うしろの正面だあれ
足下には男が一人うつ伏せに転がされていた。
その襟を掴み、サスケは造作なく上体を持ち上げる。
首がさぞ絞まるだろうが、既に事切れた死体だ、悲鳴ひとつ上げやしない。
つまらない男だった。
夜更けに厠へ立ったところをいともあっさり後ろを取られ、絶命した。声もない。最期の言葉もない。
だが、たとえ男が声を上げ助けを求めていたとしても、護衛の忍らの始末は既に済んでいたのだから、男の辿る道はやはり変わらなかったのだろう。
逗留する宿を探し出すのには多少骨が折れた。他国のど真ん中だ。いくらこのために編成された小隊とはいえ、この国の者以上に地理に明るいわけではない。
が、攻勢に出ればこんなものだ。
いや、こんなものか。
腰後ろに差した短刀をもう片方の腕で引き抜く。
夜だった。明かりは吹き消してある。離れの一室は暗い。闇が支配している。
だが、サスケにはよく見えていた。
頭部をだらりと垂らした男の首に掛かる髪を払う。首を落とすなら、脛椎だ。そうでなければ手間が掛かる。
敵にしろ味方にしろ、戦場で或いは潜伏先では死体の全てを持ち帰ることはできない。そういった時のため、首の斬り方は教わっていた。
この男、火ノ国の密使だったこの男の首を所望したのは、その主の大名だった。首実検でもして、その後は河原に晒すのだろう。
戦国時代の因習だ。サスケは思う。
だが、そういう任務だと知って引き受けた以上、口を挟むべきではない。そうも思う。
どちらにせよ生かしておくわけにはいかない男だった。
情報はこの男から漏れたのだ。
首に刃を添える。脛椎の隙間はすぐに見つかった。
確認のため一度顔を上げる。
向かいのカカシは頷いた。やれ、ということなのだろう。
サスケは一度刀身を首から離し、掲げる。
どれほど、何処まで、火ノ国の機密が広がったのかは最早計り知れない。
サスケらがもたらした情報により、これまでの暗号連絡系統は全て破棄した。当面の危機は脱したと言える。しかしそれは所詮後手の対処でしかないのだ。
そも全容把握など無理な話だ。口伝は防ぎようがない。
だが、火ノ国とその国の軍事を預かる木ノ葉隠れの里は、これから長い時間を掛けて、その不可能を一つ一つ探し潰していかねばならない。
こんな護衛に囲まれなければ何の力もない男が、ある日突然国と里の喉元によく斬れる刃物を突き付ける。
木ノ葉の暗部が異様なほど背信行為に神経を尖らせているのも今ならば頷けた。
情報と力を兼ね備えた忍の裏切りは尚更脅威だ。そのうえサスケには写輪眼が備わっている。
腹から短く息を吐く。
ひゅん、と裂いた風が鳴った。
手緩くしては斬り落とせない。腕に確かな肉と骨の感触。
一刀だった。
ごとり、とまず首が落ちる。
それからサスケが襟を離し下がると、支えを失った体も元のようにまた布団に倒れる。
血溜まりがじわじわと拡がった。生臭い。だが、そんなものにもいつの間にか慣れていた。
吸った血を飛ばすため刀を一振りする。
生憎、侍のように懐紙は持っていない。刀身を脇に挟んで汚れを拭う。戻れば手入れをしなければならない。
戻れば、だ。
「はい、ご苦労さん」
サスケが刀を納めると、それを待っていたかのようにカカシは男の首を拾い上げた。むんずと髪を掴んで首桶に入れる。
控えていた面の忍たちに一度桶を預けたのは、塩漬けにして防腐処理を施すためだろう。
サスケら表とは違い、暗部はそういった死体処理の術に長けることもまた求められている。勿論、高い戦闘力のその上にだ。実際、護衛の忍を始末したのは彼らだった。
そうして密使の男の心臓を一突きにしたのは隊長のカカシ。
サスケは前へは出なかった。
兄の言葉に従ったのでは決してない。
カカシがそれが隊長命令だと言ったから、従ったのだ。
