07 利き手の話



 ターミナル駅にある夕方のカフェは賑わっていた。
 週末だから余計なのだろう。
 友人たちとの会話を楽しむ者たちはもちろんのこと、この駅から発つ特急列車を待つ旅行者の姿もあれば、誰かとの待ち合わせまで時間を潰している風の者もある。
 おれは後者だった。
 学内考査テストが明日終わるとメールを昨日寄越したサスケと、ならば夕食は外で取ろうということになったのだ。
 会うのは試験期間を挟んだため二週間振りだろうか。
 レトロな鐘がからんからんと音を立てる。
 おれはこの日何度目になるだろう、出入り口に目を遣った。
 ようやく来たらしい。
 制服姿のサスケは一度帰って着替える暇がなかったのだろう、肩から通学に使っているスポーツバックを提げている。
 ぐるりと店内を見渡す弟に分かるよう、左手を挙げてやる。
「サスケ」
 呼ぶと、彼は少し頬を緩めてこちらへやって来た。
 が、途中から徐々に顔を険しくする。
 そうしておれが待つ席まで来ると、
「なんだよ、それ」
 と語気も強く、突然おれを非難した。
 なかなか席に着こうとしないので、仕方なく促す。
「とりあえず座らないか、サスケ」
「おれはどうしたって訊いてんだ」
 バックを下ろして、やっと座る気になったらしいサスケの言に首を傾げる。
「先ほどは、それはなんだ、と訊いていたんじゃないのか」
「同じことだろう。さあ座ってやった。座ってやったから言えよ」
「見て分かるだろう、骨折した」
 おれは肩から右腕を吊っている。
「なんで」
「いろいろと」
「それじゃわかんねえよ」
「お前に教えたところで、早く治るわけじゃない」
「そんな言い方…!」
 サスケは辺り構わず大声を上げた。
 弟がこうも人前で激昂するのは珍しい。
 おれは注文を取りに来た店員に目を向けた。
 突然のことに戸惑い、気まずい様子で佇んでいる。申し訳ないことをした。
「すみません。あとで呼びます」
 笑顔を浮かべてそう言うと安堵したのだろう、彼女は頭を下げて席を離れていった。
 一瞬凍り付いたように静まった周りにも、駅のカフェ特有の喧噪が戻ってきている。
 サスケもまた機嫌はたいそう悪いようだったが、もう大声を出すつもりはないらしい。
 おれはキャラメル・カフェラテのカップを左手で取り上げた。
「…おい」
「うん?」
「不便じゃねぇのかよ」
 ぶすくれた顔のままのくせに、そんな心配をしてくれるのがサスケらしい。
 おれはキャラメル・カフェラテを一口含んで見せた。
「慣れたよ」
 確かに右利きではあるが、もともとどちらかといえば器用な方だ。
 二週間もあれば、一通りのことはできるようにもなる。
「でも、飯とか風呂とかは面倒じゃないか?」
「まあ水を使うのはどうしてもな」
「アンタ、もしかしてまた適当に食ってるんじゃないだろうな」
 どうやらサスケはおれが食事をきちんと取っていないことを疑っているらしい。
 母さんが毎食手を抜くことなく手料理を振る舞う家に暮らす弟は、どうも食事のことにはうるさい。
 だがそれはとても健全な育ちをしているということだ。
「お前の言う通り、作るのも洗うのも時間がかかる。この頃は外食が多い。が、ちゃんと食べているさ」
 そうそう、外食といえば今日は何を食べに行こうか。
 ああ、そういえばサスケはまだこの店での注文も済ませてはいない。
 そろそろサスケの声音からも険が取れてきている。
 おれはテーブルの端に立てられているメニューを取った。
「なにか頼むか?サスケ」
「いや…」
 首を振られて、メニューを戻す。
「ここのカフェラテは旨いんだがな」
「いらねぇ」
「じゃあ出るか?」
「アンタまだそれ飲み終わってないだろ」
「ああ、そうだな。すぐ飲むよ」
「いいよ、急がなくて」
「いや、急ごう。もうすぐ夕食時だ。どこも満席になる」
「……」
「サスケ、なにを食べたい?」
「ステーキ。タバスコをいっぱいかけたやつ」
「……」
 どうやらまだご機嫌は斜めだったらしい。
 まあよくは分からないが、おれのせいなのだろう。
 残り少しのキャラメル・カフェラテを飲み干す。
 もうちょっと機嫌を取ってやらなければならないか。
「お前が食べたいのならそうしよう」
「アンタ、肉は嫌いだろ」
「食べられないわけじゃない。…タバスコは勘弁してくれ」
「…冗談だよ」
 サスケはふと笑った。
 ささやかなそれだったが、今日はじめて見せた顔だ。
「兄さん」
「なんだ?」
「出よう」
 そう言うが早いかサスケは立ち上がり、バッグを取り上げた。
 そうしてさっさと店を出て行ってしまう。
 精算を済ませ、店の前で待っていたサスケに尋ねる。
「なにを食べるか決まったのか?」
「まだ」
「じゃあ店を見ながら決めるか」
「いや、兄さん、兄さんの家に行こう」
 その前にスーパーに寄って行こうと言う。
「外で食べるんじゃないのか?」
「だって兄さん、外食続きなんだろう。今日はおれが作る」
「だが、」
「洗い物もおれがするからいいだろ」
 サスケはもう決めてしまったらしい。
 依怙地なところのある弟だ。
 せっかく学内考査の労を労ってやろうと思っていたが、どうやらそれはもう叶わない。
 なぜなら、
「なあ、ほかにして欲しいことがあれば言えよな」
 とどこか期待を込めた目で言われると、おれは昔からとても弱いんだ。
 肩を並べて歩き出し、考えておくよ、と返事をしたところで違和感に気がついた。
 サスケがおれの右隣を歩いている。
 いつもとは反対の位置だ。
「サスケ」
「なんだよ」
「おれはな、今、」
 少し下にあるサスケの肩を抱き寄せたい。
 そんな衝動に駆られている。