ことばたらず
「確かにお前の云うとおり、俺にはあともう一言が足りぬのかもしれぬ。
だがサガよ、聴いてくれ。
俺がそのあともう一言を補おうとして呟く一言がきっと拙く、
それに気付いて慌てて付け足す二言がたぶん余計で、
その一言二言がお前の内でどう響くが怖ろしく、
それ故どうしても云えず、云えず、嗚呼、あともう一言が喉につっかえて苦しいのだ」
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キスはもういらない
息苦しさに眼を覚ました。キスをされていた。鼻を摘まれていた。
これでは呼吸が出来ないと思い、いやに真剣にキスをしてくる相手を振り払った。
とっさに喉を押さえたのは一気に入った酸素のために僅かに痛みを感じたからだ。
同じ顔をした者は笑った。悪戯だと云う。
相手を振り払ってでも生きるか、キスをしたままされたまま死ぬか、お前はそう問うていたのではないか。
そう問わなかったのはまだ痛む喉のせいだ。
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きみだけ、ぼくだけ
「おれたちは、ほかの命を食らって生きている。
おれたちは、それが必要最低限であるならば、それを正しいとして生きている。
だがたとえばこの魚からすれば、ほかの命のために、己が命を取り上げられているということになる。
それは理不尽なことだ。
低脳であればあるほど、生物は生きることを正しいとするのだから、ひどく理不尽なことだろう。
サガよ、正しいとはそういうものだ。サガよ、きっとお前は正しい。だが俺もきっと正しい。
お前だけが正しいというは、これまでも、これからも一度たりとはないのだ」
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おくれをおくれ
たとえば、高いところに求めるものがあったとして、ひとりの背丈では届きはしないから、
背伸びをいくらしたって限界というものが人にはあるのだから、
「手伝っておくれ」
と、そんなかんたんな言葉を言ってくれたなら、負ぶったって、肩車をしたって、良かったんだ。
そうすることで、俺は見えはしないお前の海の底から少しだけ浮かぶことが出来る。
たとえば、遠いところに欲しいものがあったとして、
ひとりではここを離れるわけにはいかないというのなら、
走りに走ったとしても限界というものが誰にだってあるのだから、
「手伝っておくれ」
と、そんなやさしい言葉を掛けてくれたなら、
代わりに駆け出して、代わりにとってきてやったって、良かったんだ。
そうすることで、俺は見せはしないお前の闇の底を少しだけ覗ける
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そうして、しずめた
あのころ、たくさんのできることの中で、きっと唯一だったのだろう、
泳ぎがより優れていたカノンとともに夜の海に潜ったことがあった。
最初は浜辺をふたりで歩み、
やがて裸足になって駆け出してしまったカノンを追いかけて波打ち際に踏み込み、
それから引く波に背を押され、寄せる波に何度となく戻ることを思いつきながらも、
ついには足のつかないところまで来てしまっていた。
潜ることを恐れたのは、たぶん、海が暗かったからではない。何も見えなかったからでもない。
とうとうたどり着いてしまった海の底で見つけてしまうものがあったからだ。
十四のころ、三日に一度は見つけてしまうそれそいつを、
私はいつの間にか沈んでしまっていたカノンであると思い込もうとしていた。
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かくしごと
いつまでも隠し通せるわけがないのだと、互いの目に映るカノンとサガを見合いながら、
いつまでも隠し通そうと、自分の目に映るサガとカノンを瞬くことで閉じ込める。
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奪われてなるものかと奪った人が言う
自らの左手の小指の爪を切ったなら、やはりカノンの左手の小指の爪を切ろうとする。
同じ形、同じ薄さ、同じ、同じ、同じ、爪。
「もしもお前がこの聖域でだれかに見つかったとしても、私であると見間違われなければならない」
奪われてなるものか、とサガは言う。
なにをお前は奪われたくないのか、とカノンは言えない。
だれにお前は奪われたくないのか、とカノンはもっと言えない。
代わりに「なにもかもがお前のものじゃあないんだ」と手を振り払う、立ち去ることまでは出来ないくせに。
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力こそ正義の瀬戸際で
内側からは解くことの出来ない鍵がかけられた扉を、
ある日振り上げた拳で叩き、力いっぱい蹴り飛ばしたなら、
扉を破るまでは、開けるまでは叶わなかったが、鍵が緩んでカタカタと鳴り出した。
振り上げた拳がもし震えていなければ、本当は力いっぱいで蹴り飛ばしていなかったとしたら、
今度はこの鍵がガタガタと鳴り出すのではないかと、
そんなことを先程よりは震えの収まった拳を胸に抱いて考える。
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三人の変革者
行き詰っているのではないか、とカノンが言った。
「三人で幸せになれないのは、ひとりの幸せがふたりを不幸にするからだ。
三人で幸せになれないのは、ふたりの不幸がひとりを不幸にするからだ。
三人で幸せになれないのは、そもそも三人で幸せになれる世界ではないからだ」
そうだ行き詰っているのだよ、とサガは言った。
「三人であることを変えるか、世界を変えるか、我らは選択を迫られている」
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お前の手は哀れ
ふっと吐いた息のあと、ふ、は、は、は、とさも可笑しげにカノンは笑った。
「全知全能のお前にも出来ぬことがあると知れ」
額に手をあて、あ、は、は、は、と笑う。
「全知のお前にも守れぬものがあると知れ。全能のお前にも変えられぬ心があると知れ」
それからぴたりと笑いは止んで、カノンの目がサガの手を映す。
「お前の手は哀れ、神も、俺も、殴ることが出来ない」
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