ただ男の首を落とすようサスケに言ったのもまたカカシであった。
初め暗部隊員らが「おれたちがやろうか」と年若いサスケを気遣ったが、しかしカカシは「いいや、サスケにさせる」と言い切った。
「やれるな」と言われ、「出来る」と答えた。
彼の信頼が今のサスケには嬉しかった。
「おれはイタチみたいに優しくないでしょ」
暗部の死体処理を待つ間、カカシは言った。無論、辺りへの警戒は怠らない。
これからカカシとサスケは国境を越え大名館まで走り、暗部の二人は引き続きこの国で潜伏工作を行う。そういう手筈だ。
しかし少々手持無沙汰とはいえ、イタチの名にサスケはうんざりとした。
「どうしてあいつの名が出てくる。任務に何の関係がある」
そう素っ気なく返す。
だが、カカシははぁと溜め息を寄越した。サスケの言葉の端にあるほんの小さな刺々しさに気が付いたのかもしれない。
「またつまんないことで喧嘩でもしたの?」
「別に。あいつとは何でもない。任務に集中したらどうだ」
「そーだね」
サスケはカカシに目を向けた。
何か含みのある物言いに思えたのだ。
「何だ。おれをからかっているのか」
ぼそりと吐き捨てる。
すると、カカシは頭を掻いた。
「…やっぱりサスケ。火ノ国に入ったらお前は一足先に木ノ葉に帰んなさい」
一瞬、思考に詰まる。
それから、まただ、と思った。また子供扱いか。
それに「帰れ」とは一体どういう了見だ。
全くどいつもこいつも、苛立たしいことこの上ない。
衝動のまま詰め寄ってしまいそうになる足をサスケは留めた。堪える。
「何故だ。首を届けるまでが任務だろう。おれも行く」
だがカカシは了承をしない。だめだと首を振る。
「お前、連続して任務し過ぎ」
「仮眠なら取っている」
「ま、体はそれでいいだろうけどね。でも、お前だって本当は分かっているでしょ」
「平気だということはな」
「お前ねえ…」
なお食い下がるサスケにカカシはやれやれと宙を仰いだ。
それから間を置き、改めてサスケに向き直る。
「イタチは、」
「あいつの話はもういい」
素早く遮る。
先ほどからイタチイタチと煩いのだ。イタチは確かに家族であり兄だが、サスケの何もかもではない。
「そう言わずに聞きなさいって。…あいつは、お前がこの任務に参加するのに随分と反対していたらしい」
それでも表と暗部との幾度かのやり取りの後、サスケをよく知るカカシが隊長を務めるならばと渋々引き下がったのだという。
サスケはふんと自嘲した。
「あいつの言いそうなことだ」
上げた口角が我知らず歪む。
「一度しくじった奴に務まりはしない。あれには力量が足らない。どうせそんなところだろう」
「おお御名答。よく分かってるじゃないか。今のサスケは特に忍としての自制心を欠いている、不適任だ、だから任務から外せってね、言ったらしいよ」
「…っ」
くそ、と舌打ちをする。
イタチめ。
彼は何もかもを分かったようにしてサスケを批判する。勝手に量る。それが不愉快でならなかった。
何も分かってなどいないくせに。
ぎり、と奥歯を噛んだ。
「あいつはいつもそうだ。おれを見下していやがる」
「でも、あいつの立場ならそう言う他ないと思うけどね。里の上層部や暗部の前で、サスケはとても前線に出られる心身の状態じゃない、休ませてやってくれとは庇えないでしょ。そんなことをしたら、不利はお前に働く」
「頼んだ覚えはない」
だが、分かっている。
そもサスケは現状認識だとか、分析、判断能力に優れた忍だ。人の機微も思考も推し量って引き受け、呑み込むだけの度量も平生ならばある。
ただ、今は余計なものが詰まっていた。
心にも身体にも、捨て場の見つからない不要なものが詰まっていて、これ以上は入らない。
だから、反発をするしかないじゃないか。
サスケはカカシをぎゅっと睨んだ。
