01 寝起きの話



 夢を見ることはあまりない。
 眠りが浅いせいなのか、それとも深く眠ってしまっているためなのか、サスケの眠りは時間の流れにぽっかりと空いた落とし穴だ。
 もしかすればそこには何かが落ちているのかもしれないが、返ることのない流れに押し流されて、覗き込むことは叶わない。
 それでも夢なんていうのは、良い夢と悪い夢があって、悪い夢を見ることの方が多いと聞くのだから、わざわざ忘却に逆らってまで拾いに行く必要はないのだ。
 きっと見るのなら悪い夢だとサスケは思う。
 ナルトやサクラは心が晴れない時には悪い夢を見るものだと教えてくれた。


 だから、きっとおれは悪い夢を見てしまう。


 僅かに体が上下する感覚に、サスケは目を覚ました。
 瞼が重い。そのうえ少し目の奥がずきずきと痛む。頭の回転も鈍い。よく眠れなかったときにあることだ。
 しばらくすれば何事もなかったかのようになると経験で知っている。
 サスケを揺り起したのは、なんのことはない、電車の揺れだった。今も、かたん、かたん、と揺れている。
 この路線はよく揺れる上に、停車の少ない快速急行だからスピードもぐんぐん上がっているのだろう。
 また、かたん、と揺すられる。
 ついうっかり眠ってしまった体は鉛のように重苦しくて、抵抗もできずにかんたんに傾く。
 けれど、それはすぐに受け止められた。
「あ…」
 はじめから頭どころか肩や腕までも隣に座る兄に寄り掛かっていたのだ。
 思わず零れたやや間の抜けたサスケの声に、イタチの目線が寄越される。
「起きたか」
「…ああ」
 慌てて離れるのも不格好で、かといって半身をいつまでもすっかり預けているわけにもいかず、寝起きでぼんやりしている振りをして、のろりと傾いた体を起こした。
「寝てた…」
「知っている」
 学校帰りに一人で暮らすイタチと落ち合い、彼の住むマンションへ向かう、今は途中だ。
 小さなころと違って、もう毎日のようにイタチには会えない。
 イタチはサスケがまだ中学にも上がらないような時分に家を出て行ってしまった。
 理由も経緯もサスケは知らない。
 ただそうなった日常だけを当たり前のように両親から渡された。けれど、それを本当にサスケに与えたのはイタチだ。
 心に広がる灰色の雲は、兄がいない寂しさなどでは決してない。
 これはきっと疎外感だ。
 イタチとサスケ。二人きりの兄弟なのに、イタチはひとりきりを選んでしまった。
 こうして週末に会えるようになってからも、サスケは疑っている。イタチを信じることはできない。
 イタチはまたひとりきりを選んでしまうのではないか。
 いや、実のところ、兄はひとりきりを選び続けているのではないだろうか。
 かたん、かたん、と電車がサスケを揺さぶる。
 サスケが夢を見なくていいと思い始めたのは、たぶん兄が出て行った頃からではなく、兄と再会してからだ。
「無理をしなくてもいい」
 少し距離を置いたイタチは、サスケに顔を向けた。
 その言葉が指し示す先が、サスケにはわからない。
 仕方なくて、当たり障りのないよう転寝をした弟を気遣う兄の言葉として誤魔化し、受け取る。
「無理なんかしてない。昨日ちょっと夜更かししただけだ」
 もうすぐ高校の中間考査がある。
 サスケ自身は以前ほど成績に強く拘っているわけではないが、うちはの名がついて回る限りは、及第点は必要だろう。
 そうして、うちはに求められる及第点は他よりも格段に高い。
 イタチの弟であれば、尚更だ。
 父は兄の後を追うことはないと言うようになったが、けれどそれは落ちこぼれてもいいということではない。
 サスケもそのように自分自身に課している。
「だったら、いいのだがな」
 膝の上に開いて読んでいた参考書は、それが落ちてしまわないように兄の手で押さえられていた。
 その手が、俯いたサスケの前をすっと横切っていく。
 イタチの隣は、いつも居心地がよくて、そうしてやっぱりいつもどこか居心地が悪い。
 サスケは参考書を捲った。内容はよく頭に入らない。
 けれど、そうすればきっとイタチはこれ以上は何も言ってこないだろうと踏んだのだ。
 その通り、イタチはもうその話は続けなかった。
 黙って向かいの窓の外の夜景に目を遣っている。
 イタチはサスケが疑っていることを分かっているに違いない。
 また電車が揺れる。停車駅はまだ来ない。


「なあ」
 暫くして、サスケは参考書を閉じた。意味がないのだ、こんなもの。
 数式なんかよりもずっと難しいものをサスケは突きつけられている。
「うん?」
「凭れかかってもいい?」
 サスケはそう問いながら、イタチの答えの前に凭れかかってしまう。
 きっと兄は突き放したりはできないだろう。サスケについてだけは、そういう人だ。
 そうしてサスケも、疑っていても、信じられなくても、イタチについてだけは離れたくないという思いを抱えている。
 離してほしくないとも、言葉にはできないけれど、思っている。
 だから、頭も肩も腕も、半身をすっかり兄に預けた。
「寝た振りをするならな」
 イタチの手がサスケの前髪を撫でる。指が瞼を擽る。
 サスケは瞳を閉じた。
「当たり前だろ。恥ずかしい」
 本当はこの心の半分を預けたいと、兄に伝わればいい。
 そうしてそんな日がいつか来れば、夢を見るのもいいだろう。サスケはそう思っている。