かごの中のとり



 呼吸が荒い。ぜえぜえと掠れる。どれほど吸っても足りなかった。肺が酸素を強く求めている。
 多分、何処からか漏れているのだ。水がじわじわと染み出すように、体のあちらこちらがだんだんと上手く機能しなくなっている。
 喉が乾いた、と木ノ葉の中忍は思った。
 酷く、それはそれは酷く、喉が乾いた。
 一昼夜休まず駆けたからだろう。
 だが、それ以上に喉にぬるりと残った血がどうにも気持ち悪い。へばりつくそれを洗い流す水が、とにかく水が欲しかった。
 内蔵の傷みは思う以上に激しい。そして、それからもたらされる痛みも。
 忍として修練を積んだはずの自制心が、先の見えない闇夜でふらふらとふらついている。
 だが、それでもこうして男が夜の森を彷徨い歩いているのは、男に肩を貸してくれる彼がいたからだった。
 いや、肩だけではない。
 自分よりも幾つか年若いこの中忍の少年が、今の男の消えかけた命を微かに繋いでいる。
 うちはサスケ。
 今回の任務に小隊長として抜擢された忍だ。
 彼も、男が見たところ、チャクラの消耗が著しい。決して顔にも口にも出さないが、目許には疲労の色が浮かんでいる。
 あれから敵方の忍らによる襲撃は数度あった。火ノ国へとひた走る二人に急襲を仕掛けてきたのだ。それも不規則に間隔を空け、こちらの精神に揺さぶりをかけてきている。二人は間違いなく手練れの忍を敵に回していた。
 かといって居場所が知られる上、チャクラの消耗が激しい強大な術は使えない。
 そう判じたサスケは、満足に動くことのできない男を庇いながら、体ひとつ、刀一振りで、しかし追っ手の忍らを幾度も退けてみせた。
 暗闇の中で彼の眸は赤く光る。
 生まれながらにうちはの瞳術に恵まれた少年だ。だがそれを引き出しているのは、彼の才、あるいは日々の鍛錬に因るものだ。
「うちはサスケは、同世代の中でも抜きんでた実力者である」
 里で囁かれる噂は確かに正しい。男は思った。
 しかし、だが、とも男は思う。
 隣で男に肩を貸しながら黙々と歩く彼は、忍ではない。
 繰り出される白刃の元に我が身を平然と晒し、鋭い立ち回りで差し違えるようにして相手を斬り伏せる彼は決して忍ではない。
 それが、本来なら捨て置いて行かねばならない仲間のためなのだから、尚更に。
 うちはサスケは、忍ではない。
 だが、だからこそ、男はこうして生きていられる。
 生まれ育った木ノ葉へと帰ることができる。
「森を抜ける。火ノ国との境だ」
 サスケの言葉に、ふと男の気が緩んだ。


 目が覚める。
 少し混乱した。
 だがすぐにあの森が途切れる先を見てから、もういくらも時が過ぎているのだと気が付く。
 真昼の白い日差しが開け放たれた窓から差し込んでいた。
 里だ。
 男は思った。
 体がどうにも重く、上体を起こすことすらかなわない。しかし、目だけを動かし見遣った先には、いつもと変わらぬ木ノ葉の里の長閑な街並みが広がっていた。
 体の奥深いところから安堵の溜息が零れる。
 そういえば、あんなにも男を苛んでいた焼き尽くさんばかりの痛みも今は引いているようだった。
 長い夢を見ている間に何らかの手当てが施されたのだろうか。
「帰ってきたのか」
 男が言うと、男が目を覚ました時よりベッドの傍に立っていたサスケが「ああ」と返事を寄越した。
 外から目を転じる。
 真白い日差しが、彼にもまた届いていた。ただし、腹から上は薄暗い。
 頬に貼られた熱傷を保護する分厚いガーゼが目を引いた。
「あれから、どうなった」
 男は訊ねながら、サスケの背後を窺う。
 面の忍が一人、ひたりと彼に付いていた。暗部の忍だろう。
 それで、いやにはっきりしたあの夢の正体を朧気に理解した。
 ただ当のサスケはさして暗部を気にした風もない。
「火ノ国に入ったところで気を失ったアンタを担いで里へ戻る途中、暗部の奴らと合流した。それからのことは、…別行動だったからよく分からない。おれは今さっきアンタが目を覚ます頃と聞いて、ここへ来た」
「…暗号の件は?」
「それらを知る立場にない。アンタも、おれもだ」
「そうか」
 ならば、それ以上問うべきことは何もなかった。
 所詮忍とは、どれほど命を懸けようと、そういうものだ。使い捨ての駒か、代替のきく消耗品に過ぎない。
 男は納得して息を吐いた。
 それから、何事かを暗部に耳打ちされ踵を返すサスケを呼び止める。
「サスケ」
 だが、立ち止まらせたい相手は名を呼んだ相手ではなかった。
 サスケの背後に佇む面の忍に言っておかなければならないことがある。
「おれが死にきれなかったんだ」
 夢は過去の再現だ。
 しかし、あれほど正しい再生があるだろうか。
 であれば、多分に覗かれていたのだ。記憶を。
 手入れをされた密使と接触した自分たちは、里から裏切りを疑われている。
 その上、うちはサスケは切り捨てねばならなかった男を生かしてしまった。
 忍としては致命的だ。
 きっと彼は責めを負うだろう。
 だが、だからこそ、忍の命などに情けを掛けてしまったこの年若い少年を助けてやりたかった。
「お前が殺せなかったんじゃない」
 サスケの顔が初めて苦痛に歪む。
 彼は確かに何かを言いたげで、しかし、その間すら待ってはもらえなかった。
 暗部の忍に無理に背を押されて、部屋から出される。
 扉は静かに閉ざされた。
 一人残された男は真っ直ぐに天井を見詰める。
 自分は見間違ってはいない。
 うちはサスケ。
 彼の両の手には拘束の呪印がはっきりと刻まれていた。