「休ませたい?カカシが隊長なら?それが余計なお節介だって言ってんだ」
「イタチはお前を心配していた」
「違う。あいつはおれを信用していないだけだ。あいつは、」
あいつは、と繰り返し掛けて口を噤む。
カカシの静かな眸がひたとサスケを見据えていたからだ。
「サスケ」
名を呼ばれる。いつもと変わらない穏やかなそれ。だからこそ、頭が冷えた。
「お前、それ本気で言ってるの?」
俯く。
看破をされている。何も返せない。
「お前やっぱり疲れてるよ。サスケ。お前は口は悪いが、人をそんな風に言う子じゃない。お前を預かっておいて悪いけど、今ならおれもイタチに賛成。帰って少し休んだほうがいい」
その言葉に顔を上げた。
意地だった。それも子供のような、背伸びをして強がっただけの意地だ。
だから、「おれは」と訴えてから続く何かがない。
そんなサスケにカカシは言った。
「な、サスケ。お前が隊長ならどうする?」
「おれが隊長なら…」
考える。
だが、その必要も本当はない。
カカシが言った通り、頭では分かっているのだ、初めから。
「…おれは任務に私情を持ち込んでいる」
任務に支障がある。木ノ葉に戻るよう言うだろうとサスケは答えた。
あれから一週間が経った。
うちはの家にサスケが戻った様子はない。任務が長引いているのだろう。潜入のそれはとかく時間が掛かる。
イタチは玄関の戸をぴしゃりと閉めた。履き物の一組足りない家へと上がる。
また明日の朝、陽も昇らぬ内に任務に行かねばならない。その用意をしようと廊下を渡り掛け、だがイタチは足を止めた。
こんな真昼間に父がいるのは珍しい。非番でも警務に詰めることの多い人だ。まして濡れ縁に出て胡座を掻いた姿などいつ以来だろうか。
「帰ったのか」
そう顔を上げた父の膝に一羽の鳥が抱かれていた。
イタチの使役する烏だ。つい二、三日前にも所用があって飛ばした。が、
「それは…」
彼の片羽に巻かれた真新しい包帯に気が付く。何処かで痛めて帰って来たのだろう。
父はその傷を指で辿るように撫でて見せた。
「傷薬は塗ってある」
「そう、ですか」
イタチは頷いた。だが、それ以上を続ける言葉をイタチは持たない。ただ父の指の往き来を眺める。
ふと先に零したのは父だった。
「サスケはどうしている」
イタチは父を見た。
父は庭を見ていた。
暫し考え、父に倣う。この頃は空が青く澄んでいて、広い。
「今は任務に就いている。おれも詳しくは聞いていない」
本当だった。
あの時サスケに伝えたそれ以上のことはイタチにも知らされていない。それが暗部というところだ。
不意に傷を負った烏の羽とサスケのガーゼに覆われていた頬が重なる。
あの傷はもう治っただろうか。治っただろう。それくらいの時間は経っている。
「…そうか」
ややあって、父は頷いた。ただそれだけだ。やはり後には何も続かない。どちらともなく互いに口を閉ざす。
だが、父は何も知らないわけではなかった。うちはの中で、父にだけはサスケのことを伝えてある。
暫くサスケは返せない。
そう父に耳打ちしたのは他でもないイタチだった。
万が一にもサスケがその意思に関わらず敵方に与した場合、しかしその場で彼を簡単に斬って捨てることは出来ない。
他の抜け忍とは違う。彼はうちはのサスケなのだ。
必ず一族の報復がある。その土壌もある。
武装一斉蜂起。悪ければ里の忍一族らを巻き込んでの内乱だ。
しかし一方では、里としてこれ以上後手に回れないのもまた事実だった。事が起こってからでは全てが遅い。他国との戦争は回避せねばならない。
だから、サスケを拘束をした。理由など尤もらしければよいのだ。
『里はうちはと事を構えるつもりはない。うちはもまた早まってはならない』
そう諫言したイタチをあの時の父も黙って聞いていた。
