15 料理の話



「あら、サスケ。出かけるの?」
 背後から掛かった母さんの声は、そうしようとするおれを快く思わない、そんな声だった。
 咳をしながらだったためだろう、指先がぶれてスニーカーの紐が巧く結べない。仕方なくもう一度輪を作るところから始める。
「風邪気味なんだから、遊びに行っちゃ」
「行くのは兄さんのところだ」
 母さんを遮り、言外に遊びに行くわけではないと言う。それで少し母さんも語気を緩めた。小さな頃と同じだ。溜息が出そうになる。
 兄さんとなら。
 繰り返し繰り返し聞いてきた。
 あの兄さんと比べたなら、そうだろう。子供だと扱われても仕方がない。と、最近になって漸く思えるようになった。
 靴紐を結び終え、手袋をはめる。それからネックウォーマーを頭から被った。ある日突然兄さんが買って寄越してきたものだが、この冬はおかげでダウンジャケットからはみ出す首元も温かい。
「…そういえば、あの子、大学はお休みなの?」
 母さんはおれが引き戸に手を掛けたところで、思いついたように首を傾げた。
 今日は土曜日だ。高校でも午前中に授業があるのだから、その疑問は尤もだろう。イタチは、よくは知らないが、講義に加えて研究で忙しいらしい。
「…知らねぇ」
 戸を潜る。
 長引くと引き止められてしまいそうだった。
 そうしてその予感の通り、
「兄さんが家にいるか、確かめたの?」
 後ろから母さんの声がする。
 おれは諾とも否とも答えず、ネックウォーマーを引き上げた。こんこんと咳が出る。それは、母さんからは頷いているように見えたかもしれない。
 サスケと呼ぶ母さんには曖昧に応え、おれは人影の絶えた道を駅へ向かい踏み出した。
 今、兄さんに電話はできない。
 兄さんがいるかどうかなんて確かめようがなかった。


 ところで、おれの家の最寄り駅はごく小さい。こじんまりとした駅舎とホームがひとつ、それだけだ。
 定期を通し、改札を潜る。
 兄さんのマンションはおれが通う高校の更に先の駅にある。学校帰りに直接行っても良かったが、さすがに真っ昼間にはいないだろう。
 丁度ホームに入ってきた普通電車に乗る。
 元々普通か準急しか止まらない駅だ。しかし、あと五分も待てば準急が来る。三つ先の駅で乗り換えることもできる。けれどおれは人も疎らな車内の、端の席に腰を落ち着けた。
 行きたくないわけじゃない。かといって、早く行きたいわけでもない。
 喧嘩をしたのだ。兄さんと。
 電話も掛けられないのはそのせいで、イタチは喧嘩となると昔から徹底的に無視を決め込んでくる。そして、そういう時は大概おれが全面的に悪いのだ。
 一週間経った。
 電話もメールも着信がない。
 いつものように兄さんが折れて譲って有耶無耶にしてくれる、ということではないようだ。
 おれが謝らなくては二進も三進ももういかないところまできている。勿論、そんなことは兄さんと喧嘩をした帰りから実は分かっていた。けれど、謝ることがいつの間にかどうにも不得手になっていたおれは、心の隅っこで兄さんからの着信にきっと期待をしていたのだ。
 電車が揺れる。
 止まってはのろのろ走り、またすぐに止まるを繰り返す。
 まるでおれの気持ちのように。
 …そういえば、小学生の時分も同じようなことがあったな。
 車窓をぼんやりと眺め、ふと思い出すことがあった。


