夜明けの晩に



 いよいよ雨は酷くなった。
 濃く繁った緑を擦り抜けた幾つもの雨粒が、容赦なく小さなサスケの顔や肩を打つのだ。
 外套があるとはいえ、ぐっと下がった気温も手伝って肌寒い。体が冷える。
 かと言って、それを傍らに立つ兄に言うのは憚られた。
 無理を言って彼の任務に付いてきたのは自分なのだ。弱音なんかは吐きたくない。じっと耐えて我慢をする。
 けれど、そんな全ては疾うに兄の手の中だったのだろう。
「おいで、サスケ」
 兄は雨に濡れてしまわないようにと自身の外套の内にサスケを招き入れてくれた。
 そうして、それ以上は何も言わなかった。
 幼いサスケの幼い矜持を兄はとてもとても大切にしてくれていたのだ。その時そう分かった。
 暖かい。温かい。兄がサスケに与えてくれる世界は、いつだってあったかくって甘くて、こんなにもサスケにやさしい。
 うと、と瞼が重くなる。
「サスケ…?」
 兄の呼ぶ声が次第に遠のく。


 気が付けば、雨はすっかり上がっていた。
 真っ赤な夕日が西の空の向こうへと沈んでゆく。藍と朱の混ざった美しい布が空一面に広げられているようだった。
「起きたか、サスケ」
 兄の問いかけに微睡みがするりと解けた。
 どうやら雨宿りをした木陰から兄におぶわれおぶわれ、ここまで来たらしい。
 いつ雨が止んだのか、サスケは知らない。
 いつ兄に背負われたのか、それもサスケは知らない。
 峠に落ちる夕焼けがじわりと涙に滲む。
 ただ悔しかった。
 どうして自分は眠ってしまったのだろう。
 どうして兄は起こしてはくれなかったのだろう。
 一言、「自分で歩くんだ」と言ってさえくれれば、最後まで自分の足で歩いたのに。おれは歩けたのに。
 涙が一粒ぽろりと零れた。すると我慢がきかなくなって、後から後から大粒の滴が頬を伝う。声を殺す代わりのように、涙だけが止め処なく眸の奥から溢れてくるのだ。
「サスケ?」
 サスケの体の震えに気が付いたのだろう、兄が首だけをこちらに振り向けようとする。けれど、泣き顔なんかは見られたくなくて、サスケは兄の首筋に顔を埋めた。なんでもないと首を振る。
 兄の強さが羨ましい。
 自分の弱さが恨めしい。
 おれははやく一人前の忍になりたいのに。
 「お前はまだ小さいから」と慰めのように髪をそっと撫でて欲しいわけじゃない。
 だけれども、その撫でてくれる手はもう要らないのかと問われれば、それもまだ離せないでいる。おぶってくれている背からすら降りられない。
 サスケには、一度拒んでしまったら、もう元の通りには戻らないように感ぜられてならないのだ。何もかも。
 こんな行き止まりばかりの道のどれを行ったら正しいというのだろう。
 誰も、兄も、教えてはくれない。
 いや、それどころか、先向こうまで本当は続いている道で通せんぼうをしているのは…。
「サスケ」
 名を呼ばれて、はっとした。
 この頃幾度となくゆらりと立ち現れては胸に忍び入る不気味な影を力ずくで閉じ込める。
 兄は気付かなかっただろうか。それとも気付かない振りをしたままサスケを背負うて歩いているのだろうか。
 里へと続く夕暮れの道には二人の他は誰もいない。
 うちはの集落の小径で隠れ遊びをした帰りのように、時がゆっくりとゆっくりと流れている。
 なあサスケ、と兄がもう一度ぽつりと言った。
「お前はおれより五つも小さいんだ」
 ぐすりと返事の代わりにサスケの鼻が鳴る。
「…それじゃあ、おれは兄さんより大きくはなれない」
「そうだな」
 兄は珍しく声を立てて笑った。
 そうして夕焼け空を望む。
「おれがお前の兄貴ってことは、ずっと変わらない」
「そんなの、…ずるいや」
 呟けば、許せサスケ、とまた笑われた。
 けれど、救われていたのだ。
 彼が兄で、自分はその弟だと言ってくれた、ずっと変わらないと言ってくれた、その言葉に長いあいだ救われていたのだ。
 だからだろう。
 あの爆風の最中、気が遠のいた一瞬に彼を思いだした。
 いつもは仕舞い込んでいる甘ったれで非力な幼い「サスケ」。
 そいつが兄に助けを求めて胸からこぼれ出してしまった。


