現代パラレル

back | next | top

  リハビリテーション 06  


 すぐではないがあまり時間の掛からないさま。一時的であること。ちょっとの間。
 【暫く】の意味だ。
「外はさみぃから、ちょっとの間だけここにいさせて欲しいんだ」
 俺が言ったその言葉を、あの人はいったいどう捉えているだろうか。
 ちょっとの間ってどれくらい?温かいって気温は何度から?春とは何月何日のことを言うのかな。
 大学入試も落ち着き始めた平日の夕方。一週間に二度くらいは俺も高校に顔を出すようになってはいたが、通学距離が億劫で今日はまだ布団の中だ。ぐうたらと一日を昼寝で過ごせば、現実の滞在時間はごく短い。夢うつつでは枕代わりにした辞書の言葉がゆらゆらと揺れている。
 そんな折のこと、
「おい、起きろ。出掛ける」
 仕事に出掛けていた筈のあの人が書庫兼俺置場の扉を唐突に開いた。
 出掛ける?
 俺は唸りながら身を起こす。冴えない頭で考えた。
 出掛ける、とはどういった意味なのだろうか。いってきます、と言っているのだろうか。だが、これまで彼は出掛けるときにいちいち断ったりはしなかった。相変わらず俺と会話をしようという気は更々ないらしい。
 だいたいアンタさっきまで出掛けていただろ。いつ帰って来たんだ。
 返答にあぐねていると彼は「十五分で下に来い」と言って本当に出掛けてしまった。
 玄関の閉まる音がする。けれど鍵をかける音はしなかった。
 出掛ける。十五分。下に来い。
 それから掛けられなかった鍵。
 きれいに繋がる。
 つまり俺もいっしょに「出掛ける」と彼は言ったのだ。
 十五分だって?
 俺は未だ体が慣れない床の寝床で伸びをする。こきり、とどこかが鳴った。
 俺、自称低血圧なんだけどな。



「今日は早いんだな」
 助手席は居心地がよくなかった。それは車が狭いだとか、彼の運転が荒々しいだとかそういうことではなく、単純に兄貴との距離が近いのだ。シートベルトはこれまで乗ったどんな車よりも俺をシートに縛り付ける。
 マルチェロは、無視をされるかと思ったが、俺の話に答えてくれた。
「必要な物を取りに帰っただけだ。これからまた行く」
「俺も一緒に?」
「お前が私の仕事にどう役に立つのかご教示願えるかね?」
「……」
 あー、はいはい、全くもってそうですよね。でももう少し言い方ってものがあるんじゃないですか、マルチェロ先生。
 顔を逸らすついでに窓の外に目を向ける。やっぱり知らない町だ。まだ駅から彼の家までの道のりしか俺には分からない。けれど彼の住む町だ。初めて訪ねたあの日のように空に広がったオレンジ色の夕暮れが胸に迫る。
「…じゃあどうして連れて来たんだよ」
 ぽそりと訊ねた。それはこの頃わざと遠ざけている核心にも似た問いだから、答えを聞きたいようで、先送りにして欲しい思いもある。独り言として聞き流してくれたってよかった。
 車が赤信号に引っかかる。減速。停車。マルチェロの運転は案外丁寧だ。こんなにも締め付けているシートベルトが今は役に立つ機会がない。
「ついでだ。先に夕飯に行く」
 マルチェロが言った。
 ああ、成る程。家にいることの少ないこの人は、いつも飯はどうしているのだろうと思っていたが、どうやら外食が中心らしい。
「お忙しいことで」
「そう言うお前は一日中ぐうたらと暇そうで何よりだ」
 信号は赤から青へ。堰き止められていた川の水のように車がまた道を流れ出す。マルチェロは途中横手の道へハンドルを切った。
「だが、明日は朝から起きていろ」
「朝から?」
「銀行にお前の口座を開きに行く」
「え…」
 言葉に詰まる。それは意外なことだった。
 そりゃ今の生活はこの人に頼っている。でも俺は確かに「ちょっとの間」と言ったし、今もその気持ちに変わりはない。
 いつまでもここにはいられない。出て行くべきだ。俺だってガキではないので、家を追われた妾腹のこの人がその後どんな目に遭ったのか、どんな誹りを受けたのか、大体の想像はつく。善人聖者のように何もかも俺のせいだと背負い込む気は更々ないが、俺が疎まれるのは仕方がないとちゃんと分かっている。だと言うのに、
「口座って…」
「金を振り込んでおく。必要分だけそこから引き出して使うといい」
「…そんなの要らねえよ。俺はそんな風にアンタの世話になりたいわけじゃない」
 金が欲しいわけじゃないんだ。
 ただ外はさみぃから、ちょっとの間だけここにいさせて欲しいんだ。それだけなんだ。
 そう俺はアンタに言っただろ。聞いてくれてなかったのかよ。
「今までみたいでいい」
 子どもの小遣いのようで構わないから、テーブルに置いといてくれたらいい。
 けれどマルチェロはだめだと断言する。
「ちびちびとせびられるのは面倒だ」
 本当のことだから胸が痛い。でも本当のことだからこそ胸が痛む理由が分からない。
「せびってねーだろ」
「では、いらないのか」
「…いるけどさ」
 兎に角、口座は開く。金も振り込む。あとはお前の好きにしろ。そういうことになった。
 腹の虫は治まらないけれど、主導権はあちらにあるとも重々承知しているので、結局俺に出来ることと言えば、皮肉げに鼻を鳴らす、それくらいだ。
「手切れ金かよ」
 だがマルチェロはびくともしなかった。
「金で済ませられることなら、とっくにそうしている」



