Gemini Log




夕方寝


 カノンがこの世の平和を凝縮したような顔で眠っているのでサガは苦笑するしかなかった。

 「晩飯が冷えても文句を云うなよ」

 出来上がったばかりの夕食に蓋をする。




無口のその心


 元々私に対しては無口のカノンが、最近輪をかけたように無口になってきた。

 体調が悪いのか、機嫌が悪いのか、私のことが嫌いなのか、そのどれかだろうとは思う。

 今日明日中にでも入院せねばならんほどの体調不良ならばこちらから声を掛けてやらねばとは思うが、

 日々の生活はきちんと行っているところを見ると、放って置いても大丈夫だろう。

 同居人の愛想が悪いというのはあまり好ましいものではないが、カノンは身内だ。

 気にしても仕方あるまい。

 そういうわけで私は無口で愛想の悪いカノンのことは気にせず休日の昼下がり、

 カウチで新聞を読んでいた。

 だが社会面に差し掛かったところでカノンがやって来た。

 何か用かと顔を上げたが、それは無視して彼はクッションに座り、テレビのリモコンに手を伸ばす。

 テレビが見たかっただけかと私も新聞に目を戻した。

 聴こえてくるテレビの音。

 だがそれは統一されたものではなく、すぐに画面が切り替わっているらしい。

 「今日は面白い番組がないのだな」

 と私は新聞を置き、云ってみた。

 しかしカノンは「ああ」と答えるだけ。

 まあこんなものだろう、今日の交流は十分果たした。私は再び新聞を手にする。

 カノンは相変わらず画面切り替えに忙しい。

 その切り替えが三分間にも及ぼうかとした時だった。

 「…サガ」

 珍しくカノンが私に対して声を掛けてきた。

 「何か取って欲しいのか?」

 私はカウチの上を見回す。テレビのガイドブックでも置いているのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 それはカノン自身が裏付けた。

 「違う」

 「?」

 私はカノンの次の言葉を待った。

 しかし彼はテレビを見たまま、口を閉ざすばかり。

 テレビにはカノンがあまり好まない番組が映し出されている。

 やがてCMが流れ始めたとき、カノンは二言目にして単刀直入に用件を云った。

 「この間はすまなかった。あの件は俺が悪かったと思う」

 はあ?と私は思わず聞き返しそうになったが、それはどうにか留めた。

 それにしてもこの間?あの件?

