現代パラレル
リハビリテーション 02
大学で教鞭をとっている。
「別腹の兄」について俺が知らされたのは名前と住所、それだけだった。どういう経緯で生まれ、追われ、どんな思いでこれまで生きてきたのか、今暮らしているのか、そういうことは一切教えられなかった。
きっと教えたくとも誰も知らないのだろう。
それくらい「別腹の兄」という存在は俺の育ってきた世界から切り離されていた。ぽっかりと穴が空いていた。挙句そこに別のものを詰め込んで穴なんて最初からないようにみんなで振舞ってきた。
その「別腹の兄」が「教授」というものをしている大学に足を向けたのは、彼の家を訪ねるより少し前に遡る。俺にもそれなりに遠慮だとか、気詰まりだとか、そういう気持ちがあったから、いきなり家には、つまりは懐には飛び込めない。俺の兄がどんな人間なのか、少しでも知りたかった。
その「別腹の兄」が勤める大学は街の中心からさほど離れてはおらず、鉄道各社が乗り入れているターミナル駅から快速急行に揺られ四十分程度で最寄駅に着いた。そこからは学生らしい集団のあとに付いて歩く。大学に関心のない俺でさえ一般常識として知っているほどの大学であるためなのか、駅からしばらくは学生が立ち寄りそうな一通りのファーストフード店やカフェ、飲み屋に飯し屋が道脇に続く。そうして、それらが次第にスーパーやドラッグストアに変わり、本屋古書店が並ぶころ大学の厳めしい正門が俺の前に現れた。
立ち止まって見渡す。
キャンパスは年中深い緑を枝に燈した針葉樹に抱かれていた。冬の薄い霞んだ空も枯木色も全て緑が包んでいる。
大学というところはどうも別世界らしい。
「別腹の兄」もまた俺や血の繋がった家族を切り離している。
そう思うと少しだけ長い息が胸からこぼれ出た。
「うちを受験するのかな?」
ふらりと立ち寄った事務局で大学のパンフレットを眺めているとそう声をかけられた。振り返ると事務員風のおねえさんが首を傾げている。俺は開きかけていたパンフレットを閉じた。
「一応」と嘘を吐いて向き直る。ついでに、にこっと笑って見せた。こうすると女性ならほぼ100%、男でも50%くらいの確率で親切にしてくれる。せっかく生まれ持った顔なんだ。上手く使わない手はない。
ああやっぱり、とおねえさんは声をかけた不安を打ち消して笑った。
「見掛けない顔だったから」
似てないんだな、と思った。「別腹の兄」と俺は。
だがそういう事情をもちろん知らないおねえさんは、俺と俺が手にしたパンフレットを見比べながら重ねて尋ねる。
「直接出願しに来たのかな?」
出願。
出願、ね。
俺は心中繰り返す。
この大学に限らず、大学入試、いや大学そのものが俺にとってこれまで以上に縁遠いもののように思えてならなかったからだ。
数人の学生たちが友人と、あるいは恋人と笑いながら俺の傍を通り過ぎていく。きっと彼らの多くが、緑に囲われ、守られていることを知らない。夏には木陰を作り、冬には風を受けてくれているあの木々を知らない。深い緑に守られた世界で、大人になる猶予を与えられた子どもたちが「汚い大人なんかになるもんか」と一時の夢を見ている。
俺もつい一週間ほど前まではそんな世界への切符を手にしていたというのに、夢の国のチケットは思う以上にかんたんに、あっさりと、ひらひらと空に飛んで消えていってしまった。子どもではいられない世界に放り出されてしまった。
ちらりと事務局の壁を見遣れば「出願受付所はこちら」と書かれたB4の紙がテープで留められていた。その受付席が空っぽなのは、このおねえさんの席だからだろう。
「あー…出願じゃなくて、今日は見学」
そう言えば気を悪くするかとも思ったが、可愛いおねえさんは気にした風もなく「そうなんだ」とさっき俺がしまったパンフレットをもう一度開いて見せる。彼女が開いたページにはキャンパスのかんたんな地図が載っていた。
「どの学部を見学したいの?」
一瞬迷った。
マルチェロという名を出すか、出さないか。
その名を口にしたら、今まで誰にも、俺と「彼」にさえ見えていなかった何かが浮かび上がって、見えて、繋がってしまう気がした。
一度知ってしまったことは、白紙には戻せない。
中学生の頃、二十代のまだ若い英語教師が「knowは状態動詞なのよ。だってその一時だけ「知る」なんて出来ないでしょう」なんて言っていたのを思い出す。
それが英語の授業として正しかったのかは分からないけれど、一度知ってしまったらずっと知ってしまうのよ、その言葉の意味が今になってひどく胸につっかえる。
だが、それらは全て杞憂だった。
昔むかし、空がいつか落っこちてしまわないか、そんなありもしないことを心配していた人がいたらしい。まさにそれ。
取り越し苦労。まさにこれ。
願書受付嬢は俺が口にした「マルチェロ」の名に、「そっか」とぱっと顔を明るくした。
「マルチェロ先生は有名だものね」
そうなんだ。と驚いたが、口にはしなかった。
あっけないくらいかんたんに「マルチェロ先生」の話が弾む。それにしても学内の人間でない俺にも「有名」と言うくらいなのだから、「別腹の兄」は一般にも露出のある人なのかもしれない。
「マルチェロ先生は国際政治学がご専門だけど、経済学も、あと数学にもお詳しいのよ。講義は分かりやすいし、指導にも熱心でいらっしゃるから、厳しいけれど、学生たちからも人気があるわ」
そうおねえさんがあまりに熱心に喋るものだから、俺は失礼かと思ったが、おねえさんを上から下までざっと眺めた。薬指に指輪はない。一応は。
「随分詳しいんですね」
もしかして「別腹の兄」と特別に親しい人だったかな?
