Gemini*Gemini




It's no use crying over spilt milk

あるいは

零れた紅茶はティカップには返らない



 月のない夜にはお茶会をする。

 彼への招待状は座り心地の良い椅子と、最高級の熱い紅茶とティカップ。

 彼が椅子に腰掛けて、とりとめのない話に紅茶を飲みながら頷いてくれる姿が好き。

 彼の膝に頬を預けて、髪を撫でてもらうのがとても好き。

 ふたりだけのティパーティ。

 次の新月にカノンは焦がれていた。




 月のない夜は覚束ない。

 足元、眼の前、行く先、来た道、そして彼の髪は闇に溶け込む。

 ノックもなしに、まるで主が如くやって来た彼にカノンはいつものように椅子を引いてすすめる。

 次いで最高級の紅茶をいれ、ティカップに注いだなら彼の膝に頬を預ける。

 その体温が好き。匂いが好き。

 愛玩動物を撫でるかのように髪を梳かれるのさえ好き。

 指が好き。掌が好き。単純なリズムで触れられる頭皮の感覚まで好き。

 体に落ちる彼の髪を弄るのが好き。

 「今日は花が咲いたんだ。ずっといつ咲くのかと愉しみにしていた花なのだ」

 ぽつりぽつり他愛のないことを口にする。それは何だって良かった。

 今日のこと、明日のこと、昨日のこと。嬉しいこと、悲しいこと、笑いごと。

 時に涙をこぼし、ため息を吐き、黙り込む。

 それが月のない夜のティパーティ。ふたりだけのティパーティ。




 「最近のお前は月のない夜を心待ちにしているようだ」

 窓から毎夜欠けてゆく月を見上げるカノンにサガは云った。

 サガが腰掛ける椅子からではその月は見えなかったが、それは確実に姿を変えていっているのだろう。

 気が滅入ってサガが吐いた息とカノンの言葉が重なる。

 「サガが帰って来ない日だからではないか?」

 意味が解らないとサガがカノンを見やる眼で云う。

 するとカノンは漸く振向き、窓枠に両肘を付いた。

 「月のない夜にはお前が帰っては来ないから、心待ちにしているのだ」

 サガが帰らぬ日は何もその日には限らなかったが、その日に限って必ずサガは帰らない。

 「そうして心待ちにした日にお前は何をしているのだ?カノン」

 さじ加減はいつも難しい。まるでオレンジひとつの値段をきくように問わなければ。

 「起きてる」

 カノンはやはりオレンジの値段を答えるように云った。

 値段の他に何をきくことが、答えることがあるだろう。

 カノンは嘘を吐きはしなかったが本当のことは口にしなかった。比べて嘘をついたのはサガだった。

 「お前は月のない夜、聖域で何をしているのだ?」

 カノンが問えばサガは嘘をつく。

 「子供たちが明かりがないのを怖がるから傍にいる」

 カノンは笑った。

 「そんなことで地上の平和を守れるのかね」

 「そう云うな、カノン。闇は誰でも怖いものだ」

 誰でも、というその範囲にはカノンも彼も含まれていないのだろう。

 カノンも彼も、この世界の住人ではないのだから。




 「なんて会話をサガとしたのだ」

 カノンはいつものように彼の膝に頬を預けて笑った。

 彼はティカップの紅茶の香りを味わうように呑んでいる。

 その片手はやはりいつものようにカノンを撫でる。優しく、静かに、甘く、甘く、甘く。

 サガはこんなことしてくれない。サガはカノンではない子供たちを撫でているのだ。

 「嗚呼、お前だけならばどんなに良かっただろう」

 彼だけならば、カノンの世界はどんなにか幸せだっただろう。

 その世界では、この膝も手も指もカノンだけのもの。

 サガがカノンを捨てて選択した世界に神に子供達に心乱されることもない。

 「時々思うのだ。サガなんて要らない。最初からサガなんていなければよかったのだ」

 笑おうとしているのに、涙が一筋床へと消えた。




 夜は新月。

 さあ、今夜も彼がやって来る。カノンは月のない空を窓から見上げながら、彼の到来を待つ。

 やがて現れた彼を迎えた瞬間、彼は微笑した。

 「喜べ、カノン」

 パタンと扉が締まる。

 彼は笑んだまま、宣告した。

 「サガは死んだ」

 私が殺してやったのだと彼はくちびるを吊り上げた。




 「あっけない最期だった。実に不愉快なことにね。

 なに、サガを殺すなど簡単なことだ。今やもう私の力が上回っているのだから。

