14 初恋の話
ふと奇妙な感覚に囚われて、サスケはコンロに火を点けようと伸ばした手を止めた。
だが、それでは昨晩多めに作り置きをしておいた豆腐の味噌汁がいつまで経っても温まりはしないので、気を改め火を点ける。
それから卵を取り出すため冷蔵庫を開けたとき、奇妙な感覚の正体がなんとなく知れた。
ふと、増えたな、と思ったのだ。冷蔵庫にある食材が。
兄のイタチは、そんなことはないと否定をするが、サスケが見るところ、食に対してあまり興味がないように思う。だからだろう、はじめは酷かった。冷蔵庫は空っぽ。卵なんかは大概品切れで、代わりにチョコレートがぽいっと放り込まれていた。
実家暮らしのサスケからすればそんな冷蔵庫はまず見たことがなかったし、兄はいったい何を食べて生きているのかという不安をすっ飛ばして腹を立てたりもした。それとも男の一人暮らしというのは、あの一見完璧な兄であっても、こんなものなのだろうか。サスケには分からない。
卵を二つ手にして扉を閉める。
卵焼きにするか、目玉焼きにするか。スクランブルエッグだっていい。
こんなことは週末兄のところに泊まるようになるまで考えもしなかったことだ。中身の増えた冷蔵庫のように、サスケ自身もまた奇妙な感覚の正体なのかもしれない。
ともかくそれを割るためサスケは乾燥機に伏せていた椀を取り上げ、しかし、卵を置く。
振り返った。
「イタチ、朝だ」
寝室の方へ声を上げるが、返事はない。
しんとしている。
「イタチ」
もう一度呼んでみる。
だが、起き出す気配すらない。
まだ目覚めていないのか。
サスケはコンロの火を弱めて、キッチンを離れた。リビングを横切り、寝室へ向かう。
「おい、兄さん。朝だ」
カーテンを開け放った朝の日差しが入る部屋。
その端に置いたベッドの更にその端でイタチは眠っていた。
昨晩隣でサスケが寝ていたからだろうが、先に起きて暫く経つ。
折角だから広々と真ん中で眠ればいいのに。
ぽっかりと空いた一人分のスペースが嬉しくて、けれど何処か後ろめたくて申し訳がない。ここは彼が一人暮らしをする部屋で、よく泊りには来ても決してサスケの家ではないのだ。だというのに、彼はこんなところまでサスケの兄として振る舞おうとする。
「…兄さん」
サスケはベッドの縁へ腰掛け、その肩に触れ、揺さぶった。
すると、漸くイタチが身動ぎをする。
最近は大学の研究で何かと忙しいらしい。企業との合同研究だろうとは話の端々でなんとなく分かっていた。が、それ以上のことはよく解らない。彼が話してはくれないからだ。ただ週末にこうしてサスケが泊まりに来られるようイタチは平日に無理を重ねているのではないか、とは見当がつく。
イタチとはそういう人だ。
「まだ起きないのなら、味噌汁の火を止めてくるけど」
「…いや、もう起きるよ」
サスケが言うと、イタチはのそりと体を起こした。
と同時に何かが滑って床に落ちる。見れば、それは昨日コンビニでサスケが買い求めた週刊雑誌だった。ベッドの中で読みかけていつの間にか眠ってしまっていたものをイタチが気付いて除けておいてくれたのだろう。
「わりぃ」
サスケは床に落ちたそれを拾い上げながら、数度瞬いた。
既視感。
またあの感覚だ。
捕らわれて、少しの間抜け出せない。
訝しんだイタチに「サスケ?」と顔を覗き込まれた。
「…あ、いや…」
誤魔化したところで仕方がない。
サスケは素直に吐露した。
「ものが増えたなと思っただけだ」
「もの?」
「ああ」
たとえば椅子の背に掛けっぱなしにしているサスケのパーカー。
たとえばカウチに重ねて置いた高校の参考書。ノート。シャープペンシル。それから学校指定の鞄。
テーブルの上には、そういえば片づけ忘れたマグカップがふたつ並んでいる。
「大半はおれが持ち込んだものだけど」
サスケは膝の上に雑誌を置いた。きっとイタチは読まないものだ。
これも片付けなきゃな。
そう思った、そのときだった。
体をぐいとイタチの片腕に引き寄せられる。突然のことに成す術もない。次の間にはもう彼の腕の中だった。寝起きのせいかいつもより少し体温が高い。
「兄さん?」
訝しんで呼びかけるが、答えはない。
その代わり、いつもは小突かれるおでこにふっと息が掛かった。
「おのづからなる細道は誰がふみそめしかたみぞと、か…」
「はあ?」
「勉強しろ、サスケ」
「突然何なんだ、アンタは」
「いいんじゃないか。ものが増えても。と言っている」
一度はそれが良かれと思って遠ざけた弟が、それでもおっかなびっくり通ってきては、ただ中に入れて欲しいだけなんだと今日もイタチの胸の扉を遠慮がちに叩いている。