Gemini Log




それでもいつか凍てついて


 
 扉と壁の隙間から細く光。徐々に膨らむそれを見て、扉が開くのだと闇に取り残された者は思う。

 一度瞬けば、その空間には光が満ち、眩しくてもう一度瞬けば、もうそこはまた闇。

 床はよく知った木張りの床。頬に感じるそれは冷たい。

 不意に辺りが橙に照らされて、ランプに火が入れられたことを知る。

 「サガ」

 声が降ってきた。それが底冷えするように感じるのは、サガが床に転がされているからだろうか。

 衣擦れの音がして床に頬を預けたサガの眼前にランプが置かれる。

 手足が痺れるように痛い。そこで初めてサガは己の手足が縄で縛られていることに気付いた。

 手首は背の後ろで、足首は立てないほどに。

 否、サガの力を持ってすればこんなもの。そうはいかなかったのは、今まで眠っていたから。

 眠っていたというよりは、意識を失っていた。

 「何故」
 
 何故私は気をやっていた?何故私は縄で縛られている?

 「カノン」

 オレンジに揺れる灯を見て呟く、その向こうにいる者の名を。

 身を捩って彼を見上げれば彼はいつもサガが纏う衣を身に付けていた。愕然とした。

 「お前が外に?」

 呻くように問うと、「今日はいい天気だったよ、兄さん」、カノンはサガの耳に口を寄せて囁く。

 「何故」

 何故お前が外に行く?何故お前が私の衣を纏っている?

 カノンは口許に笑みを浮かべた。

 「兄さんがおねんねしていたからさ」

 「お前が私を気絶させたのであろう」

 サガは縄を解くことも忘れ、目の前のカノンに噛み付くようにして云う。

 だがカノンは嘲笑った。

 「どうせサガでも俺でも何も変わらんさ」

 外に出たのがサガでなくカノンでも、今日という日は何ひとつ変わらなかった。

 「お前でなくてもいいのさ」

 カノンは吐き捨てて傍にあったベットに腰掛ける。

 そして屈辱的なことにサガはカノンの足によってベッドの方に向かされた。

 「ほら」

 サガの前に差し出されたのはカノンの素足。これは何かと問えば舐めろと云う。

 「今日は俺がサガで、お前がカノンだろう?」

 だから舐めろとカノンは足の指を蠢かす。

 「俺がいつもしてやってるようにしろよ」

 いつものように足を舐めてその指の一本一本までしゃぶれよ。

 「俺はサガの足が大好きなんだ」

 無理矢理口に指をねじ込まれ、サガはそろりと口内を嬲るそれに舌を絡めた。

 サガの舌にカノンの体が時折痙攣するように跳ねて、

 カノンの足の指はサガの唾液でぬるりと光り、床には指に絡みきれなかったそれが落ちている。

 が、唐突に、声を殺していたカノンがサガを蹴り飛ばした。

 「カノン?」

 衝撃で口内を切ったのか、血の味混じりにサガはカノンを見上げる。

 カノンは泣いていた。

 「カノン、これを解け」

 己の力でも解けるが、サガは敢えてそう云った。

 「お前はいったい何が嬉しい?」

 「カノン、解け」

 「あんないかれた処で」

 「カノン」

 「お前までいかれるつもりか」

 もうこんなにも壊れているくせに、まだいかれるつもり?