『兄さん、助けて』


 そこでサスケははっとした。
 急速に意識の焦点が絞られ、一転、開ける。
 そうか、と理解した。
 記憶が覗かれている。
 言うはずがないのだ。願うはずがないのだ。この自分が『助けて』など思うはずがない。
 そんなものは無意識の底から這い上ろうとして来る度に押さえつけて沈めてきた。
 だから、これは無理矢理意識の底から引きずり出された記憶と叫びに違いない。
 そうと気が付けば、まるで頭の中に無数の羽虫が飛び回っているような感覚にぞわりと肌が泡立つ。
 サスケは拒んだ。
 違う。これは違う。踏み入ろうとする何者かを拒絶する。
 今お前が見ているものは、今のおれが再生している過去だ。記憶だ。
 爆風に晒され彷徨った過去は、雨に降られて兄の外套の内に招かれたところまでなのだ。
 これ以上は許容できない。
 これ以上は密やかに仕舞っておきたい、おかなばならない記憶だ。
 サスケは迫る闇の手を鋭い眼光を以て退けた。
 今や完全に目醒めた。


 世界に眸が開く。


「任務だ」
 そう言ってイタチが投げ寄越したベストを受け取る。
 拘束の印は既に解かれていた。この兄の仕業だろう。
 袖を通し確かめると、ベストにはサスケが里に入る前、暗部隊員らに脱ぐよう言われたときのまま、様々な忍具が仕込まれていた。幾らかの補給は必要だが、それさえ済ませれば任務に出るのに支障はない。
 だが、
「任務だと…?」
 座らされていた簡素な椅子からは立たず、顔だけを持ち上げる。
 窓も棚も机も何もない、石の壁に囲まれただけの閉じられた空間だった。その為、時間の感覚が曖昧になる。加えて、これでは今いる居場所すら判断が付かない。勿論、そうなることを意図した部屋なのだろう。
 イタチはそのほぼ真ん中、こちらの腕が届く距離を僅かに外して立っていた。
 暗部の面はそのままに彼はそうだと頷く。
「もう一度国へ潜り、火ノ国の密使を始末する必要がある。あれは生かしておく分だけ、情報が漏れる。お前は奴の顔を知っている上、襲撃場所もあちらの手の内も少しは分かっているはずだ」
 だから選抜されたと言う兄の淡々とした様が、今は気に入らなかった。いや、気に障った。
 記憶に踏み込んで来たのは彼ではないだろうが、だが、だからといってこの兄が事情を知らないわけではないだろう。
 であるから、この場に二人きりで対峙をしている。
 にも拘わらず、彼はそこに触れようとはしない。頑ななほどに。
 前々から、折りにつけ、イタチにはそういう節があったのだ。
 サスケは知らなくともかまわない。
 ひとつひとつの短い言葉の端々に、洗練された隙のない小さな振る舞いの所々に、そういった思惑が見え隠れしている。
 そのことに果たしてイタチ自身は気付いているのだろうか。
 少なくともサスケは気づけぬほどの子供ではなかったし、だからといって素知らぬ振りができるような大人にもなりきれてはいなかった。
 何故、何も言ってはくれない。
 疑念と不安、焦燥感はもう何年もサスケの内に降り積もっている。
 そうして今日ばかりは口を噤むことができなかった。
「おれへの疑いは晴れたのかよ」
 そう問う声に、思う以上に険がある。気が峙っているのだと自覚が出来た。
 敵地にたった一人放り込まれ、一瞬の後には命を奪い合うやり取りをする。まるでその時のように全身がびりびりと張り詰めている。
 意図してそうしているのではない。これは忍として身につけてきた本能に近い感覚だ。
 今いるここは敵地でも何でもなく、サスケが生まれてからずっと暮らしてきた里で、目の前の彼は親しい兄、家族だというのに、実戦で研ぎ澄まされた体がそうだとは言わない。
 彼を警戒しろと告げている。
 他方、イタチは何も変わらなかった。ただ泰然と面の向こうからこちらを見詰めている。
 しかし、サスケの問いに白は切らなかった。
 気付いたか、などとしれっと口を開く。
