11 勉強の話
がこん、と少々立て付けの悪いロッカーが音を立てて開く。
やけに響くのは教室にサスケ以外誰もいないからだろう。
土曜日の放課後遅く、サスケがわざわざ学校に戻ったのは忘れ物をしたせいだった。
校舎はがらんとしている。
聞こえるのは野球部やサッカー部が練習に勤しむ声、それに吹奏楽部の演奏も遠く重なる。
よく耳にする曲だが、名前までは分からない。
確か小学校の掃除の時間に流れていた曲だった。どうでもいいことだが。
サスケは並べた教科書の中から、物理の参考書を選んで取り出した。
月曜日には小テストがある。勉強をしなければならない。
勉強が苦手とか、そういうわけではなかったが、どちらかといえば才能のある方なのだろうが、それを開花させるにはサスケの場合、惜しまず努力をしなければならなかった。
彼らがそうしていないとは言わないが、中学の頃の同級生シカマルや兄とは根っこが違う。
いや、そもそも彼らは異種なのかもしれない。シカマルは別として、イタチは兄だというのに。
開けたときのように少し力を入れてロッカーの戸を閉める。
きっと去年の使用者の扱いが悪かったのだろう。運がないものだとサスケは思う。自分も。このロッカーも。
そのとき、からりと教室の引き戸が開いた。
見遣れば、イタチがゆったりとした足取りで教室へ入って来るところだった。
「シューベルトだな」
そんなことを言う。
サスケは一拍反応に遅れた。それから吹奏楽部の演奏のことだと気が付いて、「ああ」と頷いた。
思い出した。そう、シューベルトだ。音楽の教科書で見かけたことがある。
「小学校でよく聞いた」
イタチは懐かしげに目を細めた。
兄とは中学までは同じ学校に通っていた。別れたのは高校からだ。大学はどうなるだろうか。たぶん違う道を行くのだろう。
「あったか?」
イタチはサスケの手にした参考書に目を落としながら訊ねてきた。
サスケは「ああ」とまた頷く。
忘れ物に気が付いたのは、イタチと待ち合わせをしていた喫茶店でのことだ。
ただ兄を待つのは手持ち無沙汰だからと参考書を取り出そうとし、それで「…あ」となった。
学校へ引き返すには時間がない。
どうしようか。そう迷っている内に現れたイタチに事情を話すと、今日はちょうど車だからと送ってくれた。
そうして、てっきり車で待つものだと思っていたイタチは、
「サスケがどんなところで勉強をしているのか見てみたい」
と、そんな保護者のようなことを言って校舎の中まで付いてきた。
途中、イタチは守衛と受付事務に「弟がいつもお世話になっています」だとか「ご指導頂き有り難う御座います」だとか、丁寧且つ朗らかに頭を下げていたが、あれでいったい幾人を騙してきたのだろう。
いや、当人に騙しているつもりはないし、あれはあれでイタチの本来でもある。
だが、あれが全てでもない。サスケは知っている。そういうことだ。
「いい学校だな」
イタチはサスケをサスケを過ぎ、運動場を見渡せる窓に寄った。
夕焼けがイタチの眸も姿も赤くする。
曲が変わる。やはり聞き覚えはあるが、なんという曲なのかまでは分からない。
けれど、イタチならば知っているのだろうと思う。だからといって訊ねようという気は起こらなかった。
『いい学校だな』
サスケは運動場を眺めるイタチの横顔をなんとはなしに見詰めながら繰り返す。
いい学校。
確かにそうだ。
兄が首席で卒業した進学トップ校に次ぐ学校で、それでいて創立以来のびやかな気風があり、生徒らには大きな裁量が与えられている。
その生徒らにしても、多少のやんちゃや喧嘩はあれど、賢く、決して自由を履き違えるようなことはしない。
がむしゃらに兄が通った高校を目指した時期もあったが、サスケはこの学校を選んだことに間違いはないと思っている。
イタチの言もそういうことだろう。
けれど、だけど、
「だけど、まだ慣れない」
ぽつりと呟く。
イタチがこちらを振り向いた。
諭すように苦笑を浮かべている。
「通って一年も経っていないんだ。いずれ、」
「そういうんじゃねえ」
イタチを遮る。
彼が少し面食らったようだったのは、サスケの語気が強かったからかもしれない。
しんとする。
が、一瞬途切れた演奏がまた流れ出すと、サスケは細く呼気を吐いた。
兄さん、と兄を呼ぶ。
「…小学校の頃も、中学の頃も、アンタを知らない奴なんていなかった」
あのイタチの弟なのかと言われない日はなかった。
さすがイタチの弟だ。
それでもイタチの弟か。
悪意もあった。そうでないものもあった。性質が悪かったのはたぶん後者だ。
無邪気な分だけ、鋭かった。善意であるから、黙るしかなかった。
イタチ。
イタチ。
イタチの弟。
それがサスケで、それだけがサスケだった。
「アンタなんか、いなくなればいいのに。そう思ったこともあった。…いや、長い間、ずっとそう思っていたんだ。心のどこか、すみっこで」
ふと、イタチの指を頬に感じた。
いつの間にか足下に落ちていたその目線をすくい上げるようにして、イタチの手がサスケの両頬を包み込んでいる。
温かい。
とても、とても、温かい。
サスケはイタチを見詰めた。
兄はやさしい夕焼けの眼差しをしていた。
それから逃れるようにして眸を伏せる。
「ここにはアンタがいない。それで初めて思い知った」
バットがボールを打つ音も、サッカー部の歓声も、吹奏楽部の演奏もぷつりと途切れる。
イタチとサスケ。
それだけだ。
それだけがここに在る。
閉じ込めていたものが、溢れ出す。
たまらなくなって、もうこぼれるしかなくなった。
兄さん。
兄さん。
「アンタがいない世界は、こんなにも寂しい」
寂しいんだ、兄さん。