深夜一楽



 イタチの体は冷えていた。
 だが寒気に震えるようなそれではない。先ほど冷たいシャワーを浴びたからだろう。ただ肌が冷えている。
 任務を終えた後は大概そうだ。残務をし、それから本部に設置された簡易シャワーで汚れを洗い流す。
 暗部隊員には頗る不評のシャワー室は手狭で、蛇口を捻ってから水が温まるまで時間がかかる。安い代物だ。
 だが、イタチは重宝していた。
 誰もがそうであるように、血の臭いは家へ持ち帰りたくはない。たとえ家族、一族そのものが忍を生業としていてもだ。
 深夜のため、廊下に人の気配は全くない。ただ月明かりだけが窓から忍び入っている。
 等間隔に置かれた長椅子のひとつに浅く腰掛けた。長く居るつもりはない。
 頭に被せていたタオルでおざなりに髪を拭く。
 今夜イタチが斬って捨てたのは、つい先日までは里の同胞だった忍だ。
 所属も年齢も違ったが、顔を知らないわけでもない。その忍が一人ひそりと里を抜けた。
 信義、信条、金、名誉、家族。
 彼が何を思い、「里」を差し出し抜けたのか。
 いくら考えたところで、それはイタチの及ぶところではない。
 帰る故郷を捨ててまで彼を走らせたものは、当の彼にしかわからないことだ。
 暗部に籍を置いて九年。イタチはもう溜息も吐かない。


「ただいま」
 イタチが帰ると、サスケが上がり框に立っていた。
 扉を開ける前から気配でそこにいることは分かっていたが、こんな深夜にいったい何をしているのかと首を捻る。
 幼い頃のようにイタチの帰りを首を長くして待っていたわけでもないだろう。弟は年相応に無愛想になった。
「おかえり」
 サスケはそれだけを告げると、さっさと踵を返してしまう。
 なるほど。偶々階下へ降りて来たところにちょうど兄が帰って来た気配があり、足早に立ち去るのもどうも不自然で、仕方なしに足を止めていたというところか。
 わざわざぶっきらぼうに振る舞うサスケが少し可笑しかった。
 家へ上がり、台所を覗く。両親は既に眠っているのだろう、ほかの部屋の明かりは落とされていたが、そこだけは明るい。点けてすぐのためか、蛍光灯がちかちかと白く揺らめいていた。
 その下でサスケが鍋に水を入れている。
「夕飯がまだなら、ついでに温めるけど」
 サスケはラーメンの袋を取り出しながら言う。
「それは?」
 サスケの手にした袋麺を目線で示した。
 サスケもまたそれに視線を落とす。といってもパッケージの裏に印字された作り方をざっと読み返しているらしい。
「これはおれの夜食。アンタには、母さんが作った夕飯がある」
 イタチは少し逡巡した。母には申し訳ないが、今はサスケが手にしているものに心が惹かれる。
 決めた。
「おれもそれにしよう」
「は…?」
 サスケが瞠目する。
 その上、「これ?」とラーメンの袋をわざわざイタチに差し出すように見せて確認までする。
「なんだ。おれが食べるのはおかしいか」
「…いや、そうじゃないが、」
 と何かを続けようとしていたサスケは、途中で言葉を切った。
 代わりに隣に立った兄を不機嫌そうに見上げてくる。
「おい」
「ん?」
「なにしてんだ」
「なにって」
 もうひとつ取り出した袋麺を手にイタチは返答に困った。
 夕飯を作るのだ。見れば分かることだろう。そう思っていると、勢いよく袋麺を奪われる。
「いいよ、おれがやるから」
「しかし」
「ひとつ作るのもふたつ作るのも同じだろ。ここ、狭いし…アンタは座ってろよ」
 狭くはないだろう。とは思ったが、そうは言わないでおいた。
 イタチは大人しく引いて、食卓のいつもの場所に胡座を掻いて座す。
「悪いな、サスケ」
「べつに。湯を沸かして、入れるだけだし」
 サスケは先ほどの鍋の水をもう一回り大きいものにあけた。更に一人分の水を足す。
「…兄さん」
 ぱちぱちとコンロに火花が飛ぶ。古い型のそれだ。何度か試してようやく火がぼっと音を立てて点く。
「なんだ?」
「本当に母さんの作った飯じゃなくていいのか。その、夕飯がラーメンでいいのかよ」
 栄養とか、とサスケが言う。イタチは笑った。
「夜食を食べている奴に言われるとはな」
「うるせえ。おれは夕飯はちゃんと食べたんだ」
「まあたまには構わないだろう。おれはお前と違ってここ暫くは一食は必ず家で取れていたからな」
 どちらかと言えば最近はサスケの方がよく家を空けている。
 中忍の内でも特に秀でた才覚を持つサスケは、里外任務に抜擢されることが多く、この頃では隊のリーダーを任されることもあるらしい。
 イタチはイタチで、一度長期任務に入れば数ヶ月くらいは平気で姿を眩ませるのだが、幸いなことに今はそのような話はない。
「じゃあせめて野菜を入れておく」