 時は六時間ほど遡る。
 イタチは暗部本部の一室にひとり呼び出しを受けていた。
 窓もない小さな部屋の扉が開閉する。じっと見詰めていた蝋燭の炎はぐらりと身悶えをした。
 入ってきた男は暗部の男だった。だが腰を据えて話すつもりはないらしい。互いに面のまま向き合う。
 切り出したのは、男だ。
「うちはサスケを拘束した」
 まるで明日の天気を告げるような口振りに、拘束、その言葉が腹に落ちない。
 胸がざわついた。
 不快感がぞわりと胃から這い上る。
 それで、全て理解ができた。
「それは、あれがうちはだからか」
 訊ねる。
 やや間を置き、男はやはり淡々と「そうだ、その通りだ」と頷いた。
 サスケらが敵国内で消息を絶って半日と少し。つい先ほど国境付近で暗部隊員らが確保したとは既にイタチも聞き及んでいる。
 そして、敵方に手入れをされた者と接触した者は、連続六時間の監視下に置かれることも承知している。裏切りを唆されてはいないか、あるいは既に幻術に掛かり何者かの支配を受けてはいないか、確認の必要は誰であろうとある。イタチ自身、幻術による諜報は何度となく行ってきたため、監視の必要性はよく理解できた。
 しかし、それらは監視対象本人に通告されることはない。拘束もない。自由さえ与えられている。
 通例では少なくともそうだった。
「全てはお前が推察する通りだよ、イタチ。監視対象本人には通告をしない。そして、うちはサスケの場合は自由も与えない。万が一が起こった場合、それはうちは一族の背信行為と見做される。彼が本心から里を裏切ったのか、或いは幻術の類なのか、それらは所詮些末なことだ。彼がうちは一族であること、ただそれだけが重大で、重要なのさ」
 だから拘束をした。万が一すら起らないようにするために。
 かんたんなことだ、と男は言う。
 その通り、かんたんな構造だとイタチもまた思う。
 長らく里の中枢から遠ざけられたうちはは、溜まって濁った澱のように里を恨んでいる。
 そして、十六年前に現れた九尾の眸を知る者は、うちはに疑念を抱いている。
 燻り続けた確執と一触即発の不穏の火種からは、易々と火の手が上がるだろう。
 武装蜂起と粛清。
 引き金はサスケだ。
「…サスケには?」
「懲罰だと言ってある。死に掛けの忍一人を連れ帰るために、敢えて危険を選択したためだとな。小隊は解散、サスケは隊長の任も解かれた。これは本当に。それで、処分決定まで拘束をすると言ったら、お前の弟はするりと納得をしてくれたよ。どちらにせよ今回お前の弟がしたことは忍としての適性を欠いた行為だ」
 確かに今回は帰って来られた。しかし、それだけだ。イタチも思う。
 先行させた二人は木ノ葉へ辿り着かなかったかもしれないし、サスケらは敵国内で取り囲まれ嬲り殺されていたかもしれない。
 挙げ句、死体は解体され、十中八九写輪眼は奪い取られていただろう。
 そうなれば火ノ国と木ノ葉の里は多大な犠牲を払わねばならない。
 サスケは忍として判断を誤った。それは事実だ。
「なあイタチよ」
 面の男の呼びかけに、知らず沈んでいた顔を上げる。
 男の面は笑っていた。蝋燭の火がそのように見せるのだろう。
「五つ年下の弟はそんなに可愛いか」
「何が言いたい」
「教えてはやらないのか、と訊いている」
 サスケの拘束は里とうちは双方には妥当な処分だ。
 だが、彼にとっては不当でもある。彼は何も知りはしないのだから。
「…あれは、まだ十六の子どもだ」
「もう十六、の間違いだろう。それにお前はもっと早くに知っていたはずだ」
 里とうちはの根深い確執を。
「おれはそうあることを望まれただけだ」
「そして、サスケは知らないでいることを望まれている、他でもないお前にな。いつまでもそうやって目隠しをできることでもあるまいよ」
「……」
 まあいいさと男は答えないイタチに見切りをつけた。
 イタチという男は、そうは見えずとも、尖って頑ななところがある。一度こうと決めたら、引くことを知らない。きっと彼に流れるうちはの血がそうさせるのだろう。
 男が見るところ、うちははどうにも情に偏るきらいがある。
 イタチは忍としてそれを自戒しているようだったが、そうはできなかったサスケは確かにイタチの言う通り、まだ子どもなのかもしれない。
「六時間後、山中がサスケの記憶に潜る。万が一あるとすれば、その時だろう。イタチ、お前が見張るんだ。いつもの通りな」
 言うと、珍しくイタチは頷かなかった。
「随分とおれを信頼するんだな」
 サスケはおれの弟だ、と少々投げやりに言うのは、イタチなりの不満の訴えだろう。
 だが、彼は木ノ葉を裏切れやしないのだ。男は思う。
 里は今、戦乱を暫し忘れ、安らかな夢に微睡んでいる。戦争を知る誰もが望んだ、幸福の夢だ。
 イタチとて例外ではない。彼は四つの頃に死というものが隣に寄り添う日々を経験している。
「お前は、平和を望んでいる」
「……」
「そして、その中に弟を置いておきたいとも思っている」
 信頼をしないはずがない。
 鳥はみなかごの中だ。


