08 風邪をひいた話
幼い頃から何においても秀でていたイタチにとって、小学校の勉強というのは非常に簡単なものであった。
授業で習うことは教師から教わらずとも解っていたし、家族や人間の生き死に、あるいは現代社会の病理についてさえもう数年前には思いを巡らせていた。
かといってイタチは授業を放棄するようなことはしなかった。
平易な問題であっても、教師の言う手順を踏んで解いた。
やや理解の遅い同級生を大人しく待つこともした。
解法が解るからと先に全ての問題をやってのけるようなこともせず、だからといって授業が退屈だと訴えることもなかった。
いつだって背筋をきりりと正して、静かに時を過ごす。
今日もイタチがそのように一日を送ろうとしていた矢先の二時間目、少々事情が変わった。
教壇に立つ教師の声だけが響く教室に、がらりと木の戸が開く音が割り込む。
やや乱暴な慌てたようなそれに、生徒たちが一斉に出入り口を見遣った。
「授業中すみません」
謝りながら姿を見せたのは、弟の担任うみのイルカだった。
イタチの胸はざわめく。
授業中に他学年の担任が教室にやって来るなんて余程のことだ。
サスケになにかあったんじゃないだろうか。
そんな考えが頭を過ぎったちょうどその時、ちらりとこちらを見たイルカと目が合った。
明らかにイタチを探し、探し当てたという風だった。
心臓が跳ねる。
「イタチ、ちょっといいか」
イルカに呼ばれて席を立つ。
クラスメイトらはイタチを思いやってか、騒ぐことはない。
一様に心配げな視線を狭い通路を歩くイタチに投げかけている。
イルカと声を潜めて何事かを話していた担任は、イタチが振り仰ぐと、頷いて見せた。
「授業のことはいい。行ってやりなさい」
それだけでやはりサスケのことだとイタチは確信した。
イルカに連れられて行った先は保健室だった。
独特のにおいが漂う白い部屋の白いカーテンの奥、白いベッドにサスケが寝かされている。
眠ってはいないようだ。
イルカの背後からイタチが姿を見せると、「兄さん…」とどうしてか悔しげな顔で、けれど声は弱々しい。
「突然、寒気を訴えてなぁ」
イルカは頭を掻いた。
それを保険医のシズネが続ける。
「で、熱を計ったら38度6分」
「今朝は元気だったんですが…」
イタチはベッドの傍に寄り、サスケの顔を覗いた。
頬は赤く、けれど顔色は青白い。いつもは強い目の光も今は鈍く、その上、涙の膜がうっすら張っている。
「あとは頭痛もひどいそう。ただの風邪だとは思うけど」
「家に電話をしたんだがなあ、親御さんは留守のようなんだ」
「母は父の職場をよく手伝いに行っているので、出掛けているのかもしれません」
「そうか、困ったな」
溜息を吐いてイルカが天井を見上げる。
イタチは壁に掛かる時計を見上げた。
午前十時過ぎ。
母はどれだけ早くても昼までには帰っては来ないだろう。
イタチはイルカに向き直った。
「先生、おれが連れて帰りますよ」
けれど、それに真っ先に反対したのはサスケ本人だった。
いやだと体を起こしてまで訴える。
それがあまりにも強い口調なので、イタチはやや面食らってしまった。
いったいどうしたことかと二人の教師に訊けば、そもそもイタチを保健室に呼ぶことにも随分と反対したらしい。
へそを曲げているのだ。
「サスケくん、兄さんは絶対呼ぶなって言ってたからね」
普段は聞き分けのよい子であるはずなのだが、手を焼かせてしまったことがシズネの苦笑から見て取れた。
イタチは「こら、サスケ」と少々厳しい口調で弟を咎めた。
「先生にそんな口をきいたのか?」
「だって…」
そう呟いたっきり、サスケは目を逸らせてしまう。
けれど、イタチにはなんとなくサスケのこころ内が透けて見えていた。
日頃なにかにつけて兄と張り合う弟だ。
弱々しい姿は兄には見られたくないのだろうし、手を貸してもらうなど以ての外に違いない。
イタチは二人の教師に頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしました。やはり連れて帰ります」
だが、それに反対の声を上げたのはサスケではなくイルカだった。
「でも、イタチも授業だろう?」
「今日の内容はそれほど難しくないようですから大丈夫です。それに早くサスケを病院に連れて行ってやりたいので」
