第11難



 その夜、風呂から上がったフガクがよく冷えた瓶ビールとコップを手に居間に戻ると、任務から帰ったらしいイタチが畳に忍具を広げ、その手入れをしていた。どれほど帰りが遅かろうとも、彼がそれを欠かすことはない。先達としてフガクがイタチやサスケに教えてきたことだ。
 フガクが座すと、イタチは手を止めこちらに向き直った。
「父さん、戻りました」
「ああ、ご苦労。…しかし、帰りは明日の朝じゃなかったのか」
 ビール瓶の詮を抜き、コップに注ぐ。程よく白く泡立ったそれが風呂上がりの渇いた喉を刺激した。一気に半分を干してコップを座卓に置く。
 イタチはそれを待っていたかのように「ええ。実はそれが」と口を開いたが、その袖をくんっと引っ張る者があった。
「…兄さん」
 弟のサスケだ。
 夕食後は自室に籠っていたはずの彼は、いつの間にかイタチの傍らを陣取っては熱心にその手元を覗き込んでいる。小さな頃から兄の背を追うサスケは、その兄から何事も学ぼうというのだろう。
 イタチが能動的に話そうとしたのではない。ならば急ぎ聞くことでもあるまい。フガクがもういいとイタチに手を振ると、それを見ていたサスケは早速忍刀を鞘から抜いた。まずは自ら検分してイタチを仰ぐ。
「兄さんのも猫バアのところのものだよな」
「ああ。そうだ」
「…でも、おれのとは刃の毀れ方が違う」
「それは研ぎ方の差だな」
 イタチはサスケから忍刀を受け取ると、同じように光に翳した。すっと目を細める。刃の傷み具合を確かめているのだろう。それから丁寧に汚れを拭っていく。
 サスケは身を乗り出した。
「兄さんが自分で研いでいるのか?それなら、おれにも」
「いや、腕のいい鍛冶屋が外にいてな、定期的に頼んでいる。興味があるのなら今度お前にも紹介しよう」
「本当か?」
「ああ、本当だ。だが、手入れにも巧い方法はある。例えば」
 と言い掛けたイタチの言葉は、しかし台所からのミコトの声に掻き消された。
「イタチー、サスケー。いつまでも喋ってないで、早くお風呂に入ってちょうだい」
 顔を見合わせ、先に嘆息したのはイタチだった。忍刀を鞘に収める。
「…だそうだ、サスケ」
「……」
 他方サスケといえば、教えを乞える折角の機会と踏んでいたのだろう、中断を余儀なくされたことに不平こそ言わないものの、むっつりと唇を引き結ぶ。
 昔からそうだった。フガクは思う。
 長男らしく聞き分けが良いのがイタチ。依怙地だが、しかし素直なのがサスケ。イタチにはその聞き分けの良さの裏返しのように、誰にも何にも許さない頑ななところがある。
「兄さん…」
 サスケは風呂場へ行こうと立ち上がったイタチを見上げた。その頭をイタチは少し笑ってくしゃりと混ぜる。
「続きは風呂に入ってからだ」
「…百聞はなんとかって言うだろ。百も聞いていたらおれが茹る」
 サスケはイタチの手を鬱陶しげに払った。けれど腰を上げ、イタチに付いて居間を出て行く。
 成る程。
『続きは入ってから』
 とは、風呂から出てからではなく、入っている最中に、ということか。
「……」
 フガクはがさがさと朝刊を開いた。


 廊下を渡る軽い二重の足音が聞こえてきたのは、それから一時間程してのことだった。イタチとサスケが風呂から戻って来たのだろう。からりと障子が開く。
「髪をきちんと拭けよ、サスケ」
「よせよ、もうガキじゃないんだ」
 そんないつものやり取りが、今度は夕刊を読むフガクの視界の隅でまた始まる。
 だが、違和感があった。何か妙だ。おかしい。
 紙面から顔を上げる。
「……え?」
 思わず目を瞑る。
 開ける。
 しばしばと瞬く。
 また開ける。
 そこには間違いなくフガクの二人の息子がいた。イタチが嫌がるサスケの髪をバスタオルで覆ってわしわしと拭いている。
 見慣れた光景だ。
 但し、十年前に。
 イタチは暗部に入るか入らないか、サスケはアカデミーに入学するかしないか、それくらいの背格好をしている。
「……え?」
 フガクは隣でお茶を淹れていたミコトに顔だけをぎぎぎと振り向けた。二人を指差す。
「おい、あれは…」
 ミコトはずずっとお茶を啜った。
「ええ。あれくらいだと、二人で入ってもお風呂もお布団も狭くないんですって」
 そう事も無げに言って微笑む妻。
 微笑ましいほど仲の良い二人の息子。
 フガクの指はへなへなと力なく垂れた。
「…そ、そうか」
「ええ、そうよ。それに」
 そう言って、不意にミコトはイタチからバスタオルごとサスケを奪ってぎゅうっと抱き締めた。
「こうしていると、ほら、あの頃と私も変わらないでしょう」
「……え?」
 思いがけない一言に一瞬言葉に詰まるフガク。
 そのフガクに微笑んだまま、
「……え?」
 と返すミコト。
 固まる空気。
 凍りつく夫婦。
 いち早く場を察したイタチはミコトの腕の中のサスケの手をさっと引いた。バスタオルが落ちるが、気には止めない。ぐいぐいと引いていく。
「さあ、もう寝るぞ、サスケ」
「だーかーらー、おれは中身は十六なんだぜ、兄さん」
「お前が見たがっていた巻物を読んでやるから」
「…ほんとか?」
 ぱたぱたと兄弟の足音が遠ざかる。
 一方居間に残されたフガクの袖をくんっと引っ張る者があった。
「……え?」
 妻のにこやかな微笑みにだらだらと冷や汗が流れて落ちた。


■後日談その1:
 どうして六歳の姿で任務に来るのと訊ねたカカシに対するサスケの回答
「修業だ。いついかなる状況でも変化の術が解けないようにする、そのためのな」
「だからってね、お前」
「アンタに分かるか?気が付いたら、十三の兄さんに十六の姿で抱かれていたおれの気持ちが!?(くわっ)」
「…うん、よしなさいね、そういう言い回し。それってたんに朝起きたらお前だけ元に戻っていただけでしょ」
「はあ?おれは初めからそう言っている」
「…あ、そ。ていうか、二人で寝なきゃいいんじゃない?」
「……え?」
「……え?」


■後日談その2:
 だからってどうしてお前まで十三の姿で任務に就いているのだと訊ねたダンゾウに対するイタチの回答
「六歳のサスケを抱いている最中に、おれだけ二十一に戻るわけにはいかないだろう。サスケが(重いと)痛がる」
「……え?」
「……え?」