 「……」

 私が黙って考えていると、それをどう受け取ったのか、カノンはやや慌てたように振り返り、次を口にする。

 「反省している」

 謝罪されても反省されても、いったい何に対してのことなのか、さっぱり分からん。

 「カノン」

 私は新聞を置いて呼びかけた。

 だがカノンは遮るように、

 「許してくれるか?」

 すぐにそのような言葉が出てくるところがいかにもカノンらしい。

 私は少し笑って、

 「許すも何も、私はお前の何を許せば良いのか分からぬ」

 お前は私に何かしたのか?と問うた。

 するとカノンは口篭り、それから僅かに視線を下に逸らして云った。

 「この間些細なことで言い争ったときに、俺はお前の気に障ることを云ってしまった…と思うのだが」

 確かに言い争いをしたことは覚えている。しかし、

 「私の気に障るような言葉?」

 それがどのようなものかまで覚えてはおらぬし、

 もしかしたら気にするような内容ではなかったのかもしれない。

 するとカノンも少し唸った。

 「実は俺もどの言葉がお前の気に障ったのかは分からないのだ」

 「…いい加減だな」

 「しかし、あの日からお前があまり喋らなくなったから、

 何かお前の気に障るようなことを云ったのではないかと…」

 「喋らなくなったと云われてもな…」

 少々呆れてしまう

 「それは私が話し掛けてもお前が喋らないからだろう?私一人が喋り続けていてはおかしいではないか」

 「それは…そうだが」

 カノンは云いながら、今までしおらしかった態度を僅かに変える。

 「だが今までは俺があまり喋らずとも、お前は話し掛けてきてくれたではないか。

 それが急になくなればおかしいとは思うのが当然だろう!」

 待て、カノン。私にはお前の怒りどころがよく分からぬ。

 私はとりあえず子供にするようにカノンの目線に目線を合わすため、カウチを降りた。床に座る。

 「カノン、お前は何かを誤解している」

 「誤解?」

 問われて頷いた。

 「そう、まずは私はお前に対して怒ってなどおらぬ。

 先日の諍いのこともお前が言い出す今の今まで忘れていた」

 「…では俺だけがこの数日間そのことを気にしていたのか?なんだか不愉快だ」

 「その不愉快さまでは私も責任は持てぬよ」

 私は笑った。そしてカノンの髪を梳く。

 「ただお前に私が怒っているかのような印象を与えてしまったことは謝ろう。

 しかしカノン、お前だって悪いのだぞ。

 私がいくら話しかけても返事は一言、これでは話し掛ける気も失せるというものだ」

 「む…そうなのか」

 「そうだとも」

 するとカノンは「すまなかった」と漸く本当の謝罪をした。

 けれど「ただ」と付け足す。

 「俺はお前の話を聴きたくなかったわけではない」

 寧ろその逆なのだと云うその唇にキスをしてやろう。




レシピ



 もう一時間もカノンがシンクに凭れ掛かり宙を睨んでいるので、

 サガは通りかかった折「どうした」と問うてみた。

 すると漸く夢から覚めたようにカノンは「あ…」と息を吐き、「いや…」と手を顎にあてる。

 「今晩の飯は何にしようかと考えていた」

 サガは思わず苦く笑ってしまう。

 「お前が考えることも随分と平和になったものだな」

 「…そういうことを云うならば、お前の分は作ってやらんぞ」

 とカノンが睨むのでサガは肩を竦めた。

 「それは困る。ちょうど今、雑兵たちの人事で忙しいのでな」

 「知っている、それくらい」

 だから俺が作ってやっているだろう、と云いたげな目にサガはまた苦笑い。

 少し待てと言い残し、自室へ戻り、再びキッチンへとやって来たサガの手には、

 「レシピ本…か」

 受け取りカノンは適当にページを捲った。

 「サガのレパートリーが多いのはこういうわけか」

 「そういうわけだ」

 「…ふん、毎日の料理にこんな凝ったものを作るお前がわからんな」

 「私にはお前の料理がわからんよ」

 サガは云って少々笑う。

 カノンは最近こいつはよく笑うなと思ったが、

 「何でも切って煮たり焼いたりすれば良いというものではないぞ、カノン」

 なんて云うので感傷めいたものは吹っ飛んだ。

 「しかしお前だって美味いと云って食べていたではないか」

 「ああ、確かに美味いとは思うがたまにはごった煮料理以外が食べたい」

 「…ふぅん」

 カノンは再び料理本に目を落とした。

 サガは「さて」とカノンに背を向ける。

 「私は少々教皇宮に用があるので行って来る。何かあったら」

 「お前、去り際にそういうことを云う癖を早く直せ」

 カノンは呆れる。

 サガは微笑した。

 「ああ、そうだったな。では行って来る」

 やはり最近よく笑うようになったなとカノンは思った。

 ***

 「で…」

 サガは夕食を目の前にフォークをやる気なく取った。行儀が悪いぞと珍しくカノンがサガを注意する。

 二人の前にはサラダボウル・オンリー。

 もちろんそこには青々と青野菜がふんだんに盛られ、

 赤色のトマトや黄色のコーン、紫キャベツが色を添えている。

 カノンは云った。

 「煮たり焼いたりしない料理を作ってみた」

 サガはがっくり肩を落とす。

 「お前には…時折心底呆れる」

 「お前がこういう料理が食べたいと云ったのだろうが!」

 「ええい、アホか!ほんとに煮焼きせんでどうする!」

 「じゃあもう食うな!」

 サラダボウルを腕に抱えるカノン。

 「子供のようなことをするな!よこせ!

 お前と違って仕事をしている私はカロリー消費が激しいのだからな!」

 「なんだと!?家事をなめるなよ、貴様!」

 「お前こそ人事の仕事をなめるな!」

 カノンにアッパーを食らわすサガ。吹っ飛ぶカノン。サラダボウルはサガの手に。

 サガは床にのびたカノンが立ち上がらないように足で踏みつけながらサラダを食べる。

 「明日からはせめてスープをつけるように」

 返事の代わりにカノンの腹がぐぅと鳴った。




2006・クリスマス!



