第7難
「縁側に回ってくれ」
と兄を一目見た弟は少々億劫げに短い嘆息を吐き、家の奥へと取って返して行ってしまった。
イタチの「ただいま」に返す言葉もない。ただ早々に彼が引っ込んだ奥からは「母さん」と台所の母を呼ぶ声だけが聞こえる。
玄関に残されたイタチはとりあえず背負っていた荷を上がり框に置いた。次いで額宛も取り払い、荷の上に掛けて、それごと隅へと押しやる。
家の敷居を跨いだのは実に一ヶ月振りのことだ。イタチもまた小さく息を吐き、先程閉めた戸を引いて再び外へ出た。
夕焼け色に染まる庭を横切り、言われた通り縁側へ回る。
開け放たれた座敷には父がいた。この時刻にいるということは、今日は内勤だったようだ。
父は手にしていた新聞からちらりと目を上げた。
「帰ったのか」
「ああ」
答えながら濡れ縁に腰を下ろす。
それで終わりだ。それ以上は何もない。別段、酷い仲違いをしているわけではない。ただいつの間にか、昔から、新聞を捲る音だけが父と息子の間にはよく響いていた。それだけのことだ。
イタチは垣根の向こうへと目を遣った。
陽は傾き始めている。里の家々は西日に淡く赤く色付いていた。人々が家路を急ぐ頃だろう。だが、この集落にまではそのざわめきは聞こえてこない。
切り取られたかのようにしんと閑静な時の中、イタチはふと自身の爪先を見詰めた。
泥が付いている。衣服や体は何ともないが、任地から森を駆けてきたそのままのせいか、剥き出しの足先だけが土に汚れていた。
普段ならば本部で洗い流すところだが、今日は報告と残務を簡単に済ませ、帰って来てしまった。この時刻ならば夕飯には間に合うと踏んだのだ。それその通り、今この家は夕飯の温かいにおいに包まれている。
「兄さん」
暫くしてサスケの声が頭上から降った。
振り仰ぐと、そこには湯を張った桶と手拭いを手にしたサスケがいた。彼は帰った兄を一目見て、足を洗う湯が要ると思ったのだろう。
湯気の立つ桶を受け取るため、手を差し出す。
「すまないな、サスケ」
だが、サスケからは返事も、そして桶も寄越されなかった。
それはちゃぷんと音を立てて波立ち、濡れ縁の、イタチの隣へと降ろされる。
それからサスケもその桶の隣にどさりと胡座を掻いた。
用をなくしたイタチの両手が力なく脇に垂れる。弟の意図するところがよく分からない。
お互いの姿をお互いの眸に映す。すると先にサスケが焦れた。唐突にずいと手を突き出してくる。
「足」
そのぶっきらぼうで端的な言葉にイタチは小首を傾げた。
「足?」
「寄越せよ、どっちでもいいから」
思わずまじまじとサスケの顔を見詰める。
それがこの弟にはどうにもきまりが悪かったようだ。ふいと目を逸らされる。ただ差し出された手はそのままだった。
「洗ってやると言っている」
なんとつっけんどんな口振りだろう。イタチは苦笑した。だが、それがこの弟なりの心遣いと優しさで、そうして盛大な照れ隠しだともきちんと分かっている。
ありがとう、と言ってもよかった。茶化してからかってもよかった。けれど、そのどれをもしなかった。彼がくれるものをただ黙って受け取ればいい。それだけでいい。最近知ったことだ。
爪先の土を軽く払い、桶に右足を浸ける。心地よい温度だ。暗がりの忍として外で知らず知らず張っていた神経がゆっくりと解きほぐされていく。
「じゃあ洗うぞ」
イタチの足を取ったサスケの手つきはその生意気な普段の口振りとは裏腹に何処までも丁寧で優しかった。
包み込むような両の手のひらがイタチの足の甲と裏を擦り、たっぷりと時間を掛けて指の一本一本を洗うのだ。時折踝に湯を浴びせるのは、外の空気がひやりと冷たいからと気遣ってのことだろう。
俯き黙々と兄の足を洗うサスケを暫し眺め見守る。
そして、ふと気が付いた。
彼の今日は下ろした前髪が伏せた眸に深く掛かっている。
こんなにも長かっただろうか。
自然と手が伸びた。手のひらをこめかみから差し入れ、彼に掛かる前髪を掻き上げる。現れた眸は大きく見開かれていた。
「なに、なんだよ」
上目遣いに軽く睨まれる。
指からはさらさらとサスケの髪がこぼれて落ちた。随分と癖の強い髪だが、触れればこんなにも柔らかで細く、繊細だ。
指通りが気持ち良くて、イタチは何度か彼の髪を掻き上げた。
「少し髪が伸びたな」
するとサスケは瞠目していた眸を細めた。
なんだそんなことかとでも言うように嘆息して、止まっていた手をまた動かし始める。
「あんたが家を空けて一ヶ月も経つ。髪くらい伸びる」
「…お前、何をそんなにむくれているんだ」
「むくれてなんかない」
「そうか?」
「そうだ」
「しかし、」
いつも小突く額の少し下、眉間に指先で触れる。
「難しい顔をしている」
「それはおれに絡んでくる兄さんのせいだろ」
サスケは軽く頭を振って兄の指から逃れた。が、それも束の間、イタチはこつんと少々強引に額と額を合わせてやった。
「……っ」
今度こそサスケの手がぴたりと止まる。指先からは湯の雫がぽたりぽたりと桶に落ちた。
微笑むために細められたイタチの眸の睫がサスケを擽る。
「ただいま、サスケ」
「…それ、さっきも言っていなかったか」
「言ったさ。でもお前はちゃんと聞いていなかったようだからな」
ただいま。
ほら、お前のところへちゃんと帰って来たよ。
「…あなた、新聞が逆さですよ」
「…お前こそ、湯呑みから茶が零れているぞ」
向こうでは厳しくも大切に育ててきた次男が、「お…おかえり、兄さん」などと実の兄に顔を真っ赤にしている。