が、現況、サスケの拘束がうちはを含め外へ漏れた様子はない。仮に知り得た一族の者がいたとしても、騒ぎ立てるつもりはないようだ。
父が巧く立ち回り、抑えてくれたのだろう。
「イタチ」
立ち上がった父に烏を手渡される。父はこれから警務へ行くと言う。また詰めるのだろう。そういう人だ。
「抱いておいた方がいい」
父はイタチの腕の中に収まった小さな彼の頭を意外なほど優しげな仕草で撫でた。
「傷付いているのにすぐに飛ぼうとする」
それでは治りも遅かろうと言う。
「但し、暫くの間だけだ」
父はイタチを見ていた。
イタチは「分かっている」と答えた。
長く永く鳥かごに入れてしまっては、彼から永遠にその翼を奪うことになる。
抱くならば、少しの間だけ。
その羽を休める、そのためだけ。
分かっている。本当は。
「分かっているならいい」
父の手が離れる。
イタチは彼を抱き直した。より懐深くに入れてやる。
すると彼は小さくかあと鳴いた。
去りかけていた父が一度振り返る。
「初めて泣いたな」
イタチは父の代わりに、父が腰を下ろしていたところに座った。胡座を組む。
風が通り抜けた。
サスケ。
彼の羽はきっと今も傷付いたままだ。
休めることも休まることも知らず、帰り道にすら立ち尽くし彷徨っている。
『おれは今、暗部としてお前の前に立っている』
あんなことを言ってしまったから。
兄であるはずのイタチがあんなことを言ってしまったから、彼は何処へも帰れない。
いったい誰があの時、温かく、両腕を開いて、ただよく生きて帰って来てくれたと抱いて彼を迎えただろうか。
おれはただ冷たいかごに閉じ込めただけだ。挙句、傷を負ったままの彼を放り出した。
腕に抱いた烏の羽ををそろりと撫でる。
すると彼は羽ばたいて、それはもう飛びたいとイタチに言っているようだった。
思わずふふと笑ってしまう。
「お前、さっきは泣いていたくせに」
それから共に空を眺めた。青い。とても青い。
「飛びたいか」
イタチは問うた。
飛びたいか。
サスケ。
「飛びたいだろうな」
それそのために彼は羽を持って生まれてきたのだ。
夕焼けの里をサスケは歩いていた。
初めの任務から二週間も経ってはいない。だが、もう随分と長く遠く離れていたようにも感じる。
一度戻った時は連行に近い形で暗部本部へ引っ張られたため、余計にそう思うのかもしれない。
火影への報告は昼過ぎに帰里した折、既に済ませてある。
それからはずっとこうして一人、漫ろ歩きだ。
行く宛がない。ないというよりは行きたくない。今は何処にもここにもいたくはなかった。
それでも何かを腹に入れようかとは考えた。だが、どうも胃が受け付けそうにない。任務中はそれでも携帯食を齧っていたが、必要がないのであれば今は何も口にする気にはなれなかった。
億劫だった。何もかも。投げやりで、自棄だった。
どうでもいい。
自分のことなど、どうでもいい。
どうせ任務になれば、また携帯食を胃に入れるくらいはするだろうと何処か冷めてもいた。
賑わう里の大通りを抜けて歩く。
誰かに会いたいようで、誰とも顔を合わせたくない。
道々に子供が溢れているのはアカデミーがもう放課後の時間だからだろう。
忍遊びに興じる子供。
石蹴りをする子供。
わあっと歓声を上げて駆け抜けて行く子らは、鬼ごっこか隠れん坊をしているのか。
あちらの角からは女の子らが唄う花いちもんめが聞こえてくる。
「どの子が欲しい」
「あの子が欲しい」
なかなか残酷なわらべ遊びだ。サスケは思う。
アカデミーに上がる前の遊び相手といえば兄くらいで、かといってアカデミー入学後は修行ばかりに明け暮れていたためサスケは童遊びなどしたことはなかったが、だが、今なら最後まで残された子供の気持ちが分かるような気がした。