 俺がお前を殴ってまで眠らせて、無駄と知りつつも縛ったその理由も知らないくせに。

 もうひとりのお前をこれ以上のさばらせてはいけないのに、もうお前にはもうひとりのお前を御せない。

 「カノン」

 はらはらと流れるそれをサガは茫然と眺めた。しばし迷って足首の縄を解く。

 「カノン」

 立ち上がり、カノンの体に身を寄せる。手は使えない。カノンの涙を拭う権利もない。

 それでもカノンの濡れた睫毛をくちびるで吸った。

 「明日は私が行く」

 だからこの縄を解け。

 カノンは動かない。涙まで停止して。

 身を寄せたらカノンの体はなんと冷たいことだろう。

 「外は寒かったのだな」

 熱を分け与えようにも抱くことが出来ない。背に回された手がもどかしい。

 頬に、顎に、喉に、鎖骨に、手に、せめてと吐息を吹きかけて誤魔化すような慰めを。

 縛られた手のせいで抱きしめられずに、ふたりの間に隙間風。

 それでいい。カノンは思う。絶え間なく与えられなくていい。抱かれて熱で埋め尽くされなくていい。

 寒かったと呟くカノンはそれでもサガの縄を解けない。

 俺を温めようとするその熱は、明日のお前が凍えて死なないようにとっておけ。




単独犯で林檎を喰った


 この世で最も神を憎んでいる。そしてこの世で最も神に祈っている。

 サガ、お前の上に少しでも幸いがあるようにと。

 俺はいらない。もしも俺にも幸いというものがあるならば、お前にくれてやるよ、サガ。

 ふたりに与えられた神の祝福を寄せ集めても、きっと砂の粒のようなものだろうがな。

 だから、いつからか俺は神を忘れた。神よりも自身の力を信じた。

 俺たちには神に匹敵する力がある。なのにお前はまだ神に膝を折るというのか。

 屈辱的だろう?不快だろう?

 そんな嘘の微笑みを身に付けて。

 誰ひとりお前の嘘を見抜けない。誰もが嘘のお前をお前と信じている。

 お前の嘘が嫌い。でも俺だけが俺だけがお前の嘘を嘘と知っている。

 それがどれだけ、どれだけ俺に喜びを与えているか知っている?

 寧ろそれは悦びに近くて、快楽の等しいくらいの悦びで、お前の嘘には吐き気がするが、

 嘘吐きのお前にはぞくぞくするね。

 お前が嘘を吐くたびに甘い痺れが俺の理性を奪ってゆく。嗚呼、なんて気持ちいい。

 お前がどっぷり嘘に溺れて、お前がゆっくり壊れゆく様を、

 無様だなと突き放す俺とお前を救いたいと手を伸ばす俺と溺死してしまえと笑う俺と、

 一緒に沈みたいと願う俺がいる。

 そら、俺も狂いはじめた。ほら、もうばらばら。

 引きちぎられたお前はまだ楽だろうよ。俺は皮一枚で繋がれて、狂いきれない、壊れきれない。

 切れ味の悪いナイフで切り刻まれている様さ、血はゆるゆるじくじく垂れ流し。

 そのナイフを握っているのがお前なのだから、これ以上笑えることはない。

 狂ったように笑って笑って笑って、急に静かに泣けてくる。

 泣けるのはまだ俺がばらばらにされても生きているから。

 俺の息の根を止めないのはお前のたったひとつの優しさだったのだろうか。

 なあ、サガ。何にせよ俺はもうばらばらで、お前に手を伸ばすことも出来ない。

 こんなことを呻くようにして呟くのは俺の傲慢なのかもしれないが、助けてやれなくてごめん。

 ごめんな。

 だからせめてお前の祈った神に祈るよ。

 もしもお前が俺のために祈ってくれていたというのなら、その祝福はお前に返す。

 そして新たに祈ろう。神よ、彼の者に深い恵みを与えたまえ。

 そのためなら俺があなたの楽園から追放されても構わないのです。




この体をその血で満たしたなら



 時々俺はお前を殺したくなるよ。サガ、お前を殺したくなる。

 床に四肢を投げ出したお前を見かけて、俺が何を思うか知っている?

 見下ろして、お前と眼が合って、眼を逸らせずに、かと云って微笑めず、刺すように見つめ合う。

 サガの足の間に跪いて、体を合わせてみる。

 「ぴったりだ」

 サガの肩に顔を埋めて囁く。

 重なり合えることは嬉しい。けれどこれが俺たちの悲劇で喜劇。

 サガが髪を梳いてくる。サガの投げ出された手に手を重ねる。

 そこに力を入れて上半身を起こした。また眼が合う。

 俺がサガの視線を痛いと思うように、サガも俺の眼に映るのは苦しい?

