現代パラレル

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  リハビリテーション 04  


 ごろりと寝返りを打ったところで、寝心地の悪さは変わらなかった。体の右側にあった痛みが左側に移っただけで、根本的な解決にはなにひとつなっていない。
 春遠い夜のフローリングは硬く、冷たく、痛かった。
 俺は薄手の掛け布団を二枚、口許まで引き上げる。
「親父が死んで借金苦、挙句大学まで落ちて、行く当てねーの」
 そんな一言とともに俺は今日、鮮烈な弟デビューを果たした。
 初対面の彼は驚きも戸惑いも一切せず、これでもかと嫌な顔をした。挙句追い返そうともしたので、
「補導されたら、保護者はあんただっておまわりさんに言うよ」
 しがみつくと、嫌な顔だけにしてくれた。
 家に上げてくれた彼にはかいつまんで話をしたが、大体の事情は知っていたのだろう、どこか他人事のように聞いている風があった。俺のあれやこれやの苦労話も偶々ついていたテレビのニュース、その程度だ。しかもその内容は既に朝刊で読み終えているときている。
 話の最後、その段になって漸く彼は「それで?」と口を開いた。
 お前は何が目当てだ、と問われた。
 妙な同情はこれっぽっちもない。俺もそういう腹は全くなかったので、ちょうど良かった。
「言っただろ?行く当てがないって。外はさみぃから、ちょっとの間だけここにいさせて欲しいんだ」
 その夜、最初彼はリビングのカウチで寝るよう言った。上掛け布団は秋用のものがあるが、マットはないらしい。
 だが俺はそれを断り、勝手に彼の書庫と化している部屋に布団を持ち込んだ。
 フローリングは冷たく、硬く、痛く、俺を拒否する。
 けれど、これでいいんだ。居心地が良くなってしまえば、ずるずるそれに甘えてしまうから。
 目を開ける。明かりのない部屋にはうすぼんやりと本棚のシルエットが浮かんでいる。
 彼が自分で書いた本を所蔵しない理由が分かった。
 きっと余計なものを置くところがもうこの家にはないのだろう。
 大学事務のあのおねえさんはこのことを知っているだろうか。
 ひとつだけ勝った。なんて思って、自分に呆れる。



 翌々日、彼は帰って来るなり一通の封筒を俺に差し出した。
 書庫兼俺置場で興味もない本を何冊も引っ張りだし(すぐに挫折をしてしまうからだ)、日がな一日をぼんやり過ごしていた俺はとりあえずそそくさと出しっぱなしの本を積み重ねてみる。
 肩身の狭い転がり込んだ居候が、おかえり、なんて言っていいのか判断がつかない。けれど彼も、ただいま、なんて言わなかったから、この問題は先送りになる。
 彼はざっと部屋を見渡し、それから俺の恰好をひたと見た。
「高校は?」
 時計はないが、夜九時を回った頃だろう。この街からの通学距離の都合上、本来であれば俺も今くらいに帰宅となる。
 俺は彼を見上げ、ああここに座る気はないんだなと判断し、封筒に手を伸ばした。
「出席日数は足りてる」
 とどのつまり、さぼったんです、通学距離の都合上。
 教職に就き、それでなくとも交わした数少ない言葉の端々から俺を厄介だとか気に入らないだとか、そう思っている節のある厳格な彼だったから、怒るかな、と思った。怒ったらどうしよう、とも思った。でも俺はこの人の怒った姿すら知らないから、想像もできない。
 品行方正であることをとっくの昔に捨ててしまった(品行方正である振りは得意だ)俺ながら、彼の次の言葉は恐々待った。
 だが彼は特段何かを言うこともなく、その辺りの本を拾い上げページを捲る。
 その姿に知らず知らず竦んでいた身体が弛緩した。ほっと肩が落ちたのもそのせいだろう。
「読めるのか」
 彼が言った。
 その手の本の背表紙には、今日の昼下がり、うたた寝の夢の中で行進していたタイトルが刻まれている。
 読んだのか、と訊ねないところがこの人の性格らしい。
「字は読めるよ」
 そういう返しをするところが、また俺の性格なのだろう。
 俺は渡された封筒を開けた。中には幾つかの書類が入っている。もう一度表を確認すれば、封筒には聞いたことだけはある大学の名が印字されていた。
 中身を取り出して、思わず眉根が寄る。
「なにこれ」
 すると、彼の口角が上がった。
「字は読めるのだろう?」
 あ。
 笑った。
 そう思った。
 ごく素直に。ひどく純粋に。
 だが思った後、イヤミを言われたのに俺はアホかと後悔をする。
「哲学科、受験票…」
 封筒には聞いたことしかない大学の受験票が無造作に放り込まれていた。
 更に彼も踵を返しながらひどく無造作に言って捨てる。
「明日入試だ。受けろ」
 思い浮かんだのは、全てを緑が包んだあのキャンパスだった。
 空の彼方に飛び去ったはずの執行猶予切符が、誰でもない兄の手によって、取り返されかけている。

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