かごめ、かごめ



 夏の暮れには酷い雨が降る。通り雨であるなら尚更だ。
 叩きつけるような雨に、ほんの少しの行く先さえも時に霞んでしまう。
 兄の任務に母と一悶着を起こしてでも付いて行った帰りのことだ。
 サスケが目を凝らして雨の世界を見詰めていると、こんなに降るのは我が儘を押し通したサスケのせいなんじゃないか、と最後には母を取りなし同行を許してくれた兄が言った。
 はっとして見上げる。すると、ちょうど濃く茂った樹冠から雨粒が落ちておでこに弾けた。
「…冷たい」
 雨宿りのため身を寄せた街道脇の大樹ももう長くは持ちそうにない。
 頬に流れる前に落ちた雨粒を拭おうと額に手をやる。
 だが、その前にイタチの手が伸びてきて、その親指の腹で数回擦られた。どうやらサスケを怒っているわけではないらしい。そもそも兄は叱ることはあっても、腹を立ててサスケを責めるようなことはしない人だ。
 いよいよ雨足は強くなる。
 兄は纏っていた外套の前を開けた。
「おいで、サスケ」
 サスケもまた兄と揃いの外套を着ていたが、このままでは小さな体はすぐに冷えてしまうだろう。子どもは風邪を引きやすい。その上、体力もまだない。この雨を凌いでやらなければならない。
 兄はそう思ったに違いなかった。
 促されて、サスケは大人しくイタチの傍へ寄った。
 十二の兄はこの頃また背が伸びたらしい。外套の内へ招き入れられると、その腕の下にすっぽりとサスケの体は収まってしまう。
 ああ、とてもあったかい。
 サスケは午睡の微睡みに身を委ねるように、兄の温もりに凭れた。
「サスケ…?」
 兄の呼ぶ声が遠のく。


 過去はそこで途切れた。
 それで、それが過去なのだとわかった。
 サスケは沈みそうになる意識を半ば強制的に引き上げる。
 強靱な精神力と生来の意地でなんとか自身を振り向けた先は、現在の現実だ。
 辺りを取り巻く空気は熱を孕んでいる。
 剥き出しの頬にちりちりと痛みが走った。寸でのところで避けた起爆符のせいだろう。
 耳元での爆発は脳を激しく揺さぶり、そのためほんの一瞬気が遠のいていたらしい。
 しかし他は軽度の熱傷だ。大丈夫。問題ない。動ける。
 サスケはすぐさま爆心地から身を守るように受け身で飛び出した。途中体を捻って体勢を整える。
 相手は姿を隠し潜む手練れの忍だ。複数いる。こちらが崩れていると見れば、容赦なく畳みかけてくるだろう。
 だが、それは反面慎重でもあるということだ。
 やや待つ。来ない。こちらの出方を窺っているのか。
 途端、しんとする。この森を塒にする鳥たちの羽ばたきさえも遠くに聞こえる。
 ところで、サスケの動きは大いに制限されていた。
 そのわけでもある片手に引っ付かんでいたものを離す。
 それは声を殺して呻いた。
 サスケより幾らか年上の、二十歳ほどだろう、木ノ葉の中忍は木の根に寄り掛かった。だが、そのまま自重を支えきれず、ずっずっと沈み込む。
「走れるか」
 サスケは辺りを注意深く窺いながら訊ねた。
 先ほどの熱波と爆風からはこちらの体を盾に庇ったが、それ以前に男は既に幾度となく血を吐いている。交戦中、内蔵に致命的な損傷を受けたのだろう。
 腕の悪い忍びではない。だからこそサスケを小隊長とする今回の任務班に選抜された。そして他里の忍に囲まれたこの状況を生き延びている。今はまだ。
 男からの返事はない。また包囲線が狭められた。彼もそれを感知したのだろう。黙して襲撃に備える。
 だが次も必ず防戦になる。こちらは二人だ。小隊を組んだ残り二名は伝令として先に木ノ葉に走らせている。
 救援要請ではない。
 ある国に潜行させていた火ノ国の密使が手入れをされていた。
 サスケらが依頼を受け運んできた定時連絡用の暗号が狙われている。
 それを伝えるためだ。
 暗号は事が発覚した時点で灰も残らないよう燃やした。サスケの独断でだ。
 今や悠長に火ノ国や里に判断を仰ぐような状況ではない。そもそも渡す相手があちら方へ付いてしまった。
 だが以前の暗号はあと数時間は生きている。