 クリスマスの頃、カノンが自室で忙しいと云うサガに代わり書類作成をしていると、

 ノックと共に忙しいはずのサガが顔を出した。

 「カノン、少し良いか?」

 「なんだ?」

 カノンはペンを置き、振り返る。

 サガは出掛けるのかコートを身に纏ってきた。

 「買い物に行くのだが付いて来てくれないか?荷物を持って欲しいのだが」

 「サガよ、俺はお前が忙しいと云うから本来ならお前がすべき仕事を代わってやっているのだぞ?

 この上荷物持ちまでさせる気か?」

 カノンは書いていた書類をひらひらと振って見せた。

 けれどサガはその辺りにあったカノンのジャケットを拾い、投げて寄越す。

 「この買い物も忙しいの範疇だ」

 「意味が分からん」

 「とにかく重さならまだしもかさばる荷物なのだ。

 それにその書類は年末までが期限だがこの買い物は今日でなければならんのだ。早く来い」

 そう云ってサガは扉も閉めずに玄関の方へと去ってしまった。

 カノンはしばしジャケットを見詰めていたが、渋々それを羽織ってサガを追いかけた。

 ***

 自分たちの並外れた力を考慮すれば、

 どう考えても荷物持ちというのはサガがただ楽をしたいだけだろうと考えていたカノンだったが、

 兄の姿・己の姿を改めて見て納得。

 カノンは右手に三つ、左手に三つ、大きな紙袋。

 サガは左手に三つの紙袋、右手は財布を取り出すために空けておきたいと云うのだが、

 不公平感が否めない。

 二人の提げる紙袋の中にはたくさんの玩具やお菓子が詰まっていた。

 訊けば聖域の子どもたちを集めてクリスマス会をするらしい。

 「…異教の祭事をするのか?」

 とカノンは重くはないがとにかくかさばる荷物を両手に持ちながら隣を歩くサガに問う。

 サガは「ああ」と頷いた。

 「アテナは喜んで賛同して下さった。

 それに実は13年前までも私とアイオロスでこっそり子どもたちとクリスマス会をしていたのだ」

 「13年前も?」

 「うむ。昔もこうして子どもたちのために玩具やお菓子を買い出したものだ」

 「ふぅん」

 カノンは13年前のクリスマス頃を思い出しながら、両手に提げたプレゼントを見下ろす。

 「そういえば確かにクリスマス頃のお前は忙しい忙しいと云っていたような気がする。

 あれはクリスマスの用意のために忙しかったのか」

 「なにせ昔はアテナの許可を頂こうにも、それは出来なかったからなあ。

 聖闘士としての修行に加えて二人で用意していたものだから忙しかったのだ」

 「…ちょっと待て。では最近忙しいと云っているのもクリスマスの用意のためか?」

 「……」

 目を逸らすサガ。

 カノンは「オィ」とサガの顔を視線で追った。

 「お前な!

