個と私が薄まっていく世界で
「私もお前が好きだよ。だがお前ようにお前だけをもう好きではいられないのだ」
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あいしてさえいたのだ
私はお前も大切に想っていたから、その腕には抱けないほどのたくさんのものを与えてやりたかった。
それはたとえば素直さだとか勇気だとかやさしさだとか愛だとか、
そういうものをたくさんたくさん与えてやりたかった。
素直さとはこういうものだよ、勇気とはこんな形をしているのだよ。
やさしさはこのようにして人に分け与え、
愛はきっとだれかに与えたときにこそはじめてだれかに与えられていたことに気づくもの。
なのに、
「いなくしてしまおう」
お前の中にはきっとその心のままに生きる素直さも、
一人でも叫ぶ勇気も、だれかを思いやるやさしさも、生まれていたのに、
「いなくしてしまおう」
愛さえ育まれていたのに、
「いなくしてしまおう、サガ」
どうしてだれも望まないかたちで結ばれてしまったのか。
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力こそ正義の瀬戸際で 2
「このような俺だって思う。
世界が、神だとか、愛だとか、正義だとか、そんなものを見せて翳して説けば救われるならばご機嫌だ。
だがそうではなかった。
そうではなかったからこその聖闘士ではなかったのか。そうではなかったからこその、力なのではないか。
時々俺は思うのだ。
俺はきっとお前よりも正しく聖闘士の本質を知っている。
そうしてお前は聖闘士の本質に気づき始めている。
力尽くの正義を遠ざけようとしながらも、
その最も際にいるのが俺たちなのだとお前は踏み外しそうになってから漸く気づいた」
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たらずことば
「お前の気持ちも分かるけれどもね」
人間の姿を借りたまだ赤ん坊の神を信じることが出来ないというお前の気持ちも分かるけれどもね。
聖闘士として選ばれたのだから人間の姿を借りたまだ赤ん坊である女神であっても奉じたいという
お前の気持ちも分かるけれどもね。
「お前の気持ちはとても、本当は、とてもよく、分かっているんだ」
「分かるのは、お前の気持ちを実は、本当は、少しくらいは持っているからなんだ」
「けれどもね」
「けれどもね」
そういう言葉を言い惜しんだがための十三年。
ひとりぼっちの十三年。
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力こそ正義の瀬戸際で 3
「アテナを殺せだと」と振り上げた拳で頬を打って以来、牢に体を押し入れて以来、
あれだけ、どれだけ、言葉を尽くしてもどうにもならなかった弟がどうにかなったのだと、
この拳で、この手のひらで、この力で、どうにかできるものがあるのだと、
そういうことを私は考えている。
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おなじかたちのちがうひと
「引き裂きあった果てに漸く辿り着いたお前と俺の在り方は、それでも違う形をしてしまうのだな」
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そういう背中合わせ
「もう二度とあんなにもだれかを憎むことはないのだろう」
うつくしくとも、やさしくなくとも、あれは紛れもなく、あのときの出来うる限りを傾けたほんとうの心だった。
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相互認識についてのある見解
「私の言うことを聞かせたかった」
取調室Aでサガが項垂れている。
「俺の言うことを聞いて欲しかった」
取調室Bでカノンは悲嘆に暮れている。
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愛を
「お前を愛してやりたいし、お前を愛してやりたかったのだよ」などと、
サガが俺の頬をその手で包んで哀しむのだ。
けれどもサガのその気持ちは、その手に俺の髪がうねって溢れてこぼれてしまうように、
ぐるぐるとうねって、あるときを境に溢れて、結局はこぼれてしまうものなのだ。
俺が手を添えれば少しは永く在れるのか。
そういう考えがぐるぐる俺の中を廻りだしたとき、
はじめて「お前を愛してやりたいし、お前を愛してやりたかったのだよ」というサガが、
俺を愛してくれていたのだと気付いたのだ。
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人の上に立つということ
ついに上り詰め様としていた階段の、その途中で、サガは項垂れて顔を覆っていたのだ。
救えるのと救えないのと、切り上げるのと切り捨てるのと、
もしも選べるのなら、もしも選んでいいのなら、救えるのがいいだろう、切り上げるのが欲しいだろう。
「だがそれが人の上に立つということだ」
と、おれがもうサガも遠くなった下のほうから叫んでいる。
「それが黄金十二星座を司るということだ」
と、おれがもうサガも見えなくなったところから声を枯らしている。
サガは未だ階段の途中で立ち尽くしている。
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