Gemini*Aquarius




海に咲く花



 数日間聖域を辞し、東シベリアへ赴きたいと願い出たカミュに、

 教皇は仮面の下で、もうそのような頃か、と静かに呟いた。

 膝を付いた姿勢のカミュからは、仮面の下は勿論、その仮面さえ見えることは出来ない。

 カミュに再び教皇の言葉が静かに降る。それはカミュの願いを聞き届けるものであった。

 礼を述べ、その場を辞そうと立ち上がったカミュに、教皇は一人の名を挙げた。

 「アイザック、か」

 その名にカミュの眸が伏せられる。

 「覚えておいででしたか、聖闘士候補生にしか過ぎなかった者の名を」

 そう云うと、教皇は苦笑いをしたようだった。それは、しかしカミュの推測にしか過ぎない。

 「私は忘れぬよ」

 教皇が静かに紡ぐ。

 「誰ひとりとして、例えその者が聖闘士でなくとも、私は忘れぬ。名も無き死者を私は忘れぬ。
 
 その最期の痛みを想って、私は哀しむ。

 その別離の孤独を想って、私は立ち尽くす。

 そして願うのだ。祈るのだ。

 アイザック、そして全ての死者に安らかな永久と女神の慈しみがあることを」

 仮面は無機質だった。だが、そこにあるのは僅かの哀惜だろうか。

 カミュが思っていると、教皇は灰色の空を映した海を眺められる窓へと視線をやった。

 「どれだけその身を震わせただろうか。冬の海は冷たく暗い」

 花を投げておやりと教皇は云った。

 せめて春の穏やかな息吹を、花を、あの冷たく暗い海へ。

 そうしましょう、カミュが深く頷き、背を向ける。

 が、数歩進んだところで名を呼ばれ、振り返った。

 教皇は視線を未だ海に留めたまま。

 「花を」

 教皇は云った。

 弔いの花を投げてやってはくれまいか、と。

 一瞬の沈黙の後、カミュは応えた。

 「シベリアへ立つ前に、教皇のお望みの花を手向けて参りましょう」

 教皇のその視線の先にある海へ。

 弔いの花を、名も無き死者へ。






             back or next