 それまでに新しい暗号を届ける。それが代理人を通して火ノ国の大名から依頼された任務だった。これも勿論「破棄」。
 今は出来うる限り早く、暗号の変更を火ノ国に助言せねばならない。
 偽の情報が流される。いや、既に誤った情報が氾濫している可能性だってあるのだ。
 先行させた二人はどれほど木ノ葉に近づけただろうか。彼らの帰還を援護する為には、なんとしてでも相手の忍たちはここで食い止めなければならない。
「サスケ」
 中忍が声を潜めた。
「おれは置いて行け」
 思わず振り返る。
 顔色が悪かった。血の気の引いた、土煙色の顔だ。
 死人の様をいくらも見てきたサスケには分かる。彼はあちらへ渡ろうとしているのだ。このままではそう遠くない内に。
「先に行かした二人も心配だ。敵方が追っていないとも限らない。お前だけならまだ追いつける。手は一人でも多い方がいい」
 確かに中忍の言う通り、サスケだけならばこの状況を脱せられる。
 だがそれは、この男の死と交換にされるものだ。
 それに男をただ置いて行くのではない。
 忍の体は、それがたとえ死体であっても、相手方の手に落とすわけにはいかないのだ。
 この男はサスケに暗に迫っている。
 殺せと。
 焼き尽くして、お前は行け、と。
 森が鳴る。
 風が切られる。
 苦無が二人を急襲する。
 サスケは咄嗟に忍刀を引き抜いた。一閃。叩き落とす。
「アンタの言う通りだ」
 男はサスケに腕をぐいと掴まれた。強引に立たされる。
 足下がふらついたが、この十六の少年がひとつも揺るがなかった。
「手は一人でも多い方がいい」
 サスケの、口許を引き締めた冷たい容貌の横顔の中で、その眸だけが赤々と激しく燃えている。
 あれは、うちはの眸だ。


 烏が鳴いた。
 書き物をしていたイタチは、ふと手を止める。
 すると、かぁ、と、また烏。
 筆を置いた。
 立ち上がり、締め切っていた障子を少し開く。
 濡れ縁のその向こう、まだ夏の名残を残した庭は緑が濃く深い。
 だが空は幾らかは薄青く、高くなっただろうか。あと数週間もすれば里にも本格的な秋が訪れる。
 イタチの烏はイタチが姿を現すと、羽ばたいてその腕に留まった。きちきちと黒い眼が辺りを油断なく見回している。
 イタチは賢い彼の黒々とした美しい羽を撫でてやった。彼が言わんとすることを既にイタチは察していた。
 烏を空へ放って、室内へ引き返す。
 まだ墨が乾いていないそれは、なに、たいしたものではない。放り出したままでも構わないだろう。
「あら、出掛けるの?」
 玄関で靴を履いていると、奥から母が顔を出した。洗濯物を取り込んだところらしい、駕篭を両手に提げている。
 イタチは苦笑いを作った。
「ああ、少し進まなくて」
「ふふ、イタチにもそんなことがあるのね。アカデミー生用の教本なんだから、そんなに難しいことは書かなくてもいいでしょうに」
「簡単なことこそ、人に説いて教えるのが難しいものさ」
「そうね、そういうものかもしれないわ。けれど、せっかくのお休みの日までたいへんね」
「いや、そんなことはないよ。…でも、少し歩いてくる」
 イタチはそう母に断って、戸を潜った。
 集落の大通りを過ぎ、小径へ曲がる。
 うちはの家々が軒を連ねる路地は、幼い頃に小さなサスケと歩いた路だ。
 警務部隊設立と共に、計画的に里の中心から移されたこの集落は一見整然とているが、一本路を裏へ入れば下町のような風情を残している。
 イタチは人気のない路地を選んで歩んだ。
 集落から出るつもりはなかったが、人の目の届かない場所が望ましかった。
 背後を探れば、あの気配は付かず離れず一定の距離を保って家から追ってきている。
 イタチはそのまま森へ入った。明るく陽光の射す森だが、気温は低い。奥へ行けば行くほどに緑のにおいが濃くなる。
 下草を踏み進む。
 気配は後から付いて来る。
 暫くすると視界が開けた。
 足を止める。
 他とは違って、そこはよく土が踏み固められていた。今もまだ彼はここでその技を磨いているのだろうか。そのような思いがふとイタチの胸に去来する。
「規約違反じゃないのか」
 イタチは振り向いた。
