09 怖い話の話



 やけに騒がしい。
 鍵を回し、扉を僅かに開けただけで中から複数人の声が雪崩のように押し寄せた。
 まだ日は変わらないが、時刻はそれに近い。
 イタチは心中首を傾げた。
 留守を預けたサスケはそういうところにはきちんと弁えがあるはずだ。
 だとすれば、イタチが家を空けている間にイタチの知人が訪ねてきたのか。
 幾人かの騒々しい顔を思い浮かべ、いや、今日はそれぞれに予定があったと思い出す。
 では、この騒々しさはなにか。
 訝しく思いながら扉に施錠をし、部屋に上がる。
 廊下はなかなか帰らないイタチのためだろう、灯りが点けられていた。
 だが、その廊下と居間を繋ぐ戸の向こうは既に薄暗い。
 ここへ来て漸くイタチは声の正体を理解した。
 これはテレビの音だ。
 居間の戸を開ける。
 電灯が落とされた部屋の奥で、思った通り、ただテレビだけが不気味に発光していた。
 そうして音量はいやに大きい。
 イタチは灯りを点けるよりもまず先にリモコンを探した。
 カウチに近寄る。よくそこにサスケが放りっぱなしにしているのだ。
 だが、イタチが先に見つけたのは、テレビのリモコンではなく、そのサスケだった。
 カウチに寝そべり眠っている。
 とりあえずローテーブルに置かれたリモコンを取り上げ音量を下げながら、サスケの様子を窺う。
 サスケはやや背を丸め、タオルケットにくるまってくうくうと寝息を立てていた。
 どうするか。イタチは少し逡巡する。
 よく眠っているようだ。けれど、朝まで眠るつもりなら、やはりベッドで寝かしてやったほうがいいだろう。
 可哀想にも思ったが、起こすことにした。
「サスケ」
 テレビのあんな音量の中、眠っていたサスケだ。
 声を掛けたくらいではなかなか起きはしない。
 そう思っていたが、予想に反してサスケの肩はイタチの声に驚いたようにびくっと跳ねた。
 同時に目を覚ます。
「イタチ…?」
 今にも落ちそうな瞼がゆっくりと擡げられる。
「寝るなら、ベッドで寝ろ」
 寝起きの気だるさからか、億劫げに上半身を起こし、ぼんやりとイタチを見上げるサスケに言う。
 けれどサスケは辺りをゆっくりと見回した。
 時計を探しているらしい。
「今、何時だ…?」
「零時少し前だ」
「今日は帰らないのかと思っていた」
 サスケは言いながら、せっかく起き上がったというのにまたごろり横になる。
 そうしていつも枕代わりにしているクッションの下から、携帯電話を取り出した。
 そこに兄からの着信はない。
 イタチは首を傾げた。
 どうもこの弟は時折おかしなことを言う。
「連絡を入れるなら、普通帰らないときだろう」
 遅いとはいっても、まだ日付は変わっていない。電車も動いている時刻だ。
 サスケが兄は帰らないと思いこんだ理由がイタチには見当たらなかった。
 一拍ほどの空白がある。
 それからサスケは「…そうだな」と曖昧に頷いた。
 そうしてそのまま瞼を降ろしてしまう。
 踏み入ってくれるな。
 サスケはそう訴えているのだろう。
 イタチは嘆息した。
 再度声を掛ける。
 話を戻すことにした。
「サスケ、ここで寝るな」
 寝室から持ち出されたタオルケットやクッション、夜着の代わりにしているスウェットを着ていることから、どうやらサスケはうたた寝をしていたわけではないようだ。
 彼はここで朝まで眠るつもりだったのだろう。
 そういえばテレビを点けっぱなしにして。
「サスケ」
「……」
 討論番組は今もイタチの背後で囁くように続いている。
 サスケの関心を引くようにはどうも思えなかった。
「…まだ見るのか?」
 イタチはいつまでも起き上がろうとしないサスケをベッドに追い立てるのを取り敢えずは諦めた。
 シャワーを浴びてきた後、まだサスケが起きていたならもう一度そのときに促せば良いし、眠っていたなら運んでやってもいい。彼が幼い頃によくそうしたように。
 すると、漸くサスケはちらりとイタチの背後を見遣った。
 見ていない、とぼそぼそ言う。
「見ていない?」
 違和感があった。
 もう見ない、ではない。サスケの言の意は確かに、見ていなかった、だ。
 あんな音量で点けていたというのに。
 サスケはイタチに背を向けた。
 きっとイタチの訝しむ目線を嫌ったのだろう。
 それからまた空白が二人の間に空く。
 イタチはリモコンを再度取り上げた。
 テレビを消す。
 辺りはしんと静まりかえった。
 世界から途切れたように、イタチとサスケ、二人だけが在る。
 だが、不意に観念したようにサスケがぽつんと呟いた。
「物音が気になるんだよ」
 外の、たとえばエレベーターの駆動音や共有通路を歩く足音、それから扉の前で立ち止まったようなあくまで「気配」。
 それらほんの些細な物音は、サスケにいつも期待を抱かせる。
「ほらお前がずっと待っていた兄さんが帰ってきたぞ」
 と、イタチがまだ十歳であったサスケには何も告げず家を離れたその時から、もう長いことサスケはそんな囁きに耳を傾けている。
 ただそれほど察しは悪くはないので、幼いながらもすぐに囁くそれは嘘吐きなのだと分かったが、けれどだからといって「もしかすれば」をかんたんには捨てられない。
 物音が怖い、とサスケはひどく落ち着きを払った声音で言った。
「アンタが帰らないことじゃない。在りもしない期待をおれがしてしまうことが怖いんだ」
 イタチが触れれば忽ちに崩れる、そんな頑なな背中だった。