「精神の修練が災いしたな。途中で目覚めなければ、そんな惨めな思いをせずに済んだものを」
 それは暗にサスケの言の肯定だった。
 やはり疑われていた。
 やはり監視をされていた。
 あの中忍の男が命さえ捨てようとした、その里に。自分たちは。
 サスケは奥歯を噛んだ。
 分かっていたことだ。
 忍とはそういうものだと分かっていたはずだ。
 だが、真正面からこうもあっさり肯かれれば、胸が詰まって、息が詰まる。
 吐き出せば、呻きになった。
「何も知らない方が、余程惨めだ」
「だが何も知らなければ、何かを思うこともない」
 違うか?と訊ねられた。
 勿論、返す言葉は何もない。
 ただ、なんとかんたんな言葉だろうか、と思った。
 なんとかんたんな言葉で、おれたちの、いや、おれの気持ちは片付けられてしまうのか。そう思った。
 きっと交わる処は何処にもない。この人は何処までもこちらを見下ろし、傲慢であるのだ。
 今もまたサスケを余所にイタチは「兎も角」と話を勝手に切り上げようとさえしている。
「お前は手入れをされた様子も、幻術に掛かった形跡もない」
「…当たり前だ」
「そういったお前の主観は信頼されない。分かっているだろう」
 だから、監視や記憶の検閲をした。分かっている。
 今回は事が大きかった。分かっている。
 サスケらを幻術の類で操って木ノ葉を混乱させ、その隙に乗じて手にした情報を元にこの国に攻め入れば、木ノ葉とあちらの隠れ里、或いは二国間だけではない、第四次忍界大戦の引き金にだってなり得た。
 そのくらいのこと、分かっている。
 素直に拘束に応じたのもそのためだ。
 記憶の検閲までされるとは思ってもいなかったが、疑われているのなら、その払拭にはどうしても客観性が要る。
 それを里が証明してくれ、早々に解放されるというのなら、サスケにも利のある話だと思ったのだ。
 実のところ、懲罰のために拘束云々の話は初めから方便なのだろうと踏んでいた。男を助けたサスケの判断にそれ相応の処分はあるだろうが、わざわざ拘束をする必要性が感じられない。
 兎角今回のことは腑に落ちないことが多過ぎる。
 こうして容易に推測できることをどうして「懲罰」などと偽ったのか。
 監視が目的ならば、どうして自分だけが拘束をされているのか。
 本当はこれを囮にして、その奥にまだ何かを隠しているのではないか。
 重要な何かを。
 そんな疑問がまだある。残っている。渦巻いている。
 だが、その渦に楔を打ち込んだのはイタチだった。
「お前には任務に復帰してもらう」
 思考が途切れた。
 仕方なしにサスケは「分かった」と頷く。
「但し、処分はもう聞いているな?」
「…ああ、聞いている」
 正式に隊長職は剥奪されたのだろう。
 加えて、これで間近だと噂されていた上忍試験も数年単位できっと遠のいてしまった。
 膝の上で握った拳の爪が手のひらに食い入る。
 処分が不当だとは思わない。
 隊長として、忍として、優先すべきを誤った。それは本当だ。認める。
『やはりイタチのようにはいかんか』
 ふと失望した父の顔が過ぎり、サスケはそれを追い出すように軽く頭を振った。
 今は任務に行かねばならない。
「…新しい隊長は誰だ」
「カカシさんが務める」
「カカシが?」
「先生をつけろ、と言っているだろう」
 その言葉にまた苛立つ。
 無視をした。
 黙っているともういいとばかりイタチが嘆息を吐いた。
「次の任務ではカカシさんとお前、それから暗部二名でフォーマンセルを組む」
 確かに暗部との連携ならば、カカシが適任だろう。
 今は上忍として任務に就いているが、暗部に在籍していた時期もあったらしい。
「だが、どうして暗部が」
「暗部が、ではない。お前が暗部小隊に臨時編入されたという方が正しい。既にこの件の権限は表からおれたち暗部に移っている。先程も言ったが、お前はあくまで先導役だ」