 降りろ、というのは彼自身が車を降り、ドアを閉めたことで分かった。俺もまた無駄口を叩かず車を降りる。わざわざこれ以上険悪になる必要もない。
 駐車場からは少し歩いた。
 家からそう遠いわけではないはずだが、俺の知らない奥まった路地をマルチェロは慣れたように先に行く。そうして背を追って辿り着いたのは、まさに路地裏の小料理屋だった。民家の一階に暖簾がかかるような、ごくこじんまりとした店だ。
 その暖簾を古い引き戸を開きながら潜る。店の古い柱時計は十八時半過ぎを差していた。
 マルチェロは馴染みらしい主人と一言二言を交わすとカウンター席に腰を下ろした。端から二つ目の席。一番端の椅子はたぶん俺のために空けられている。
 なんだ。気が抜ける。なんだ、それほど険悪でもなかったんだな、俺たち。
 店は見かけの通り狭かった。座るとマルチェロと肩が触れほどに近い。車のさっきよりも、もっと近い。並ぶと俺より一回りは大きい体格とこの上品な料理屋に相応しい雰囲気のせいで、彼は大人の男なのだと見せつけられる。
 主人が出してくれた熱いお茶を一口含むと漸くほっとした。
「先生が若い人を連れて来るなんてめずらしい」
 主人はマルチェロにもお茶を出しながら親しげにそう言った。その言葉から、若い人以外とはよく、若い人とも時々はここに来ているらしいことが知れる。いったいだれと?なんてことを考えていると、主人の顔が不意にこちらを向いた。
「先生の教え子さん?」
 ひくり、と心臓が跳ねた。俺としたことが、言葉に窮す。すぐに返答することができない。
 教え子。そう思われるのが妥当なのだろう。目の色も髪の色も違う。顔や背格好は全く似ていない。それなりに長い付き合いがあるらしい主人ならマルチェロに家族がいないことも、マルチェロが何も言わずとも、察しているかもしれない。
 腹違いの弟がつい最近になって転がり込んで来た、だなんて思いもよらないことだろう。ついでに教え子にもなり損ねた。
 ちらりと隣を伺えば、マルチェロは口を挟む気はないらしい。
「えー…」
 俺とこの人の関係、ね。
 ここは茶化してやりすごそうと決めた。これまでだって、それでうまくやってきた。
 主人に向き直る。にっこり微笑。
「援交?」
 そう言った瞬間、後頭部を思いきり殴られた。マルチェロだ。思わず「なにすんだ」と大きな声が出る。
「いってぇな。これほど的確な表現は他にないだろっ」
 じんじんする頭をおさえながら見遣ると、当のマルチェロはたった今、人の後頭部に平手打ちをしたとは思えない涼しい顔をしていた。
「援助はしてやっている、だが、交際をした覚えはない」
「じゃ、交際する?俺、そういうのは得意…」
 と言いかけている内に今度は容赦なく足を踏まれる。痛い。
 だがマルチェロは俺が苦悶していることは気にも留めず、
「弟ですよ」