 俺は13年前も今年も、お前が聖域の業務で忙しいのだとばかり思って心配してやっていたというのに!」

 と云うカノンから早足に遠ざかるサガ。そして、

 「次はこの店だ」

 クリスマスの飾り付けがされたやや古めかしい雑貨店に勝手に入っていってしまった。

 「…おのれ、サガめ」

 カノンは舌打ちをして店を睨みつける。

 だがやがてここで突っ立っていても仕方がないので店へと向かうことにした。

 13年前のクリスマス。

 サガは忙しくてたいへんなのだろうと純粋に心配していたことが急に恥ずかしくなって、

 足音が自然と大きくなる。

 「俺がバカみたいではないか」

 カノンは両手が塞がっているので体を使って扉を開けた。サガは扉を開けてもくれないのだから。

 ***

 その店は硝子細工を扱った店だった。

 必然的に身動きの取れなくなったカノンは店の隅っこに荷物を下ろし、自らもしゃがむ。

 サガが近寄ってきたと思えば自らが持つ紙袋を「ちょっと持っていてくれ」と預けていく始末。

 確かに大荷物を持ってこの店の商品を見て回るのは危険だろう。

 カノンは改めて店内を見回した。

 精緻な意匠が凝らされたグラス、きらきらと輝くアクセサリー、花器、ランプ、置物、全てがきれいな世界。

 カノンはなにげなく目の前の棚にあった置物を手に取る。

 それは美しい青色の球体、地球だった。

 その内側は真水で満たされ、幾つもの色を持つ小さな硝子玉たちが泳いでいる。

 「ふーん」

 カノンは窓のある方へとそれを掲げ、覗き見る。光に翳して見ればそれは更に青く輝いた。

 「…どこかで見たような気がする」

 カノンは呟きながらもう一度それをゆっくりと回転させる。

 しかし不意にその青が翳った。硝子球の向こうにはサガが立っていた。

 「それはそうだろう」とサガ。

 「これは14・15年前に今の黄金たちの誰かにクリスマスプレゼントとしてやったものだからな。

 きっとその者の家で見たのだろう」

 カノンの手の中から硝子球が取られる。音も立てずにそれは元の棚へ。

 「カノン、今日はお前のものを買いに来たのではない」

 「わかっている、それくらい」

 カノンはサガの手に新しい袋があることを認めて立ち上がる。

 そしてもう一度だけ繰り返した、「わかっている」と。

 するとサガがそれを不審に思ったのか首を傾げる。

 「お前もここのものが何か欲しかったのか?ならば…」

 しかしカノンはまるでそれ以上は聞きたくないとでも云うようにサガの言葉を制した。

 「28にもなって今更はじめてのクリスマスを楽しめと?」

 しまった、と思ったのはカノンだ。

 こんな当て付けのようなことを云って気まずくなるのはカノンの望むところではない。

 折角さっきだって、13年前にクリスマス会をやっていると聞いた時だって、

 今年仕事を押し付けられてむかつく!にすり替えたのに、

 「俺がバカみたいではないか」だって、きちんと一人になってから云ったのに、全てが台無しだ。

 カノンが眉間に皺を寄せながらサガに何と次の言葉を云おうかと「む…む…む…」と考えていると、

 先に口を開いたのはサガだった。

 紙袋をきちんと三つだけ持ち、「行くぞ」と先程のカノンの発言には何も触れず店の外へと向かう。

 助かったとカノンは心底思った。そして残りの紙袋を提げてサガの後を追う。

 サガは店を出たところで隣に並んだカノンに云った。

 「さて予定のものは全て買った。付き合ってくれたお礼に昼飯くらいは奢ろう」

 カノンはこちらも助かったと思った。

 「サガよ、荷物を持ち過ぎて先程から俺は通行人たちから邪魔者扱いされているぽいのだ」

 サガは声を上げて笑った。

 ***

 昼食の後、ふたりは並んで街を歩いた。

 クリスマスの街並み。幸せそうな恋人たち。幸せそうな家族。

 それらを目に映しながらゆっくりと二人は帰途に付く。

 だが不意にサガが「カノン」と呼んだ。

 「なんだ?」

 とカノンがサガを向く、その寸前に目に入るものがあった。

 カノンの胸の前に横手から差し出されていた1つの飾り気のない箱。

 クリスマスのプレゼントにしてはラッピングは施されていないし、

 挙句テープのぎざぎざの切り口までがよく見える。

 だと云うのに、カノンが「なんだ、これは?」と訊くとサガは「クリスマスプレゼントだ」と平然と云った。

 思わず「今日の褒美とかではないのか?」と聞き返してしまったくらい驚いた。

 しかしサガは呆れたらしい。

 「先程褒美として昼食を奢ってやっただろう。荷物持ちしかやらなかったくせにまだ褒美が欲しいのか」

