10 メールの話
夏の終わりの夕立は酷く激しい。
みるみる暗く曇ったかと思えば、稲妻が空を走り、目の前も霞むような大きな雨粒が容赦なくアスファルトを叩き打つ。
街は雷と雨音以外のいっさいを失ったように静まった。
あれほどあった人の往来はぷっつりと途絶え、皆物陰で息を潜めている。
サスケもまたその一人であった。
急な雨に降られて逃げ込んだ古い本屋の軒先で真っ黒い空を窺う。
夏期休暇中にいくらかあるだけの登校日に、なんとついていないことだろうと憤る。
こんなことになるのなら、せっかく出てきたのだからと高校から電車で十数分のターミナル駅まで足を延ばしたことが今更ながら悔やまれた。
分厚い雨雲は空の向こうまで続いている。
当分は止みそうにない。それどころか酷くなる一方だ。
身動きの取れなくなったサスケが漏らした舌打ちさえも豪雨が浚ってしまう。
その折り、制服のシャツの胸ポケットに入れていた携帯が震えた。
取り出し、ディスプレイを見る。
驚いた。目を疑う。
そこには滅多に着信を寄越さない兄の名があったのだ。
まさかなにかあったのか。
操作ももどかしく、サスケはメールを開く。
『酷い雨だが、平気か』
簡潔に一文だけが記されていたそれに、どっと肩から力が抜けるのが自分でもはっきりと分かった。
なにかがあって欲しかったわけでは決してないが、こんなのは拍子抜けだ。
たとえば怪我をしたとか、大病を患ったとか、或いは突然明日には海外に発つことになったのだとか、そういったことがあの一瞬で頭の中を駆けめぐったのだ。
今もまだその名残のように心臓がどくどくと跳ね、体中がかっと熱を帯びている。
おれのこの気持ちをどうしてくれる。
遣りどころのない憮然とした思いを抱えたまま、サスケはメールをぽつぽつと打つ。
『今、外』
それから少し迷って付け加えた。
『平気じゃない』
いつもならこんなことは口にはしない。
どれだけ親しかろうとも友人らには決して言わないし、無論、両親にだってそうだ。
ただイタチにだけは違う。
何においても秀でたこの兄にどれだけ意地を張ったところで、どうせ見透かされてしまうのだから仕方がない。
イタチはいつもサスケが張り巡らせた意地をするりと潜り抜けてくる。
それでも少々送信したメールを後悔し始めた頃、イタチから返信が届いた。
『迎えに行く。待っていろ』
瞠目する。
狼狽え、慌てた。
そんなつもりじゃない。
いや、そんなことよりも、と兄からのメールにもう一度目を走らせる。
迎えに行く。待っていろ。
ただそれだけだ。
サスケの居所を問うてもいない。
いったいどういうことだ。
サスケはメールを打とうとし、けれど何をどう尋ねればいいのかが分からない。
一文字目でカーソルがサスケを急かすようにちかちかと点滅をしている。
携帯を握る手に知らず力が入る。
かといって、それで文面が思い浮かぶわけでもない。
もういっそ電話の方が早いのではないか。
結局何も書けなかったメール画面を終了し、電話帳を引っ張り出す。
その操作に気を取られていたせいだろう、サスケは目の前の雨が止んだことに気が付かなかった。
ふと気配を感じて、顔を上げる。
黒い傘があった。
それは自分に差し掛けられている。
そこだけ激しい雨が止んでいた。
「イタチ…」
ぽつりとこぼれた。
イタチが常の通り、こんな雨の日だというのに泰然とした様で、サスケを見下ろしていた。
「どうして…」
「向かいの店からお前が見えた」
見遣れば、夕立に霞む先、大通りを挟んだ向こうにカフェテリアがあった。
イタチもこの雨を避けて、雨宿りをしていたのだろう。
目を戻せば、兄の肩は自分と同様に少し雨に濡れていた。
わざわざここへこうして来なければそうはならなかっただろうと思う。
そしてこの兄にそうさせたのは、『平気じゃない』、あのメールだ。
「…ごめん」
俯く。
兄の番号を表示したままの携帯電話も力なく体の脇に垂れる。
だが、イタチはそういうことを気にした様子がなかった。
「ほら、サスケ」
気落ちした肩を抱かれるようにイタチの傘の下に引き寄せられる。
ごくごく自然な仕草だった。
触れられた肩が熱い。
触れあう体が熱い。
ぎょっとして見上げる。抵抗した。
「おいっ」
「駅まで送る」
それともお前も来るか、と視線でカフェテリアを示される。
「そろそろ注文したキャラメル・カフェラテが出される頃なんだが」
「…またそんな甘いものを…」
「甘くないものもあるぞ」
サスケは逡巡した。
抵抗は試みているが、どうやら兄は抱いている肩を離してくれそうにはない。
離せば確実にサスケがイタチから距離をとって濡れてしまうからなのだろうが、だからといってこのまま駅まで行きたくはなかった。
この時間だ。混雑をしているのは明らかだろう。
そんなところに一目で兄弟と分かるいい歳をした自分たちが肩を寄せ合って、いや一方的に抱かれて踏み入れるのは相当の勇気が要った。
いや、兄はどうかは知らないが、少なくとも十六歳のサスケにはとても要るのだ。
であれば、残る選択肢はひとつしかない。
「…誰かほかにいるのかよ」
「いいや、おれ一人だが」
「…女ばっかりの店とか」
「商談をしている風のサラリーマンもいる」
「アンタの奢りか」
「奢ってやってもいい」
「違う。おれの分はおれが払いたいんだ。アンタ、いつも勝手に支払いを済ませているだろう」
「お前の分はおれが払いたいんだがな」
「なんで」
「それはおれがお前の兄貴だからだろう」
イタチはサスケの依怙地さに諦めとも取れるため息を吐いた。
「で、来るのか、サスケ」
「…行く」
肩を抱かれたまま雨の中に踏み出す。
そっと窺えば、イタチの向こう側の肩は雨に打たれていた。
翻って自分の肩はどうだ。
置かれたイタチの手だけが濡れている。
詰まるところ、
「おれがお前の兄貴だからだろう」
それがこの人のサスケに対する何もかもの全てなのだ。
「兄さん」
「うん?」
「やっぱ奢られてやる」
「そうか」
「そうだ」
もう携帯電話に用はない。
サスケはそれを仕舞って、人通りが少ないことを言い訳に、これまでよりもほんの少しだけ兄の傍を歩いた。