俺のこと、この人から「別腹の兄」に繋がったりはしないかな?
そんな不安が過ぎったが、だがそれもまた杞憂だったらしい。
「実は私、ここの卒業生でマルチェロ先生の教え子なの」
どうやら「別腹の兄」に関しては、妙に勘繰っては自滅するパターンにはまるようだ。勘は鋭い方なんだけど。
そんな内心のことはさておき、俺は「そうなんだ」と笑うことが出来る。
「じゃあもしかしたら、先輩になるかもしれないんですね」
もちろん今の俺に学費なんて払えるわけがない。そもそも明日の生活だって危ういんだ。けれど「かもしれない」と俺は何事も曖昧にすることが出来る。
人の良さそうな、いいやきっと本当に善良な女性なのだろう、彼女はパンフレットを元に戻しながら俺に尋ねた。
「マルチェロ先生の新しい本はもう持っているかしら?」
「いや。今、金ないんで」
これは本当。本当と嘘を混ぜ合わせながら喋るのが物事を曖昧にするコツ。
するとおねえさんは「ちょっと待ってて」と事務局の奥に引っ込み、数分後に今度はカウンター越しに俺を呼んだ。大きく分厚めの封筒を手にしている。鋏を入れると、クリーム色をしたハードカバーの本が出てきた。背表紙には小難しいタイトル。どうやら学術書のようだった。
そして「マルチェロ」という名前。
「新刊よ。あげるわ」
微笑まれて、困った。
おねえさん。
俺、実はこの人の本なんてこれまで読んだことないんだ。興味ないし、読む気なんてない。
有名人だったなんて今日初めて知ったし、ていうか「マルチェロ」という名を知ったのも一週間くらい前で、おねえさんよりもずっとずっと「マルチェロ」を知らなかったし、きっと今もこれっぽっちも知らない。
これまで調子良く喋っていた俺が急に言葉に詰まったせいだろう、おねえさんは「気にしなくて良いのよ」と言った。
「これは出版社からマルチェロ先生にって送られてきた本だから、私のじゃないの」
そういうわけの「受け取り拒否」ではなかったが、せっかく都合よく勘違いをしてくれているのであえて訂正しようとは思わなかった。
「でも、じゃあそれはマルチェロ先生宛なんでしょ?」
「いいのよ。先生はいつも原稿の内容は覚えているからって受け取って下さらないの。だから私が預かっているだけ。それに私は自分で先生の本を買いたいの」
はい、ともう一度差し出され、俺は仕方なく手を出した。女性からの好意は受け取る、というのが俺の数少ないルールでもある。
表紙に目を落とし、それから「マルチェロ」という名を眺め、俺は顔を上げた。
「ね、ついでにここの願書も欲しいな」
「あら。受験する気になった?」
「うん。願書を直接持って来たら、またおねえさんに会えるしね」
受験料だけなら払える。おねえさんに振込みの仕方を聞きながら、頭の中で現金の残りと相談をした。家を出る日を前倒しにすればいい。どうせいつかは出て行かなきゃならない家だ。それが高校在学中に早まるだけのことさ。
「見学して行かなくていいの?」
マルチェロ先生の本と願書を鞄にしまい帰ろうとすると、おねえさんからそう声を掛けられた。
俺はちょっと振り返り、「うん、おねーさんとたくさん話せたから充分」なんて調子良く手をひらひら振る。
そうして前を向いたところで、事務局入り口のガラスの自動扉が開いた。
センサーが俺を感知するにはまだ距離があったから、向かいからやって来る人に反応したのだろう。
ちょうど扉を潜るところですれ違う。
「あら、今ちょうど」
そんなおねえさんの声を背に、俺は大学を出た。
帰り道、少し大きめの本屋に寄る。
入り口すぐの新刊コーナーには有識者と言われている人や、テレビによく出ている大学教授の本が積まれていたが、そこに「マルチェロ先生」の本はなかった。けれど普段は絶対に足を踏み入れない専門コーナーを探せば、おねえさんからもらったものと同じ本が積まれていた。それに棚には何種か「マルチェロ」の名が並んでいる。
一冊ずつ手にとってページを捲ってみたが、俺にはちんぷんかんぷんで、そっと戻した。
ついでに遺産や借金関連の法律の本を冷やかし、店を出る。
もう太陽が街の奥に傾いていた。
それでもこのオレンジ色の世界に「マルチェロ」が俺の兄が、家族が確かに存在している。
夜に沈みかけていた俺の世界にも西日が差していることに、俺はこのまま気付いてしまってもいいのだろうか。
気付きたい、と思っている自分を見つけてしまっても俺は果たして一人でいられるだろうか。
そういうことが怖かった。