 戦闘に入れば、後ろへ下がれ。

 その言葉に、がたん、と椅子が後ろへ倒れた。
 閉ざされた部屋のため反響がいつまでも止まない。
 構わずサスケは今日初めて声を荒げた。ぎりぎりで保っていた何かが爆発する。
「おれは戦える!」
 降格処分は当然の処断だ。覚悟の上、あの男に肩を貸した。
 裏切りの疑惑も致し方がない。綺麗事だけで通ずる世ではない、と承知している。
 だが、「後ろへ下がれ」?
 このおれが?
 耳を疑った。信じられない。
 まだこの兄や他の優れた忍らには敵わないにしても、少なくとも戦闘において自分は誰かに守られるほど弱くはない。
 そうなるために惜しんだものなど何もない。
 全てを懸けてきた。
 そうだというのに、たったひとつ、サスケが幼い頃から丁寧に丁寧に大切に積み上げ育て上げてきた、そして今はそれだけしか残されていないような、そんな自負さえもこの兄はおれから取り上げてしまうのか。
 腹が立った。
 だが、それ以上に悲しかった。辛かった。寂しかった。
 イタチの言葉が胸にずしりと落ちる。そして、その落ちたところがじわじわとサスケに鈍い痛みをもたらす。
『おれは歩けたのに』
『一言、「自分で歩くんだ」と言ってさえくれれば、最後まで自分の足で歩いたのに』
 あのときから、そんなたった一言が聞きたくて、ずっと追いかけてきた。
 けれど、結局イタチから見れば、自分はただのおぶわなければならない子どもだったのだろう。
「だから、おれには何も言ってはくれないのか、兄さん」
 傍で転がった椅子を立てているイタチに呟くように訊ねる。
 イタチは、「何のことだ」と今度は白を切った。それが分かったからこそ、また苦しい。
 かたん、と静かに椅子が元の通りに戻される。
 反響はない。
 何事もなかったかのようにされてしまう。
 そうぼんやりと思ったサスケの頬にイタチの手のひらが触れて、サスケは眼差しを彼に注いだ。
 頬の傷がガーゼの上から無言ですっと撫でられる。
 サスケはそれに交差するようにイタチへと手を伸ばした。
「顔が見たい」
 彼に拒む様子はない。
 指先が触れる。
 つっと面の頬を撫でて、それからそろりと面を外した。
 黒の前髪がふわりと広がる。
 切れ長の美しい眸だ。
 鼻梁がぴっと通って、彼はもう大人の男なのだと場違いにも思い知る。
「サスケ」
「…もういい」
「怪我をしている」
 後ろへ下がれと、そう言ったわけだろうか。今更どうでもいいことだ。
 言葉をどれほど変えても、『まだ小さなサスケは知らなくともかまわない』、兄の出した答えは変わらないのだから。
「もう分かったから」
 任務へ行く。
 取った面を押し付けるように返して、サスケはイタチの手を逃れた。
 せめて失望でもしてくれていたら良かったのに。
 そんなことを思った。