 「どうも引っかかるが、その言い方。…開けても良いのか?」

 カノンは紙袋の紐を腕に寄せて、右掌でそれを受け取ろうとした。

 しかしその前に右腕に持っていた荷物をサガが全て引き取ってくれる。

 そして自由になった右手に乗せた何の飾り気もない箱を

 荷物が邪魔な左手でもどかしくも一生懸命に開ける。

 その箱に詰まっていたのは青い地球だった。

 光に翳せばきらきらと色を纏って輝くそれは先程カノンが硝子細工の店で眺めていたもの。

 サガの顔を見ると、サガは云った。

 「お前が長い間ずっとそれを見ていたので欲しいのかと思って買ったのだ」

 なんだ、ちゃんと見ててくれたのかと思った。

 上手く動かせない左手でそれを箱から取り出し、箱をサガに預けて右手に持ち直す。

 夕焼けに翳せば「火星に見えなくもないな」

 カノンは笑った。

 そして気付く。

 何度か地球以上火星未満を回転させ、首を傾げた。

 「なあサガよ」

 「うん?」

 「これ、先程店にあったものより、俺が誰かの家で見たものより、少し大きいのではないか?」

 するとサガは「よく気付きました」とばかり口端を上げて笑った。

 「身内贔屓だよ、カノン」




裸足


 黒いシャツ。黒いズボン。

 裸足の脚を組み、窓辺の椅子に腰掛け、

 頬杖をつきながら何処から借りてきたのか、ぼろぼろの装丁をした書物を捲る片割れに、

 その片割れは苦笑した。

 「珍しい格好をしているではないか、サガ」

 カノンはサガの傍に立つ。

 サガは本から顔を上げ、カノンを振り仰いだ。

 「先程この前を通った近所の娘たちが私を見て、お前の名を呼び、手を振ってきたぞ」

 「サガよ。気を抜きたいときに俺の振りをするのをやめてくれないか」

 「べつにお前の振りをしているわけではない。

 気を抜いているとお前のように見えてしまう、それだけのことだ」

 サガがそう笑うと、カノンは鼻を鳴らした。

 「それはイヤミか何かか?」

 「事実だろう。ほら、このように」

 その裸足の爪先でカノンのやはり裸足の爪先から足首に掛けてをなぞってやる。

 するとカノンが少し慌てたような困った顔をしたので、サガは窓辺に本を置き、カーテンに手を伸ばした。




カノッサンス


 サガははっとして顔を上げた。

 書斎机の上に置いた時計は午後九時前を指している。

 しまったとサガは思った。

 つい書き物に没頭し、夕食を取るどころか、夕食を作ることさえ忘れていた。

 一人ならそれでいい。だが同居するカノンは食事はサガが作るものと思っている節がある。

 サガは一度、「子どもではあるまいし、何故私が…」と視線を書き物に落としたが、

 しかし机に置いたアンティーク時計がカノンが「サガに」と買ってきたものであったことを思い出して、

 腰を上げた。

 「すまない、カノン」

 居間に通じる扉を開ける。

 「夕食の支度をうっかり忘れていた」

 今から作る、そう云う前にサガの目はカノンを捉らえた。

 正確にはすっかり夕食が整った食卓と、そこで新聞を流し読みしていたカノンの姿。

 カノンは暇潰しに新聞を読んでいたのだろう、紙面に未練もなげに顔を上げる。

 「サガ。どうした。仕事は終わったのか?」

 「いや、まだだが」

 サガは食卓に寄る。

 三ツ星レストランのシェフのような料理とは言えないが、

 サガがいつもカノンに作ってやるような彩りの良い料理が並んでいた。

 「では休憩か何かか?」

 カノンに問われて、サガは曖昧に言葉を濁した。

 カノンは少し訝しがった、適当に畳んだ新聞をサガに押し付けるようにして立ち上がる。

 「まあいい。腹が減っているなら、食事にしよう。スープを温めてくる」

 「…そうだな」

 サガは頷いて口許に微笑を浮かべ、席に着いた。

 適当に畳まれている新聞を整え、きれいに折り畳む。

 「私を待たずとも、先に食べてくれていても良かったのだぞ」

 食卓に並ぶ料理はすっかり冷めてしまっている。

 カノンの返事はキッチンからした。ただ「ん…」というどちらともつかぬ短い返事。

 そういえばカノンは昔から一人の時は自ら料理をし、一人で食事を取っていた。

 だがサガが聖域から帰る日には必ずサガを待っていた。たとえ深夜を過ぎても待っていた。

 「カノン。私の事は気にせず、食事くらい自由に取ってくれてかまわんのだからな」

 サガはキッチンにいるカノンに声を掛けた。それに応じるかのように、

 「…お前な」

 とカノンがひょいとキッチンから顔を覗かせた。

 手にはスープ皿がふたつ。