 長い廊下を長く行く。
 拘束が手だけであるのは、印を結ばせないためだろう。
 四半日留め置かれた部屋とはどうやら別のところへ連れて行かれるのだとサスケは気が付いていた。
 かといって、背後にひたりと付き歩く暗部の男にこれからの行き先を尋ねようとは思わない。
「あいつが死を怖れたわけじゃない。おれが殺せなかったんだ」
 行きつつ、そう訴えたサスケに、
「お前は手を掛けられなかった。奴は自刃できなかった。残ったのは、そういう結果だ」
 と、男はそっけなかった。
 暗部というのは誰も彼もこうも寡黙なのかと少々鼻白んだ。
 眠りを断って既に一日以上。敵国への潜入と幾度かの交戦で、思う以上に疲労が蓄積している。そして、それが呼び水となり、精神が疲弊をしている。
 サスケは疲れていた。とても、とても。
 足音だけが重なって響く。
 連なる窓から入る日の光は、もう秋のそれだ。
 遠くからは、里のざわめきさえ聞こえてくる。
 どれほど歩かされただろうか。
 ふと背後の気配が立ち止まった。
 俯いていたサスケは顔を上げる。
 息を呑んだ。
 心臓が跳ねる。
 長い回廊の果て、それが尽きた先、そこに彼が佇んでいた。
 面をしていようが、誰だか解らないはずがない。
「どうしてアンタが…」
 答えない彼に歩み寄られて、知らず半歩後ずさる。
 彼の顔は見えない。
 だが彼からは見えているはずだ。この両腕に浮き上がった拘束の黒い呪印が。
 顔が見たい、と思った。
 彼は、兄は、どんな顔をして忍の掟に背き拘束をされた弟を見ているのだろうか。そう思った。
 だが、怖い。
 それを知ってしまうのが途方もなく怖く、そして恐ろしかった。
「おれは今、暗部としてお前の前に立っている」
 イタチは言った。
 同時に、ぐらり、と視界が揺れる。
 目の前に火花が飛んだ。
 見切れないほどの速さでイタチの手刀が頸椎に叩き込まれたのだと気づいたときにはもう遅い。
 脳震盪を引き起こす。
 ふっと意識が遠のく。
 膝から崩れた。
「くそっ」
 それでも悪態を吐いたのは、サスケの最後の矜持だ。
 倒れながら見上げた先で、兄はこちらを見下ろしていた。
「兄さん…」
 やはり見えない。
 何も見えない。
「どうしてだ、兄さん…」
 手を伸ばす。
 だが、届かなかった。指先すらも、その面に。
「…許せ、サスケ」
 どさりと倒れる。
 意識は失せた。


 あとは、ただ残響。