 と、ひどくかんたんに言った。さらりと、この人は言ってしまった。俺のことを弟と。
「最近引き取りましてね」
 なんだ、と今度こそ思った。
 拍子抜けもいいところだ。
 弟。そう言ってもよかったのか。こんなにかんたんに言ってしまってもよかったのか。
 これじゃあ俺が殴られ損、踏まれ損だ。
 でも、弟、マルチェロから出た言葉を心中繰り返すたびにどうしてか胸がぐっぐっと強く締め付けられる。
 どうしようと思った。どうしよう。こんな気持ちでいるのは慣れない。辛い。動揺してしまう。
「なんだ」
 マルチェロは俺がじっと見つめていることに気が付いたのだろう。俺もマルチェロの問いかけで彼を見ていたことに気が付く。
 咎められたわけではないことは分かったが、こんな余裕のない自分が居た堪れなくて目を逸らす。
「べつに」
 それからは黙って出された飯を食べた。
 隣のマルチェロは主人と世間話のようなやり取りをしている。饒舌というわけではなかったが、この人は人に対して無口なわけでもないらしい。
 俺とはあまり喋らないのは、俺が彼と喋ろうとしていないからか。
 なあ兄貴。もしもさ、俺が十喋れば、アンタは一や二くらいは返してくれる?
 そんなことを俺は柄にもなく彼に期待し始めている。けれど、どうせ落胆することになるのさと口を挟むことができない。
 漸くマルチェロをちらりと見られたのは、彼が「ククール」と呼んだからだ。
 マルチェロはもう飯を食い終わっていた。あげく財布から紙幣を抜きながら腰を上げている。
「あ…」
 俺はまだ半分くらい茶碗に残して箸を置いた。待って、とはまだ言えない。
 だがマルチェロは腰を浮かせかけた俺の手にその紙幣を握らせた。「残すな」と、弟を引き取った兄らしいことを口にする。
「アンタは?」
 俺はもう一度席につきながら、兄を見上げた。
「もう行く」
 明日の朝は銀行へ行く。その分の仕事を今夜に回してくれたのだろうか。俺のために。
 俺は手の中の紙幣をくしゃりと握った。そうして主人と一言二言交わした彼の手が引き戸に掛かる前に、「待って」ではなく、
「これっ」
 と言って引き止めた。
「これ、多い」
 二人分の夕食代にしては額が多い。
 するとマルチェロは肩を竦めて見せた。
「電車賃と夕食代、それから今日の小遣いだ」
「でも、銀行」
「さっきお前が言ったのだろう、今までみたいがいいと」
 紙幣は俺の手の中でもっとくしゃくしゃになった。
 一人で帰れるなと問われ、素直にうんと頷く。マルチェロはそれをきりに、店を出て行った。
 置いた箸を取り上げる。でもすぐには、この旨い主人の料理が喉を通りそうにない。
「……」
 ちくしょう。
 こんなにもかんたんに、ころりと転がされるなんて、遊びなれたククールくんの名が廃るってもんだ。

back | next | top