 視線をサガに刺したまま、サガの右手首の青い血管には俺の左親指を、

 サガの左手首の青い血管には俺の右親指を添えて、

 サガは俺の望みがわかったのか酷く可笑しそうにうっすらと微笑んだ。だから悲劇。

 そうしてサガの指が俺の首筋を這って、頸動脈をなぞられる。だから喜劇。

 俺が指に力を入れれば、サガもまた指に力を入れる。苦しい。痛い。けれどたまらなく興奮する。嬉しい。

 もっと締めて欲しくて、サガを更に締め付ける。

 嗚呼、俺はね、俺はね、サガ。時々お前を殺したくなる。

 お前を殺して、お前に殺されて、そうすれば少しは満たされるだろうか?




ディナーオペレイション

 
 私は餓えに飢えているのだとサガが訴えたなら、

 その頃にはもう猜疑心も強くなったカノンはどれくらい飢えているのかと問い返した。

 この飢えをどのように伝えれば良いのかとサガは云う。

 サガは確かに飢餓に苦しんでいるようであった。

 否、最早苦しむ力も残っていないのか、無表情に訴えるばかり。

 けれど疑い深いカノンはサガの血糖値を計ることにした。採血して計ったなら、なんと糖分の低いこと!

 だがカノンはサガを信じきれない。サガは平気で嘘を吐く。

 飢餓だ!究極の飢餓だ!

 サガは異様なまでに蒼白く光る眼でカノンを見つめる。

 嗚呼、取り乱し半狂乱の振りをしてこの身を喰い殺してくれるほうがどれだけ良いか。

 こうして疑心暗鬼にサガを疑うよりは、その餌食になりたいとカノンは思う。

 だが決して自らは云えぬのだ、俺をお食べよ、兄さん。

 だが決して彼からも云わないのだ、お前の血肉を貪りたい。

 そうしている間にもサガの血糖値は下がるばかり。よしとカノンは決断した。

 胃を切り開こう、さすればその飢餓の真偽が解るだろう。

 赤いランプが点灯し、無菌の手術室には麻酔を打たれ眠るサガとメスを握るカノンのみ。

 サガの心臓音を変換した電子音をバックミュージックに、手術を開始する。

 じゅくじゅくと胃を切り開いたなら、カノンは嗚呼と嘆いた。

 飢餓だ!究極の飢餓だ!

 サガの胃には何もない。彼は真実を告げていたのだ。

 何か、何かこの空っぽになってしまった胃に詰めなければ!サガが死んでしまう。

 手術室を見回しても何もなく、カノンは今さっきサガの胃を切り開いたメスを己の左手首に宛った。

 ひと思いに切り落としたそれは、サガの胃にぐちょりと落下し、

 嬉しげに収縮した内壁がみるみる内に新鮮な肉を吸収していく。

 最後の指の一本まで溶かされてゆくのを見送って、それでも足りぬとカノンは繰り返す。

 ああ足りぬ、まだ足りぬ。サガが腹が減ったと訴える、ずっと飢餓だと訴える。

 カノンの左手首の切断面から壊れた消火栓のように血が噴き出した。

 止血することも忘れ、そうだ、この血もくれてやろう!

 それどころか、メスを口に咥え、頼りなくも確かにずっずっと右手首をもくれてやろう!

 生皮を裂いて、肉をきざみ、骨を擦り砕いて、

 ぷらぷらと垂れ下がった手首をサガの胃壁に擦りつけてまた落とす。

 さあ喰ってくれ!この身で良いならいくらでも!

 何よりも耐え難いことは、サガが餓死してゆく様を見送ることなのだから。

 カノンは喜んでこの身を捧げようと思った。

 だがカノンははたと気付く。

 切開したサガの胃を誰が縫合するのだろうか?

