20 だれかの話
微かに鳴る振動音にサスケは手には重たく分厚い専門書から顔を上げた。兄の本棚から適当に抜いてきたそれは、十六歳のサスケにはまだよく分からないただ文字の羅列に過ぎない。
左右に視線を巡らせる。振動はカウチの上、投げ出された携帯電話が元だった。着信を告げ震えている。一度ならメールか何かだろうと無視を決め込んだが、そいつは何度も震えてサスケに早く取れと促した。
「兄さん」
サスケはキッチンにいる兄を呼んだ。今日は朝から熱心にもう二時間も籠っている。甘いものを除けば自身の食にも調理にも無頓着なくせに、しかし時折イタチは針を振り切ったように料理に拘るときがある。この間なんかは目玉焼きひとつに一時間以上も待たされた。
「おい、兄さん」
返事がないので、今度はキッチンの方を振り向いて強く呼ぶ。
兄の携帯電話といえば今も途切れず、サスケの知らない誰かの名前をちかちかと明滅させていた。
こんなにも長い着信だ。知らない誰かは兄にとても大事な用があるのかもしれない。
しかし手に取るには憚られた。繰り返し表れる名がたとえば父や母であるならばキッチンまで渡しに行ってやらなくもないが、先程から兄を呼んでいるのはサスケの知らない兄の世界の人間だ。
どうしようか。いや、どうしようもない。サスケがそんな風にしてただ身を揺らす携帯電話を前に居心地を悪くしていると、漸くキッチンから片腕にボウルを抱えた兄が顔を出した。
「どうした?」
と、ぐにぐに生地を捏ねている様子から、また凝ったことを始めたものだとサスケは思う。
「電話。兄さんに」
携帯電話を顎で示す。それから、これでお役御免だとばかりサスケは読書に戻ろうとしたのだが、
「誰からだ」
と訊ねるイタチの声に引き留められる。
知るかよ。
そうは思うが、もう一度ディスプレイに目を落とす。表示されている知らない名前を読み上げてやった。
「サスケ」
顔を上げる。すると、今度は兄が先程のサスケのように携帯電話を顎で示していた。その上、白い粉が付いているとわざわざ指先を見せるので、サスケは仕方なく開いていた膝の上の本を閉じた。伏せては傷んでしまうんじゃないかと気を遣うくらいには分厚い本だったし、これは兄のものだという分別もサスケにはきちんとある。
「ほらよ」
サスケは震えるそいつを拾って兄のところまで行ってやった。通話ボタンを押して耳の傍に当ててやる。
兄は、長く待たせたというのに謝罪を口にするでもなく、電話の向こうと突として用件を話し始めた。それほど相手とは気の置けない間柄なのだろう。
「……」
卵と牛乳色をした生地がボウルの中で伸ばされ捏ねられ丸められ、また兄の手に掛かってくにゃりとその形を歪める。
顔が近いことが慣れないわけではなかったが、だからといって兄と誰かの電話の様子をじっと見つめるのもおかしな話だ。目の遣り場に少々困ったサスケは携帯電話を兄に合わせて掲げてやる一方で、朝から兄が熱心に捏ねる謎の生地をぼんやりと眺めた。
イタチがこんなにも料理に時間をかけるのは、おれに何か食べさせたい時くらいだと、サスケはそれくらいには兄に関して自惚れてはいるが、甘ったるい焼き菓子の類いなら勘弁してほしい。サスケが昨晩ふたりの食卓に肉料理を出したのは、兄の体を思いやってのことなのだ。他意はない。
「ああ、…そうだな。いや…」
サスケのすぐ傍、耳元でのイタチの会話はまだ続いている。もちろん内容までは聞き取れない。だが、
「今からか」
そんな一言に顔をうっかり上げてしまったのは失態だった。
ぱちりと目が合う。
素知らぬふりで逸らしたが、もう遅い。
ふと口許を微笑ませた兄は、
「悪いが今は手が離せない」
と相変わらずボウルの生地を捏ねたまま、携帯電話の通話口に淡々と告げた。
それから何度か「ああ」だとか「そうだな」だとかのやり取りをサスケはむっつりと聞いていた。
「じゃあな」と言う兄の声と共に電話が切れる。
「…いいのかよ」
サスケは明かりの消えた携帯電話を兄の耳元から離しながら言った。もうそこには知らない誰かの名前はない。
他方、兄は何かを気にした様子もなく腕のボウルを抱え直した。
「言ったはずだ」
「何をだよ」
首を傾げ、瞬く。
すると、今日は粉まみれの指ではなく額をこつんと合された。
「今は手が離せないってな」
「…恥ずかしい兄貴だな、アンタ」
でも手を離したくないのはお互い様。
サスケは言葉には出来ない想いの代わりに兄の携帯電話をきゅっと握り直した。