 すると、その呼びかけに応じるようにして先ほどからイタチを付けてきた男がのそりと木陰から姿を見せる。
 動物の面をした暗部の男だ。
「おれはお前に召集を伝えに来てやったんだがな」
 そう言う男は何処か軽々しい。
 イタチは表情を険しくした。
「だとしても、まずは鳥を飛ばす手筈だ。暗部とはいえ、いや、暗部ならば尚更、不用意にうちはの集落に入るべきではないだろう。事はお前が考える以上に繊細だ」
 言うと、男は早々に両手を上げた。イタチの視線に険を感じ取ったのかもしれない。
「手順を踏まなかったのはおれが悪かった。だが、召集は本当だ」
 向き合う。
 イタチは僅かに眉を顰めた。
「おれは今日は『非番』だぞ」
「それより優先される発令だ。お前の明日午前八時までの『非番』は、おれが引き継ぐ。といっても、お前とは違って『外』からだがな」
「それは問題ない。警務で今はほとんどの者が出払っている。…だが、何があった」
 わざわざイタチの『非番』を解くのだ。
 事はそう簡単なものではあるまい。
「なに、お前には直接には関係のないことだ、が、」
 暗部の男はそう前置きした後、ある国の名を告げた。
 知っている。確かにイタチはその国に関わる任務の幾つかをここ数ヶ月継続して負っていた。
「中で何かあったのか」
「いや、問題があったとすれば、こちら側だ。お前も、火ノ国の大名があの国だけじゃない、各国に密使を潜ませているのは知っているだろう。それに、その密使らに暗号を届ける役目を木の葉が負っていることも」
「ああ。だが、それはおれたち暗部にではなく、正式に木の葉に依頼されるものだろう」
「通常ならばな。が、その密使が今回は手入れをされていた」
 裏切りか。
 イタチは呟いた。
 男は耳敏くも頷く。
「今回その依頼を受けた班の奴らが、どうもそいつの様子がおかしいと鎌を掛けたら、案の定さ。報告を受け、国は暗号を変更したが、偽の情報が既に流されている可能性もある」
「精査が必要だな。情報部の管轄だ」
 ならば暗部召集は何のためか。
 決まっている。殺しのためだ。
 密使は里の忍ではない。しかし同国の者だ。それも存在が明るみになってはならない陰を歩む者だ。
 国が暗部に殺しを要請するのは妥当なのだろう。暗部は名の通り、暗闇を暗闇のままにするため、殺しをも行う。
「新たに臨時小隊が編成される。お前はあの国の事案を幾つか抱えていたから、それに差し障りがないよう調整役として呼ばれたのだろう」
「わかった。すぐに向かおう」
 その言葉通り、一足飛びに駆けようとしたイタチを、しかし面の男は引き留めた。
 何も知らないのか、と言う。
「どういうことだ」
 訊ねると、男はくぐもった声で笑った。いやな笑い方だった。
「おかしいと思ったんだ。おれの話の間中、お前は顔色どころか眉ひとつ動かさない。余程精神の鍛錬を積んでいるのかとも思ったが、どうやら本当に知らないらしいな」
「……」
「今回暗号を運んだ表の奴らのことさ。事に気づいて相手に鎌をかけたのは、誰だと思う?」
 男は問うたが、イタチは答えない。
 数瞬の沈黙の後、やがて痺れを切らしたのは面の男だった。
「お前の弟、うちはサスケだ」
 そう告げた面の男が探るようにイタチの双眸を見詰める。
 だが彼は結局そこに何も見つけられなかった。イタチの深い黒の眸には瞬きさえない。
「おれたちは忍だ。任務を口外することはない」
「なるほど、お前は特にそうだろうよ。家族にならば、尚更な」
「それで話は終わりか?」
「ああ、これで仕舞いだ。長話をした。だがついでに教えておいてやるよ」
 面の男は地を蹴った。近くの木の枝に上がる。集落の外まで森の木伝いに走るのだろう。
 見上げる。
 あちらは見下ろしていた。
「報告に戻ったのは二人。陽動のためあちらの国に残った二人はまだ帰らない。その内の一人はお前の弟だよ」
 枝が揺れた。暗部の男はもういない。駆けたのだろう。
 木の葉だけがイタチに舞い落ちる。
 空があった。
 薄雲が流れている。上空は風が強いのか、速い。
 サスケ。
 あれらは彼の処まで渡り行くのだろうか。
 かあ、とまた烏が鳴いた。