係りつけの病院の午後診療は三時からだ。
これから熱は更に上がるかもしれない。
そうなれば病院へ行くことも、診療の順を待つことも、今のサスケにとっては負担だろう。
「家の鍵は?」
「ここにあります」
「お金は?」
「母から何かあったときにといくらか預かっています」
「保険証は?」
「保管場所を知っています」
「昼飯はどうする?」
「かんたんなものなら作れます。おかゆも何度か作ったことがあるので」
イルカとシズネは顔を見合わせた。
イタチは二人の了承を待つ。
反対される理由はもうないだろうと踏んでいた。
その通り、先に結論を出したのはシズネだった。
「イタチくんなら大丈夫なんじゃないですか」
だがイルカは眉間にしわを寄せる。
「…でもなあ…」
「母も昼過ぎには帰ってきます」
「…そうかあ…そういうことなら…」
「連れて帰りますね」
と言うが早いか、イタチはサスケを軽々と背負った。
イタチは細身だ。けれど決して非力なわけではない。
慣れているなあとイルカが感心する。
サスケも先ほどまでは兄を呼ぶことさえいやがっていたというのに、体の辛さもあるのだろうが、イタチの背に収まると安堵したようにその肩に顔を埋めた。
サスケの上靴をイルカに拾い上げてもらい、後ろ手に持つ。
「ほかの荷物は母が帰って来てサスケが落ち着いたら取りに戻ります」
「職員室に引き上げとくよ」
「すみません、ありがとうございます」
イタチはサスケを背負ったまま、改めて二人に頭を下げた。
シズネが開けてくれた扉を潜り、授業中のため静まりかえった廊下を歩く。
「帰って病院に行こうな、サスケ」
「…兄さん」
「うん?」
「ごめん…」
「かまわないさ。それより、」
昼はなにを食べようか。
イタチはそんな話にそっと会話をすり替えた。
「ということもあったな」
「……」
「懐かしい」
「……」
「お前は覚えているか?」
「……」
「聞いているのか、サスケ」
「…聞いてねえ」
そう答えたサスケの声は掠れていた。
吐く息もやや荒く、熱い。
サスケはぐったりとイタチの左肩から胸にもたれ掛かっていた。
あまりにぐったりとしているので、イタチが抱き込むようにその体に腕を回し支えてやっているくらいだ。
そうでもしなければ、今にもずるずると倒れてしまうだろう。
サスケは頗る体調が悪かった。
寝て起きたら、高熱が出ていたのだ。
頭痛や目眩、吐き気、喉の痛みに倦怠感もある。
それでこうして右腕を骨折しているイタチに引きずられるようにして病院を訪れた。
もし骨折などしていなければ、きっと昔のように兄は自分を背負っただろうとサスケは思う。
けれど、タクシーからこの待合い室の長椅子までの辛さを考えれば、いっそ今はおんぶでもだっこでも何でもしてくれ、と捨て鉢な気分になるほど風邪の症状は重い。
もちろん、本当に兄がそんなことをしようものなら、残る力で抵抗は試みるつもりだが。
「裸で寝るからだ」
寒気がおさまらないサスケの腕をイタチの左手がさする。
以前あれほどいやがった兄の上着をいくら着込んでも、ひどく寒い。
サスケは口を尖らせた。
「裸のまま放り出したのはアンタだろ」
ぼそぼそと文句を言ってやる。
今回は兄のせいだ。
全て丸ごとイタチが悪い。
だが、イタチは飄々とした様子を崩さなかった。挙げ句、
「着せてやろうとは思ったが、片手だけではどうにもできない。だから、風邪を引くぞと起こしてやっただろう」
などと言うのだ。
サスケはなんとか体を起こし、掠れた声で抗議した。
「起きられるわけないだろっ。アンタがひどくしたせいで、意識が飛んでたのに」
「そうしろと言ったのは、お前じゃないか」
「加減がないんだよ、アンタは。おれはテスト明けで疲れていたんだ。あんなことされたら…」
というところで、くらりと目の前が一瞬歪んで、暗くなる。
目眩だ。しかも今日一番の酷さだ。
「平気か、サスケ」
イタチが覗き込んでくる。
サスケは返事の代わりに、イタチの肩に顔を埋めた。
そうしていると不思議と徐々に体が軽くなるのだ。
「…兄さん」
「うん?」
「…医者に症状を訊かれたら、どうしよう」
喉の痛みと全身の倦怠感は、風邪のせいだけとは思えない。
刻々と近づく診察の時を思うサスケの頭痛は酷くなるばかり。