第8難
今夜は少々早く食卓に夕飯が並んだせいか、夜が更けるにつれ小腹が空いたおれは、台所の隅に置かれた段ボール箱から親戚から回ってきたという伊予柑を三つほど取り出した。
「サスケ」
と、しかしすぐさま寝る前の間食を母さんに注意され、早々に父さんしかいない居間へ逃れる。
父さんも躾けには厳しいが、十代の男の胃袋事情には寛容のようだ。
ちらりと伊予柑を抱えたおれを見て、黙って読んでいた新聞の一頁を寄越してくれた。
その新聞をこたつの上に広げ、早速伊予柑の皮を剥く。
ふつうの蜜柑に比べれば固い皮だ。親指には少し力を入れなければならない。
しかし現れた黄色の果肉からは、よく熟した、今がまさに食べ頃だと主張をするような甘酸っぱい香りがつんと香り、辺りを包む。
これはどうやら当たりだ。
おれは途中でそのひとつを口に放り込みたい衝動をどうにか堪え、剥いた厚い皮の上に袋から取り出し丁寧に筋も取り払った果肉も果汁も詰まったそれを並べ置いていく。
先に面倒な作業は全て終わらせ、あとでゆっくり味わおう。
そう考え、また次の袋に指を掛けたそのとき、
「伊予柑か」
風呂から上がってきたのだろう、乾き切っていない髪を下ろしたままの兄さんが居間に顔を出した。
そうして家族での定位置、おれの隣に腰を下ろし、あろうことか、ぱくり。
「うん、美味いな」
おれの伊予柑を摘まんで食べてしまったではないか。
声を上げて非難をするのはかんたんだった。
「あー!」とでも「おい!」とでも言えたし、「おれがどれほど時間をかけてこの伊予柑を剥いたと思っているんだ」と責め立てても、「せめて一言くらい断れよな」と口を尖らせてもよかった。
しかし、いや待ておれ、と目を瞑って自制する。
伊予柑だ。たった伊予柑ひとつだ。
そんなことくらいで腹を立てるなど、なんだか卑しいじゃないか。
そうしてそんな風なことを兄さんに言われたら、おれの矜持がきっとおれを許せない。
よし、ここはひとつ「もうひとつどうだ、兄さん」くらい言ってやろう、と開けた目に飛び込んできたのは、新聞の上に外側の皮のみ残された伊予柑の無残な姿だった。
嫌な予感に駆られ、衝動的に横の兄さんを見遣る。
すると、やはり兄さんの口はもぐもぐと動いていた。
「筋が残っていたぞ、サスケ」
などと言われた時には、危うく前言撤回をしそうになったが、おれはもう子供じゃない。
黙って二つ目の伊予柑を剥くことにした。
先程と同じ手順で、いや先程よりもより慎重に筋の一本一本を取り外していく。
が、ひょいっ、ぱくっ。
「……」
「うん、美味い美味い」
くそがぁ。
おれは兄さんの横暴に負けず、さらに袋を剥いた。
むきむきむき。
だが、ひょい、ぱくっ。ひょい、ぱくっ。
剥いても剥いても、結局ひょい、ぱくっ。ひょい、ぱくっ。
などと繰り返している間に二つ目の伊予柑も兄さんの腹の中にすべておさまってしまった。
ちぃぃ。
仕方なく三個目の伊予柑に手を伸ばし、それを剥こうとした時だった。
「いい加減にしろ、イタチ」
父さんが割って入ってきた。
どうやら見るに見兼ねたらしい。そりゃあおれでも当事者でなけりゃ呆れている。
だが、父さんと兄さんが対峙すると大体は碌なことにならないのだ。主に父さんが。
それを分かっているのかいないのか、父さんはおれが止める間もなく説教を始めてしまった。
「いいか、イタチ。それはサスケが風呂上がりのお前のために剥いていたものじゃない。サスケが自分で食べるために剥いたものだ。それをお前は」
と言う父さんの言葉が終わる前に、兄さんがおれをじっと見詰めてくる。
「…本当か、サスケ」
おれには返す言葉がなかった。
いや、確かに全ては父さんの言う通りだ。
しかしそんなことを正直に言ってしまっては兄さんの立つ瀬がないんじゃないか?という一抹の不安がおれの口を重くしている。
かといって、「いや違う」とも勿論言えない。
それでは折角こうして嵐が明らかに吹き荒れそうな海の中、助け船を出してくれた父さんの面子を潰すことになる。
くそ、おれはいったいどうしたらいいんだ。
時計の針が時を刻む音だけがこたつを囲んだ三人の間に響く。
兄さんも、父さんも、おれの返答を待っている。
冷や汗がつつっと背中を流れた。
おれの一言でおれんちのお茶の間が崩壊する。
考えに考え、そしておれはいつの間にか俯いていた顔をついに毅然と上げた。
