Pisces




クールビューティ



 八十八の聖闘士の中でも最も美しいと詠われる聖闘士、魚座のアフロディーテ。

 だが彼が己の美しさに溺れたことは一度たりともない。




 生まれ育ったところは他に比べれば平和であった。

 けれど平和の地にあって、紛争続く世界を耳にするのは歯がゆいものだった。

 世界が一瞬たりとも平和になったことがあるだろうか。アフロディーテは想う。

 平和。それは権力者が口にする言葉だけの平和。

 実際は何処かで確実に戦争が起こり、今日もまた人が人を殺し、人が人に殺される。



 少し大きくなって彼は世界を目にした。

 考えていたよりも凄絶な、想っていたより衝撃的な世界の真実。

 子供が飢えている。子供が死んでいる。子供が殺されている。

 母親が飢えている。母親が死んでいる。母親が殺されている。

 父親が飢えている。父親が死んでいる。父親が殺されている。

 人が飢えている。人が死んでいる。人が殺されている。

 此処で死んでいる子供に何か罪があったのか?

 其処で死んでいる母親に何か罪があったのか?

 彼処で死んでいる父親に何か罪があったのか?

 殺し殺され、憎み合い、殺し殺す。




 人種民俗宗教。

 神よ!貴方はなんと残酷なのだろう。

 アフロディーテは立ち尽くす。

 何故ひとつではなかったのだろうか。何故この世には絶対的なものがないのだろうか。

 私を創った神でさえ、ひとつではないと言うのに。

 もしも世界がひとつなら、この子共は殺されなかったのではないか?

 もしも絶対的な支配者がいたのなら、その母親は殺されなかったのではないのか?

 もしもひとりの者がこの世の覇王であったなら、あの父親は殺されなかったのではないのか?

 唯一この世で絶対の者がいて、世界が彼にひれ伏したのなら?




 アフロディーテは足下の肉塊を見下ろす。

 女神よ、幼い貴女にいったい何が出来るのか。この子ひとり救えなかった貴女に。

 血がべっとりと付いた幼い子供の手。アフロディーテはせめてと瞼を閉じてやる。

 女神よ、貴女はいずれ他の神々と戦うために降誕された。

 しかし世界はいずれではなく、たった今救いを求めているのだ。

 今この世界を救える者。唯一絶対の世界の覇王。

 アフロディーテは立ち上がる。風が彼の美しい頬に強く打った。

 たとえその者が悪魔であろうと、悪魔の掌の上の平和であろうと、

 悪魔よ、あなたはこの世に平和をもたらしてくれるであろうか。




 アフロディーテは眸を伏せた。

 「ならばこのアフロディーテ」

 そしてゆっくりと開ける。

 「喜んであなたに膝を付こう」

 風が肉塊となり果てたひとつの家族の上に吹く。そこにはもう誰の姿もなく。

 ただ手向けのように添えられた一輪の薔薇が風に吹かれて舞っていた。






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