 あれもおれの過ぎた我が儘が、兄さんの許してくれる領域をほんのちょっと踏み外してしまったことから始まった。
 今とは違って兄さんも同居をしていた頃だったから、話すどころか目も合わせてくれなかった。家族で食卓を囲んでいても、母さんに言われて一緒に風呂に入っても、イタチは平然とおれがそこにいないかのようにつんと振る舞ったのだ。
 おれが謝るまでイタチは許してくれない。
 小さいながら、そう思った。
 そしていつまでもこんなのは嫌だとも思った。
 辛かったのだ、兄さんにおれを見てもらえないのが。
 けれど、話しかけても無視をされるのが怖くて、いつまでも「ごめんなさい」の一言が切り出せない。どんどん、ずるずる先延ばしになっていく。
 そんなある日、おれはついに堪え切れなくなって、学校帰りに兄さんの中学まで走って行った。
 何か良い手立てがあったわけじゃない。
 兄さんが許してくれる正しい謝り方も分からない。
 けれど、じっとしてはいられなかった。
 息を切らして辿り着いた正門の門柱前で校庭の様子を窺う。
 丁度授業が終わり、生徒らが帰るところだった。
 大勢の生徒らがぞろぞろと出てくるが、しかし、そこに兄さんの姿はない。
 部活だか生徒会だかで遅いのだろうか。
 おれはもう少し門柱前で待つことにした。
 時折校舎の外壁に付けられた時計を確認するが、二十分、五十分、一時間を過ぎても兄さんが出てくる様子はない。
 その内、日も暮れた。
 運動部員たちが用具を片づけ始め、疎らにあるいは固まって門を潜る生徒らの中にもやはり兄さんはいない。
 そうして日が完全に落ちると、冬の寒さが身に堪えた。風が刃物のように剥き出しの膝や首、耳を切っていくのだ。
 時に待ち惚けのおれに話しかけてくる人もいた。「ぼうや、もう遅いからお帰り」と門番の用務員には何度も声を掛けられたし、「お前、イタチの弟でしょ。どしたの。イタチを呼んで来てあげよっか」と教師らしき男に訊ねられもした。
 しかし、おれはそのどれにも顔を縦には振らなかった。
 ここまで待って帰るのはなんだか癪に障ったし、誰かを当てにしたくもなかった。
 やがて、校舎の明かりすら落とされ始めた。非常灯の緑だけがうすぼんやりと藍の空に浮かんでいる。こうこうと明かりがあるのは一階だけで、あれは職員室だろうか。
 門を出る生徒もついには途切れる。
 午後七時。いつもなら夕飯を食べているころだ。
 不意に今まで考えないようにしていた不安が押し寄せる。
 兄さんはもうとっくに帰ってしまったんじゃないか?
 見逃した?
 それともおれがここにいるのに気付いて裏門から帰ってしまった?
 であるならば、いつまでもここにいたって仕方がない。
 でも、まだ、もしかしたら…。
 そんな微かな期待を打ち砕くかのように用務員が正門を閉じ始める。帰れ、と軋んで閉まる門が言っているようで、おれは俯いた。
 校庭に背を向ける。
 重くて、挙げ句、寒くて固まってしまった足でとぼとぼと歩き出した、その時だった。
「すみません、遅くなりました」
 閉まる門の中から、ずっとずっと待っていた声が聞こえてきた。
 振り返る。
 兄さん。
 兄さんだった。
 兄さんがこちらへ小走りにやって来る。
「君が一番最後の生徒?」
「はい、生徒会でちょっと…」
 用務員との話はそこで途切れた。
 おれが兄さんを見つけたように、兄さんもまたおれを見つけたのだ。
「サスケ?」
 僅かに瞠目する兄さんのおなかにおれは何も言わず顔を埋めた。
 もっともっと小さな頃ならきっと飛びついていただろう。
 もうそんな歳じゃない。
 でも、兄さんにぎゅっとくっつきたかった。
 そうせずにはいられなかった。
 いてくれた。来てくれた。おれの兄さんが。
「…はあ」
 と、兄さんはため息を吐いた。
 けれど、鞄を持っていない方の手でおれの頭を軽く抱き寄せる。
「弟がご迷惑をおかけしました」
「いやいや。ずっと待ってたんだよねえ」
 そんな遣り取りが頭上で幾つかあって、それから兄さんはおれの冷たい耳に指先で触れた。手の甲で首にも触れられる。
 そうして兄さんは自分がしていたマフラーを黙っておれに巻き、そのままちょっと強引におれの手を引いた。
「帰って母さんに温かいものを作ってもらおう」
 そう言う兄さんは、もういつものおれの兄さんだった。


 日が暮れて、マンションまで続く街灯にぽつりぽつりと明かりが灯り始める。それを拾うようにして歩いた先、マンションのエントランスに見知った人影があった。
 おれがやったネックウォーマーに口元は隠れているが、見間違うはずもない。
 弟のサスケが、この冬の寒い中、こちらをじっと見詰めて立っていた。
 何も言わず近寄ると、彼もまた何を言うこともなく、おれの肩に額を乗せてきた。
 触れ合うほどに近い頬が冷たい。
 サスケはこほんこほんと遠慮がちに咳込んだ。
 随分と待ったのだろうか。
 合い鍵を持っているだろうに、管理人や他の住人から中へ入れてやろうかと何度も声を掛けられただろうに、この弟はそのどれにもうんとは言わず、座りも、凭れもせず、ただひたすらにおれの帰りを待っていた。
「サスケ」
 くしゃりと後ろ髪ごと彼を軽く抱き寄せる。
「温かいものを作る」
 食べて行くだろうと問うと、彼は小さく頷いた。
 こほん、けほんとまた小さく咳をしている。