 サガの胃にカノンの血とは異なる彼自身の血がじわじわと沸き上がる様子を茫然と眺める。

 彼の胃は既にカノンの血に満たされ、ぷかぷかと生肉が浮かんだスープ状。

 ついに出血多量でカノンは手術台に背を預けて座り込んだ。

 サガの血が後から後から沸き出るものだから、スープ皿からトマトスープが溢れ出す。

 ぽたりぽたりとそれが床とカノンを染色してゆき、そうだ、血糖値を計らねばとカノンは思った。

 サガの餓えが解消されたのかどうかが重要なのだ。

 そうしたなら、ああ良かった、彼の腹は充分に満たされたと

 カノンは手術台より垂れ下がったサガの手に頬を寄せ微笑んだ。

 バックミュージック協奏曲が今ひそかやに停止する。




ダイブ・ミー・トゥ・深海


 「僕を海まで連れてって」

 ダイブ・ミー・トゥ・深海。

 僕の愛した碧い海を越えて、僕の恋する蒼い深海まで連れてって。

 光届かぬ闇の海。奇妙な原始生物にまみれたい。そうして君と原始に還る。

 「僕を海まで連れてって」

 深く潜って二度と浮き上がらなくていい。君の脚を掴んで二度と浮き上がらなくていい。




暗いトンネルを抜けれずに


 喰って頂戴、喰って頂戴。心臓も胃も脳みそも、俺の記憶ごと貪り尽くして頂戴よ。

 啜って頂戴、啜って頂戴。血も精液も涙までも、俺を生かして泣かした体液で喉を潤して頂戴よ。

 愛して頂戴、殺して頂戴。愛せぬなら殺して頂戴。殺せぬなら愛して頂戴。

 捨てて頂戴、刺して頂戴。

 抱きしめるふりして腹に包丁を突き立てて、痛いと悲鳴をあげるより、きっと嬉しくて笑うから。

 抱きしめて頂戴、突き放して頂戴。

 お前がしたいようにしていいよ、俺にはもう救う力も縋る気力も残ってないから。

 そうして肉屋に連行して頂戴、哀れな俺の肉片を陳列して頂戴。

 お前は笑顔で俺を売りさばくだろうよ、なんて哀しい。でもその笑顔が嫌い。

 売るくらいなら喰って頂戴、お前の一部にして頂戴。

 そしたら俺は楽になれる、もう疲れたよ。

 決別だけは辛すぎて最終手段にとっておく、別れる前に喰って頂戴。

 でも結局何もかもを選べないお前を許してるよ。俺を許さないお前を許してるよ、許してるから。




哀しみ循環



 キッチンから包丁を持ち出して、一度サガに突き付けてみた。そして云うんだ。

 「サガ、お前さえいなければ良かったのに」

 けれどサガは眉ひとつ動かさない。ただ俺を冷視するばかり。

 からりと包丁が床に落ちる。

 嘘。嘘。

 「嘘」

 嘘だ。嘘だよ。ごめん、ごめんな、サガ。

 するとサガが俺を抱きしめる。

 抱き合うなんてバカな行為に他ならない。哀しみがふたりの間に閉じ込められてしまうから。

 もしも俺たちふたり離れたら、この哀しみは解放されるのだろうか。




殺された僕


 俺はサガに手を伸ばす。サガの服にでもなんでもいい。

 そこを掴んで握って取り縋って、疎まれてでもいいから、サガと共に生きたかった。




殺した僕


 あの人は何処へでも走ってゆける、そんな人でした。

 あの人はいつだって独りで立っていられる、そんな人でした。

 走れなかった、立っていられなかったわたしを見捨てず最期まで一緒にいてくれた、

 そんな人でもありました。




最後の祈り


 あの人が最期に呼吸したその大気がきれいなものであったらいいなと、

 そんなことを思います。





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