はぐれものに
海の王は迷い込んできた一匹の魚に云った。
なあお前、お前は知っているだろうか。海の成分を。
海は水とナトリウムイオン、マグネシウムイオン、カルシウムイオン、カリウムイオン、
塩化物イオン、硫酸イオン、臭化物イオン、炭酸水素イオン、
そして僅かの金属によって構成されているのだ。
なあお前、お前は知っているだろうか。海の味を。
なあお前、お前は知っているだろうか。涙の味を。
海は涙の味に似てはないか?
涙は海の味に似てはいないか?
なあお前、お前は知っているだろうか。この星の70%に海があることを。
それはこの星の70%にわたしがあるということにはならないだろうか?
なあお前、お前よお前。
お前は知っているだろうか。生物の70%も水なのだよ。
もちろん塩分濃度は異なるが、それはお前たちに内なる海があるということにはならないだろうか?
故にお前の涙はこの海の味する。
なあお前、お前は知っているだろう。全てはわたしの中から生まれた。
全てはわたしより生まれ出で、そのうち幾つかはわたしのもとへ留まり、
そのうち幾つかは陸へと上がり、そのうち幾つかは空を目指した。
全てはわたしの子も同じ。それ故わたしは陸を、空を欲した。
我が子が愛しいゆえに。我が子をこの腕に抱きたいと願ったゆえに。
なあお前、お前は知っているだろう。海は生命の起源。
彼らの哲学に従い進化を拒んだあらゆる原始生物をそのままの姿で許し、
あらゆる異形の者が棲まう生命の理想郷。
なあお前、お前よお前。
お前は知っているだろう。進化とは異形なる箇所を削り落としたもの。
それ故進化の際に断つ人間は異なるものを嫌う。嫌うのだ。
お前はよくよくそれを知っているだろう。
なあお前、わたしはお前に云おう。
14億K立方メートルの海はお前の内にある。
14億K立方メートルの海の王たるわたしはお前の内に眠っているのだ。
故にお前が哀しいときにはわたしを呼び起こせ。
わたしはお前の頬を撫でるために姿を現そう。
そうして再びはぐれたときには海へと戻っておいで。
人からはぐれたときにはわたしのもとへと戻っておいで。
全てはわたしの子。
お前も愛しいいとしいわたしの子。
戻っておいで。戻っておいで。
そうして迷子のはぐれた一匹の魚は、人間の手足を取り戻し、陸へと上がった。
海の王は一人呟く。
なあお前、だがわたしは知っているのだ。お前がもう戻らぬということを。
なあお前、お前よお前。
わたしは知っているのだ。お前がもう二度とは戻らぬということを。
お前がどれほどお前のその姿に似たものを追い求めてきたかを知る故に。
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