「いや…先の二つは兄さんのために剥いたものだ。そして、今から剥く伊予柑は父さん、父さんに食べてもらいたいんだ。おれと半分こしようぜ、父さん!」
おれは緊迫する空気を破るように伊予柑に親指を突き立てた。
ぶしゅうぅっと果汁が開いた穴から勢いよく飛び出す。
その飛沫を浴びながら、おれは思った。
くくくっ、我ながら良い折衷案だ、と。
父さんにやや分の悪い答えになってしまったが、これでおれも食べたかったという意図は伝わるだろうし、十六の息子と伊予柑を半分こという展開のおまけつきだ。
父さんを見遣れば、おれの狙い通り、咳払いをしながらも、「まあお前がそこまで言うのならばな」とかそわそわしている。
が、そこで予期せぬことが起こった。
突然イタチが立ち上がり、まるで幽鬼のようにふらりとこたつを出ていってしまったのだ。
「おい、兄さん!」
その頼りない足取りに思わずおれは呼びかけたが、
「サスケ、もう兄さんの後は追うな」
あいつは深く傷ついている、と父さん。
待て待て、アイツはおれの伊予柑を二個全部食べただけだぞ。何処をどう傷つくんだ。
なんだかよく解らなかったが、ともかく父さんと伊予柑を半分こするために三個目の伊予柑の皮を剥く。
そしてその半分を父さんに渡そうとして、刹那、おれと父さんの間を苦無がひゅんと風を切って割いた。
壁に突き刺さる苦無。
おれの手から零れる伊予柑の半分。
投げたのは、もちろん兄さんだった。
その手には伊予柑がひとつ握られている。
兄さんは唖然とするおれたちなど構いもせずに、先程のようにおれの隣に座った。
それから徐に伊予柑に親指をぶすっと突き立てる。
「サスケ」
「お、おぅ」
「それはお前が食べるんだ」
兄さんの視線の先にはおれが剥いた三つ目の伊予柑があった。
おれはその能面のような無表情に気圧される形でかくかくと頷く。
そんな俺に満足したのか、次に兄さんは父さんを瞬きもせず見詰めた。
「父さんにはおれが剥こう。力を込めて」
心を込めてじゃないのかよ、と突っ込みたかったが、それよりも兄さんの剥く伊予柑の色が気になった。
「イタチ、その伊予柑、ちょっとおかしいぞ」
と父さんも口の端を引きつらせるほど、なんか皮が茶色い。
だが、兄さんは知らん顔だ。
「なにもおかしくはない。おれは伊予柑を剥いているだけだ」
いや待て兄さん、その剥いている伊予柑が腐っている。
確か箱の隅には腐った伊予柑がいくつかあった。
おれはそれを避けて持ってきたのだが、たぶんこの兄は直行したのだろう。
おれはむきむきする兄さんの手に縋った。
「もうやめてよ、兄さん!」
「サスケ。こういう危ないものは、まず試しに年長者が食べるものだ。子供に食べさせるなんてもってのほか」
やっぱり腐ってるって認めるんだ…。
なぜ試さなければならないのか、捨てたらいいんじゃないか、という問いはもはや兄さんにはナンセンスなのだろう。
「そうでしょう、父上」
兄さんは今日初めての笑みを浮かべた。勝者の笑み、というやつを。
一方、明らかに父さんは追い詰められていた。
一家の大黒柱などというアイデンティティを盾に取られてしまったのでは、おれも手出しができない。
くっ、どうしたら…と奥歯を噛んだ、その時、べーっと物凄い音を立てて居間の襖が開け放たれた。
そして、
「寝る前に間食しちゃだめって言ったでしょう」
廊下の冷気を身に纏うようにして仁王立ちをする風呂上がりの母さんがそこにいた。
「サスケ、イタチ、それにあなたまで」
いやいやいや食べたのは兄さんだけだから!と無論言えるような雰囲気ではない。
その上、兄さんがさっき投げた苦無が壁に刺さったままだということに、おれと母さんは同時に気が付いてしまった。
「まあ…」
母さんは足音も立てずおれたちの前を横切り、片手で深々と刺さったはずの苦無をずぽっと引き抜く。
そうしてそれでぺちぺちと手のひらを打った。
勝者の笑みというやつで…。
「どうして伊予柑を食べるだけで苦無が飛ぶのかしらね?ねえ、サスケ、イタチ、あなた」
当分、寝る前の間食は止そう。
その夜、土下座に近い正座をしながら、おれは固く心に決めたのだった。
■後日談
翌日げっそりした顔で任務に現れたサスケにあらましを聞いたナルト談。
「それって寝る前の間食が根本的な原因じゃないってばよ、サスケ…」