居た堪れず、子供らがはしゃぐ路地とは反対の角を折れる。
そのまま狭い抜け道を行くと、やがて川沿いの道に出た。
嘘のように人通りがぱたりと絶える。それは、この道がうちはの集落に続く道だからだろう。
うちはは数を随分と減らした一族だ。その上、一族であっても忍でない者たちは、一日の大半を集落の中で営んでいる。幼い頃の自分がそうであったように。
木ノ葉の名門と謳われるサスケの一族は、だが深く里に交わろうとはしない。
うちははうちは。
この道を辿る度に感じてきたことだ。
そうしてそれはサスケも変わらない。
里の何処へ行っても、最後にはこの道にしか戻れない。
きっとうちはの血が呼んでいるのだ。
土手上から見る水面は夕日にきらきらと夜空の星屑のように瞬いていた。
帰りたくない。
ぽつりと思う。
帰りたくない。何処にも。
影が足下から長く伸びていた。踏めないと分かっていて、あの子供らのように、少しばかり遊びながら追いかけてみる。
任務中、隊長として判断を誤った。分かっている。
分岐は山ほどあった。
密使が手入れをされていた。それはサスケにはどうしようもなかったことだ。
だが、アンタは国を裏切ったのではないかと問うたのは、本当にあの時で正しかったのか。
あの場で無理をしてでも密使だけは始末しておくべきだったのではないか。
そうして本来であれば、生存率の最も高いサスケこそが木ノ葉へと走らなければならなかった。
分かっている。
かつて白眼欲しさに日向の子どもが拐われかけたこともあると聞く。
もしあのままあの国で捕らえられでもしたら、サスケの持つうちはの瞳術が木ノ葉に牙を剥いていたかもしれない。そうなれば忍はおろか、里の道角で無邪気に遊ぶ子供らにも危害は及んでいただろう。
挙げ句、任務に私情を持ち込んだ。集中を欠いていた。カカシに諌められなければ、危うくまた仲間を危険に晒すところだった。
隊長として、小隊の一忍として、そんな奴が欲しいか?
自身に問いかける。
いいや、要らない。そんな危うい奴は任務には不要だ。背を、命を預けるには足りない。全く足りない。
イタチとカカシは正しい。
誤っていたのは、このおれだ。
影がまたするりと逃げる。
追い掛けようとして、けれど踏み出せなかった。
「……」
だけど、でも。
そんな弱さに巣食われる。
途切れる歩み。
ざわつく胸の奥。
どうしよう。追い払えない。
影に呑まれる。
そう思った、その時だった。
「サスケ」
よく知った声に呼ばれた。
深い淵から呼び戻される。
後ろを振り返ると、いつから追って歩いて来ていたのだろう、兄のイタチがそこにいた。
里外任務だったらしい。黒の外套に、今日は面を外している。そういえば兄は昔から余程のことでない限り、里内では暗部装束を解くようにしていた。
一瞬、足が竦む。
だが、彼がこちらへ足取りを向けると、金縛りが解けたようにすぐにでも歩けた。
踵を返し、早足で先を行く。
それはまるで兄から逃げるようにも見えただろう。だが、その兄はサスケの後をゆったり付いて歩くだけだ。別段、急いだ風もない。
呼んだくせに、と思う。
何か用があるのではないか、とも思う。
追い付こうと思えば簡単なのに、兄は決してそうしようとはしない。
次第に早足をしている自分がばかばかしくなった。こんなのは滑稽だ。阿呆くさい。歩みを緩めた。
それからまた影踏みをしてみる。
「何をしているんだ?」
イタチはやはり追い付いては来ない。だが、大声で話すほどでもない距離にいる。
サスケに問うてくる声は、案外優しかった。
「影踏み」
サスケはわざと大股で影を追って見せる。
「一人でか」
「ああ。だからずっとおれが鬼だ」
だから、帰れない。
そう言って、自分でも妙に納得した。
帰りたくないなんて嘘だ。
帰りたい。
うちへ帰りたい。