 「同居人が一日中こもりっきりで仕事をしているというのに、知らぬ顔して一人で飯食って寝れるか。

 いや、寝るのだがな」

 「…寝るのか」

 「眠いし」

 カノンは苦笑顔のサガの前に温めたスープを置いた。食欲をそそられる香りと温かさ。

 「言っておくが、美味いなどとは云うなよ」

 カノンも椅子を引き、食卓に着く。漸く揃う家族。

 二人はそれが同じタイミングとは気付かずにナイフとフォークを取った。

 そして始まる遅めの夕食。ふたりの食事。

 「美味いなどと云って、また明日も俺に食事を作らせるという魂胆は目に見えているのだからな」

 カノンが料理を口に運びながら云うと、サガはワイングラスを手に取りながら笑う。

 「では、まずいと云ったら?」

 「明日はサガが飯を作ることになる。俺としては」

 「カノンとしては?」

 「この飯はまずくてたまらん」

 カノンが心底まずそうに顔を歪めたので、サガは眼を閉じ、笑った。

 「明日は私が作るしかないようだな」

 「ふん。うれしいくせに」

 からかうようにカノンがフォークの先を振る。

 サガはその行儀の悪い手をべしんと叩いて、求められる嬉しさが顔に出るのを誤魔化した。




退屈だ!


 サガの座るカウチに凭れ掛かる様にして床に胡坐をかいていたカノンがふとテレビを見ながら呟く。

 「退屈だ」

 サガは読書に耽っていたが、カノンのその言葉の形くらいは拾うことが出来たので、

 「そうか」

 とだけ頷いてページを捲る。

 カノンは先程よりも少しだけ声を強めた。

 「俺は退屈だと云ったのだ」

 「…お前は仕方のない奴だな」

 苦笑交じりにぱたんと本を閉じる音が耳の傍で聴こえる。




退屈しているのだが?


 サガが読み耽っていた本がカウチの上に伏せられてあったので、

 なんとなしにそれを手に取り、今度はカノンが読み耽る。

 すると、さらり。サガの手がカノンの耳に掛かる髪を掻き上げた。

 「おい、カノン」

 まるで内緒話のように耳元で囁かれる。

 「私は退屈しているのだが?」

 するとカノンはサガを鬱陶しそうに払って眉間に皺を寄せた。

 「俺は今忙しいのだ」

 「やれやれ」

 サガは屈めていた背を伸ばす。

 「お前は本当に仕方のない奴だ」

 苦笑い。




むぎゅむぎゅ


 休日の昼下がり、サガはうつぶせて新聞を捲る。

 すると旅雑誌を手にしたカノンがやって来て、サガの上に仰向けに寝転んだ。

 「重いぞ、カノン」

 サガが唸ると、カノンは器用にサガの目の前で雑誌を開いて見せる。

 「カノン、逆だ」

 「なあサガよ、何処か遠くの国のこと、新聞ではなくその目で見に行く気はないか?」

 相変わらず雑誌は逆さまに見せられている。

 とりあえずサガは「逆立ちせずとも良いのならな」と逆さまのアジア遺跡に想いを馳せた。




もったいないのは


 「カノン」

 サガがそのように静かに口を開いたのは、カノンが作った夕食を全てきれいに平らげた後のことだった。

 カノンは急用のため一時席を立ち、未だ夕食は口にしていない。

 さあいよいよ夕食を口にしようと席に着いたところで、先程の「カノン」だ。

 「なんだ?」

 カノンは首を傾げた。

 サガは困ったように苦笑する。

 「お前、調味料を間違っただろう」

 「なんだと?」

 カノンは驚いて料理の一つを口に運んだ。本来は辛いと感じるはずの料理が甘く感じる。

 カノンはふつふつと湧く感情のまま、声を荒げた。

 「サガ!お前、このような味がするものを全て食べたのか!

 一口食べたときにはおかしいと気付いただろう」

 カノンは食卓にある料理を一通り一口ずつ食べたが、辛い料理が全て甘い。

 だがサガは怒ることもなく、あくまで穏やかに口を開く。

 「無論、気付いた。だが食べれぬほどではない。残してはもったいないだろう?」

 「それは、そうだが」

 カノンは何か腑に落ちないものを感じていた。

 もったいないと云うならば、

 カノンが食する前にまるで「お前は食べなくて宜しい」とでも云うように注意など与えるのはおかしい。

 そのように考えているカノンの前で、

 サガは珍しく行儀の悪いことに、ひょいとカノンの皿にある甘い料理を摘んで口に入れた。

 「次は気をつけるように」

 「次」

 カノンは口の中で繰り返し、そして気付く。

 もったいないのはカノンがサガのために夕食を作った、そのことなのだと。

 「つ、次は気をつける」

 俯いた頬が少し熱いのは拗ねたからではない。





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