 そう言うサスケを後ろから抱き込む。くるりとサスケごと布団に包まった。
「…おい」
「咳がおさまったら、おれも戻る」
 何か言いたげなサスケに彼の言葉をそのまま返す。
 それでもなお反論しようとしたサスケを黙らせたのは、こんこんという彼自身の咳だった。


 サスケの手からそっとカップを取る。慎重に置いたつもりだったが、ローテーブルのガラス板がかつんと音を鳴らした。
 だがイタチの腕の中、サスケが起きた気配はない。
 あれから暫くサスケは咳をしてはしょうが湯を飲んでいたが、いつの間にかその咳もおさまり、今はイタチの胸に頬を預けてうとうとと眠り始めていた。
 イタチは腕にサスケを抱いたままカウチに凭れ掛かった。サスケの意識が徐々に眠りに誘われている証拠だろう、腕の中が少しずつ重たくなる。
 ベッドへ連れて行っても良かったが、大分咳込んでいた様子から体を横たえるよりはこんな風に座る姿勢の方が楽なはずだ。それに折角の寝入り端、起こしてはまた目が冴えてしまうかもしれない。
 彼が完全に寝入ってから抱えてベッドに戻ろう。
 多分に彼もまたこの頃はよく眠れていなかったはずだ。
 咳のこともある。
 けれど、それ以上にイタチとの諍いが彼の心を暗くしていたに違いない。
 外見や口振りからはそうは見えないが、サスケには人一倍繊細なところがある。イタチと父親の間にあった静かな冷たい対立に誰よりも心を痛めていたのもこの弟だった。
 イタチは、眠りの中で小さく咳をするサスケの背をゆるゆると撫でる。
 そういえば赤ん坊のときにもこうして留守の父や母の代わりに抱いてあやしていたな、と思う。
「……」
 困った。
 イタチは苦笑した。
 腕の中に大切に仕舞ったサスケが今夜はとても暖かくて、ずっとこうしていたい、と思ってしまう。
 けれど、いつまでもそういうわけにはいかないのだとも分かっている。
 サスケもいずれ親元を離れた自分のように家族の庇護の下から出ていく日が来るだろう。
 いや、もう少しずつ彼は大人になり始めているのかもしれない。
 腕の中のサスケを見詰める。
 二、三年前であったなら、この弟は意地でもイタチを突き放しに掛かったに違いない。
 きっとサスケはイタチの想いを汲んで大人しく収まってくれているのだ。

 甘えているのはおれの方だ。

 サスケの髪に頬を埋める。懐かしい香りに胸が疼く。
 ああ、今夜はやっぱり彼を手放せそうにない。
 眸を閉じた。
 抱きしめる腕が強くなり過ぎはしないか。ただそれだけが気がかりだった。