だけど、鬼だから、あの子が欲しいとは言ってもらえなかった鬼だから、まだうちはの父母の待つ家へは帰れない。
自分のせいだと分かっている。
ちゃんと分かっている。
だけど、でも。
だけど、でも…。
「…っ」
あ、と思った。
目の奥が熱い。
鼻がつんとする。
あ、あ…。
まずい。
この感覚は知っている。
いつか兄の背におぶわれた時のそれだ。
じわり橙の世界が滲む。
サスケは瞬きを堪えた。夕焼け空を振り仰ぐ。
でもだめだった。
ずっと我慢を強いてきた涙がもう抑えられず零れてしまう。
見られたくはない。こんな情けないところ。
サスケは身を翻し走って土手を下った。所々に生える丈の長い草に構わず突っ込み、そのまま突き抜ける。
そうして河原まで下り切ったところで、限界だった。
堰を切ったように眸に涙が溢れる。そのままぼろぼろと外に零れた。止まらない。泣くつもりなどありはしないのに、乱れる心が言うことを聞いてくれない。
俯いて、手の甲で涙を何度も拭う。
だがそれもすぐに濡れてしまい、今度は裏返して両の手のひらで拭う。
それでも指の間から溢れ零れた涙が頬を伝って、乾いた土を濃く染めた。
「…サスケ」
ふと後ろから両手を取られた。
指を絡めて結んで繋がれる。
イタチだ。いつの間に土手を下りて来たのだろう、涙に濡れた目を覆う手をそっとそこから離される。
「あまり擦ると痛める。折角の綺麗な目だ」
ぽたりと眸に浮き上がった涙の粒が頬に零れた。
「兄さん」
サスケはイタチの手に爪を立てた。そうしようと思ったわけではない。ただぐっと拳を握ればそうなったのだ。
「おれは、戦えた」
爪が食い込む。痕が残る。
もしかすればイタチは敢えてサスケの手を取ったのかもしれなかった。そうでなければ傷付いていたのはサスケの手のひらだっただろう。
「兄さん」
なお兄の手をぎゅうと握る。
「おれは誰も死なせたくなかった」
だから、サスケが残った。
だから、連れて帰りたかった。
小隊は仲間だ。
仲間を捨て置くなど出来ない。
たとえ忍の不文律に反したとしても。
「兄さん、おれは」
声に詰まる。
頬が熱い。喉が熱い。
きっとおれは今泣いているのだ。
「サスケ」
不意にサスケの手を握るイタチの手に力が込められた。
「お前はあの時、お前に出来る最善を尽くした」
そうだろうと問われ、頷く。
いけないと分かっていて、けれど今だけはそうだと頷きたかった。自分のために頷いてやりたかった。
「サスケ」
影が重なっていた。
サスケの影とイタチの影。それらが二つ長く夕焼けに伸びている。
「おれがお前を分かっている」
体から力が抜けた。
それで、今まで立っていたのが虚勢だったのだと気が付いた。身体は、心は、こんなにも疲れて痛んでいたのだ。
ずるずると踞った。
涙がいっぱいに出る。
「う…っ、くっ…」
嗚咽ももう我慢出来そうになかった。
それに気付いたイタチの外套が庇うようにサスケを覆う。
そういえば幼かったあの雨の日も兄は何も言わずサスケを庇ってくれた。どうしてそんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
後は声を上げて泣いた。
みっともなく泣いた。
構わない。誰も見てやいない。聞いてもいない。兄が守ってくれている。
暖かい。温かい。兄がサスケに与えてくれる世界は、いつだってあったかくって甘くて、こんなにもサスケにやさしい。
涙に澱が洗い流されていくのが分かる。
空っぽになる。
そうして大声で泣けば泣くほどに、新しい自分が身の内に吹き返してくるようだった。
まるでそれは春に芽吹く生命。
もう大丈夫だ。
もう平気だ。
そう確信した途端、うと、と瞼が重くなる。
懐を貸してくれている兄には申し訳ないが、今はちょっとその優しい毒に抗えそうにない。
