ハングマン
「今日は早いな」
夕暮れは右。
サガは左を振り返った。
アイオロス。彼は一部崩れた闘技場の瓦礫に腰掛けていた。
サガは少し困ったように微笑する。
「ああ、すまないな。子供達の面倒をお前一人に押し付けてしまって」
サガが云うと、アイオロスは構わないと手を振った。
「いいさ。どうせ後は風呂に入れて、寝かしつけるだけだ」
「それがなかなかたいへんなのだがな」
サガは肩をすくめた。
それに応えようと口を開き掛けたアイオロスだったが、不意に気付いて云った。
「サガ。こめかみの、それ。どうしたのだ?」
自らのこめかみを指差す。
云われてサガも同じように自らのこめかみに手をやった。
「ああ。これか」
サガのこめかみには、前髪に隠れるようにして、しかし痛々しい引っ掻き傷があった。
サガの困ったような微笑が深まる。
「引っ掻かれてな」
「それは、そうだろう」
訓練中にでも引っ掻かれたのかとアイオロスがふざけ半分で問うと、
サガはそれをゆっくりとした口調で否定した。
「今朝飼っているペットに引っ掻かれたのだ」
ペット、アイオロスは口の中で一度繰り返し、ふぅんとサガに返した。
「お前、ペットを飼っていたのか」
「…ああ」
「だから家に帰っているのか?」
サガは朝早くに聖域を訪れ、深夜過ぎに聖域を去る。
時には聖域に数日間、数週間留まることもあったが、聖域に住むことは決してなかった。
「ひとりにしては可哀相だろう」
サガが口許に笑みを浮かべると、アイオロスもつられて笑った。
「ふうん。随分と可愛がっているのだな、そのペット」
アイオロスが云うと、サガは笑みを消し、怪訝そうに眉根を寄せた。
「何故?」
その声が意外にも低く、アイオロスは焦るほどではなかったが、すぐに言葉を返した。
「いや。ひとり、と云うから。可愛がっているのだなと思っただけだが、違うか?」
問われ、サガはまた小さく笑む。
「…ああ。可愛がっているよ」
「その割には最近帰ってやらないではないか。餌とかは大丈夫なのか?」
「餌は、適当に食べているから」
「へえ。賢いな」
アイオロスが云うと、サガは少し口を閉ざしたが、やがてまた云った。
「確かに賢いが、少々乱暴なのだ。最近はてこずっている」
サガが大袈裟に溜息を吐いて見せると、アイオロスは肩をすくめた。
「それはお前が帰ってやらないからだろう。きっと寂しがっているのだ」
アイオロスがそう云うと、 サガは眸を伏せた。
「ああ。そうだな。寂しがっているのだろうな。、きっと。本当は」
途切れ途切れに、自ら呟く言葉を噛みしめるように云う。
アイオロスは立ち上がりサガの背を軽く叩いた。
「だから今日は早く帰ってやるのだろう?ほら、早く帰ってやれよ」
しかしサガは首を振る。
「いや。実は、今朝飛び出して行ったきりで、家にいるかは解らないのだ」
「それで傷か」
アイオロスはサガのこめかみの傷に目をやったが、ふと云う。
「何故その傷を治さないのだ?それくらいならば治せるだろう?」
サガの傷は治すどころか、手当てをした様子もなかった。
「治せるが」
サガは傷に手をやった。
「しかし、私が、あの子が私に付けた傷まで消してしまったら」
可哀相だろうとサガは視線を落とす。
「私にまで、あの子の何かが残っていないなど、可哀相だ。
もしも私がこの傷を跡形もなく消してしまったら、あの子は何を頼りに帰って来れば良い?
あの子がここに在った証が、ここに在る証が何ひとつなくなってしまう」
だからこの傷は消さないとサガは云った。
沈黙が落ちる。
その沈黙を和らげたのはアイオロスだった。
「なあサガ」
努めて声を弾ませる。
「そのペット、聖域で飼えないのか?」
聖域で飼えば、ひとりにして哀しませることも、寂しい思いをさせることもないだろう、
アイオロスはそう云ったが、しかしサガは俯いたまま、その口許を珍しく皮肉げに上げた。
「…聖域で飼う?」
それはアイオロスが一瞬言葉に詰まるほど、海の底を思わせるような深く暗い声だった。
気を取り直してアイオロスが云う。
「ああ。そうすればいつでも会えるだろう?」
しかしサガは応えなかった。ただ乾いた地面を眺めるばかり。
その表情は長い髪に隠され、アイオロスからは見えなかった。
そうして漸く顔を上げれば、そこにはいつものサガの少し困ったような微笑があった。
「サ…」
「アイオロス。お前の気持ちは嬉しい。お前は優しいな」
サガの眼が細められる。
アイオロスは少し焦った。
「いや、それほどのことは云っていない気がするのだが」
そう云ったが、サガは取り合わなかった。
まるで独り言のように続ける。
「だが、聖域では飼えぬのだ。どうしても飼えぬのだ」
云いながら、サガは一歩を踏み出す。
長い髪がなびいて揺れる。
「アイオロス」
サガは振り返らなかった。サガは夕暮れ空を見上げていた。
やがていつものように穏やかに言葉を紡ぐ。
「今朝は、少し苛々していて、あの子を理不尽に叱りつけてしまったのだ。
だからきっと暴れたのだな、あの子は。
なあ、アイオロス。あの子は、私にこの傷を付けた時、怯えたように私を見ていたよ。
あの子は、私が大丈夫だからと何度云っても聴いてはくれなかった。
あの子は泣いていた。あの子は泣いていたのだ。痛くて、泣いていたのだ。
こんな引っ掻き傷くらい、何ともないのに。あの子が傷付く必要などなかったのに」
今日はすまないが早く帰るとサガは繰り返した。
「帰って来るかは解らぬが、もしも帰って来てくれるならば、迎えてやりたいのだ。
私はお前を待っているよと云ってやりたい。お前は私に必要なのだよと云ってやりたい」
痛かっただろうと慰めてやりたい。
そんなことでお前は怯えなくとも、傷付かなくとも良いのだよと腕に抱いてやりたい。
サガの視線はいつしか再び地面へと落とされていた。
アイオロスはサガの背に云った。
「可愛がっている、ではないのだな」
「うん?」
サガが少しだけ振り返り、横顔が覗く。
アイオロスは笑んで見せた。
「お前は、大切にしているのだな、そいつを」
云われて、サガは静かに微笑んだ。
長い睫毛が眸に影を落とす。
「ああ。大切にしてやりたいな」
そうぽつりと云って、サガは再び背を向け、歩き出した。
ややその背が遠くなった頃、アイオロスは思い出したようにやや大きく声を上げた。
「サガ」
呼び止める。
「なんだ?」
サガが振り返る。
右の夕焼けが眩しかった。
「そいつの名前」
「名前?」
そう首を傾げるサガに、アイオロスは云った。
「ああ。だって、ペットなどおかしいではないか。きちんと名前があるのだろう?」
良ければ教えてくれとアイオロスが云うと、長い静寂がふたりに落ちた。
が、やがてサガは呟くように云った。
カノン、と。
「カノン」
アイオロスはゆっくりとその名を呟き、何度か繰り返した。
「カノン。カノン、か」
良い名だなと云う。
するとサガは笑んだ。
いつものように穏やかでやわらかく、しかし何処か寂しげに。
サガは云った。
「ああ。とても」
とても良い名なのだとサガは静かに眸を閉じた。
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