 サスケがぽつりとそう言った通り、出来上がったラーメンの鍋には下の麺が見えないほどもやしとキャベツが盛られていた。
 どんと香ばしい匂いと湯気の立つ鍋が食卓に置かれる。
「ほらよ」
 と差し出された小鉢と割り箸、蓮華を見るに、どうやら直接鍋から食べろと言うことらしい。
 イタチはそれらを受け取って、向かいにサスケが座るのを待つ。
「飲むのは水でいいだろ」
「ああ、悪いな」
「…アンタはそればっかりだ」
 そうか。そうかもしれないな。
 イタチがそう思い返している内に、サスケが座して割り箸を割る。そうして鍋に手を伸ばしかけて、止めた。
「食わねえのか」
 イタチに訊ねる。イタチもまた割り箸を割った。
「いや、食べるさ、もちろん」
 先に野菜と麺、スープを小鉢に取る。
 なんとなくそうしなければ、この弟は自分も食べたいだろう夜食に手を付けないような気がしたのだ。
「うん、美味い」
 まずスープを蓮華で掬って干す。
 ラーメンのような濃い味はあまり得意ではないが、空腹であればそれは別だ。体が温まる。
 それから匂いに誘われるようにして野菜と麺も口にした。箸はどんどんと進む。すぐに小鉢は空いてしまった。
 一方サスケは黙々と麺を啜っていた。
 その淡々とした様が気に掛かり、二杯目に手を伸ばしながらイタチが訊ねると、「あぁ」とサスケはすぐに答えた。
 思い当たる節があるらしい。
「一楽のを食ってるからだろ」
「なるほど、それでか」
 イタチはあまり立ち寄らないが、その名は知っていた。木の葉で評判のラーメン店だ。
 インスタントラーメンなどとは比べるべくもない。
「よく行くのか?」
「ナルトたちと会ったときはな」
 下忍の頃は任務の終わりによく行っていたと言う。イタチは目を細めた。
「いいな、そういうの」
 それから、ああそうだ、と思いつく。サスケもようやく二杯目に手を付けたところだった。
「サスケ」
「ん」
「今度、一楽へ行こうか」
 麺を取っていたサスケの箸が止まる。面食らったように、まじまじとこちらを見つめてきた。
「…おれと?」
「ほかに誰がいるんだ。いやなら仕方ないが」
「いやじゃないけど。…アンタと歩くと目立つ…」
「それはサスケが目立っているんだろう。いろいろ噂は聞いている」
「どんな噂だよ。じゃなくて、アンタはおれと連れだって歩いていたら、なにか言われたりしないのか」
「仲が良いなとは言われるが?」
 イタチは二杯目を食べながら、いつまでも箸を止めたままのサスケに「冷めるぞ」と指摘する。
 サスケはばつが悪そうに麺を小鉢に取った。
「まあおれも要するにそういうことを言われているんだけど…」
 と、サスケはどうも歯切れが悪く、その言わんとすることがイタチにはいまいちよく分からない。
 ただあまり気乗りがしないようだということは察した。なにも無理強いをしてまで行くつもりはない。
 また別の機会に、それこそ本当に食べたくなれば一人で行けばいいだけのことだ。
 この件はこのまま流そう。イタチはそう決めて麺を啜った。
 が、
「…で?」
 サスケが小鉢に口を付けてスープを干しながら言った。
「で?」
 イタチは首を傾げる。
 結局先に三杯目を取り分けたのは、夜食を欲していたサスケだ。
「だから、いつ行くんだよ、一楽」
 おれは明後日からまた任務で四、五日は帰らない、と言う。
 イタチは少々驚いた。
「行くのか?」
「行かないのか?」
「行ってもいいが」
「それはおれの台詞だろ。で、いつ?」
 そうだなあ、とイタチは考える。
 依頼を受けて動く中忍のサスケとは違い、イタチは今この瞬間にでも緊急召集が掛かる可能性がある。それが暗部だ。
 先のことはわからない。
 であれば、サスケに合わせるのがいいだろう。そう言うと、サスケは即答した。
「じゃあ、明日」
「…明日か」
 明日は里から離れた任務に就く。長期のそれではなく、また遠距離でもない。ただ少々厄介な件だ。
 手間取れば、帰っては来れないだろう。
 そこまで考えて、ふと今夜斬った男の顔が思い浮かんだ。
 抜忍の男。
 あの男が里へ戻ることももうない。
 そも帰る理由をなくしてしまった男だ。
「無理ならべつにいいけど」
 イタチの沈黙をなんと捉えたのか、サスケが呟く。
 イタチは小鉢を置いた。そうじゃない、と言う。伝える。
「…ただ、」
「ただ、なんだよ」
「帰って来なければな、と思っただけだ」
 イタチには、やはりあの男が何を思い、里を去ったのかはわからない。
 だが、帰る理由など、実のところ、こんなものだ。
 あの男には理解しがたいだろうが、たったこれだけのことだ。
 するとサスケは訝しげに眉根を寄せた。
「アンタ、そんなにもラーメンが好きだったのか?」
 一拍の間。
 その後、思わず、
「ふふ」
 とイタチは笑った。