サスケは眸を閉じた。このまま少しだけ眠ろう。
そうすれば、きっと明日もまた誰かために、仲間の命を預かって強く真っ直ぐに戦っていける。
安らぎの中で、サスケは確かに再生を感じていた。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
兄もまたその場に腰を下ろしていた。自分はその立てた膝の間にすっぽりと収まっていたらしい。子猫や子犬のように兄の外套から顔を出す。
辺りはすっかり夜になっていた。月があんなにも高い。虫があちらこちらで涼やかに鳴いている。
「漸く起きたか」
そう言う兄は、けれどサスケが起きるのを待っていてくれた。
サスケが外套から這い出すと、月明かりに兄はすっくと立ち上がる。
見下ろされ、見上げた。
見つめ合ったイタチの眸がサスケを真っ直ぐに写し取っている。
やはり切れ長の美しい眸だ。何度見てもそう思う。
サスケ、と兄は言った。
「なあサスケ。お前の影踏みのその鬼は、」
本当はおれじゃないのか。
そう最後までイタチに言わせてしまうようなサスケではなかった。
首を振る。
心とは不可思議なもので、誰かに受け止められたら、靄が晴れるように正しく自分が見えてくる。
兄が、イタチが、何を思い、何を黙っているのかは分からない。
「だが、なぜ言ってくれないのかは分かっているつもりだ」
「……」
「だから、話してもらうのはきっと今じゃない」
兄さん。
もう少しおれに時間をくれ。
強くなる、そのための。
言うと、イタチは黙って頷いた。
それから懐かしい兄の顔でそっと微笑む。
「もう自分で帰れるな」
「…ああ」
兄さん。
おれはずっとその言葉が聞きたかった。
「ただいま」
そう言ってイタチが引き戸を開くと、もうとっくに日付は変わっているというのに、母は上がり框で仁王立ちをしていた。
怒っている。
思わず顔を見合わせて、それからサスケは兄の後ろに身を隠した。
強くなるんじゃなかったのか。兄は呆れたようにサスケの脇を肘で小突いたが、それとこれは話が別だ。多分。
母はそんな二人の息子をじろりと睥睨した。
「もう、うちの不良息子たちは連絡も寄越さずこんな遅くまでふらふらと!サスケ、それからイタチも」
「…おれも?」
思わぬとばっちりにイタチが瞠目する。
サスケはそれが可笑しくて兄を小突き返してやったが、目敏い母に見つかりまた「サスケ」と叱られる。
「今日という今日は勘弁ならないって、お父さんも待っているわよ。さ、二人ともちゃーんとお説教してもらって来なさい。晩ごはんはその後ですからね」
「まったく、仕方ないな」
早々に溜め息を吐いたイタチはどうやら諦めたらしい。先に家へ上がってしまう。
サスケもその背に続こうとして、だが母に止められた。
「サスケ、帰って来たらまず言うことがあるでしょう」
思わず母を見た。
それから兄を盗み見た。
言え、と頷かれる。
なんでもないことのはずなのに、こうも改められると妙に照れくさい。
「…ただいま」
仕方なくぶっきらぼうに小さく早口で言う。
これ以上は勘弁して欲しい。もういいだろう。これで上がってもいいだろう。そう許しを求めて母を見上げると、代わりにそっと体を抱き寄せられた。
「おかえりなさい、サスケ」
母の腕の中、はっとする。
俯いた。
母の細い肩に顔を埋める。今は顔を上げられない。
それから「うん」と頷いた。うん、うん、と頷いた。
「次からはもっと早く帰って来るのよ」
くせっけの髪を梳いて撫でられる。
母さんの手だ。
また「うん」と頷く。
「うん…うん…分かってる、分かってるよ、母さん」
ただいま、母さん。
ただいま、父さん。
ただいま、兄さん。
ただいま。
「おかえり、サスケ」
よく帰って来てくれた。