 もう少しサガが狂う姿をこの特等席で眺めていても良かったのだが、

 いつも美味い紅茶をいれて待っているお前のささやかな望みくらい、叶えってやっても良い。

 そう思いつき、殺してやったぞ?首を締めてやったのだ。

 奴の最期の呻き声にお前の名は出てこなかったがな。可哀想に、カノン」




 瞬間、カノンは猛然と彼に掴み掛かった。

 まるで獰猛な猛禽類を思わせる眼を見開き、

 呼吸困難の魚のように口を開けては閉じ、閉じては開けを繰り返す。

 「貴様…貴様…!どうして…!」

 左手で彼の黒髪を引きちぎるように握り、右手で胸ぐらを掴み上げる。

 だが彼は薄ら笑いを浮かべていた。

 「どうして、だと?」

 サガであってサガでないサガは云った。

 「お前が云ったのであろう?あんな奴は要らぬと。

 お前がその口で笑ったのであろう?この私だけで良いと」

 「違う違う違う!そんなのは違う!」

 髪を振り乱してカノンが叫ぶ。

 それに応えたサガは全知全能の神のようだった。

 彼は今までに一度たりとも見せたことのない甘やかな笑みで云ったのだ。

 「お前が願ったのだ、サガなどいなくなれば良いと」

 だから殺したのだよと極上の声で囁かれる。

 「あ…あ…ああああああ!」

 これがお前の願った世界だと唐突に突き付けられた世界に、

 カノンの腕から足から全身から力と何か大切なものが、

 生きるために最低限必要なものが抜けていくのを感じた。

 軽く振り払われて、カノンは床に倒れる。

 起き上がることさえ出来ずに、カノンはサガを眼に映しながらも譫言のように繰り返す。

 「違う違う違う違う。こんなのは嘘だ。違う。嘘だ嘘だ嘘だ!」

 サガと手を伸ばす。

 「嘘だろう、サガ」

 サガは、サガでないサガはカノンの震える指先を嘲笑ってそこにいた。

 「この悪魔が!」

 何かがぷつりと途切れる音がした。

 「よくも、よくも、よくもサガを殺したな!」

 バネのように跳ね起き、サガの首を締め上げる。

 「私を殺すか、カノン」

 サガはそれでも薄ら笑いを続けていた。

 「私はサガだ。お前が求めて止まなかったサガなのだぞ?」

 「黙れ黙れ黙れ!」

 噛み付くようにカノンが吠える。

 「思い上がるな、この悪魔!お前などサガではないわ!」

 サガではない。

 このサガという名を持つ入れ物はカノンのサガではない。

 艶やかな黒髪も、燃えるような血の赤も、カノンのサガではない。

 カノンが求めて止まなかったサガではない。断じてサガではないのだ。

 「ならば私は何だと云うのだ」

 熱い紅茶が注がれたティカップを優雅に片手にするが如く悪魔は美しかった。穏やかだった。

 カノンは叫んだ。お前などサガの代わりでしかないのだと。

 「お前などサガの代わりでしかないのだ!

 サガではない!サガではない!この悪魔!サガを返せ!俺のサガを返せ!」

 カノンの苛烈な炎がふたりのティパーティを焼き尽くそうとしていた。

 悪魔はティカップに口をつけずカノンを眺めるばかり。

 嘲笑うように、哀れむように、静かにも冷酷に。

 「お前など…」

 カノンの、かつては悪魔と接吻けを交わし、彼をサガと呼んだくちびるがティパーティの終わりを告げる。

 「お前などサガが在ってこその存在にしか過ぎない!

 サガの姿と声をしているから、お前の内にサガがいるからこそ、俺にとって価値があったのだ」




 お前など要らない。




 ティパーティは終わった。

 悪魔がカノンにティカップの紅茶を頭から浴びせたのだ。




 「それがお前の真実か、カノン」




 やがて悪魔は優しくも残酷に「何もかも嘘だよ」と告げた。

 うそ。ウソ。嘘。

 嘘。

 嘘。

 嘘。

 「…嘘だと…?」

 サガの首を締めていた手が離れる。力が抜け、カノンは床に膝をいた。

 「そう、嘘だ」

 サガは乱れた胸元を整えながら、笑んだ。それは優しく、それでいて高貴なる笑み。

 「お前が求めて止まぬサガはいつものようにただ眠っているだけ。

 明日には眼を覚まし、またお前を捨てて神のもとへ帰って行くだろう」

 「何故、そのような嘘を…」

 カタカタと両手が震える。

 浴びせられた紅茶は熱いのに、カノンは全身に寒気を覚えていた。

 ぬくもりが離れるあの凍死してしまいそうな寒気にカノンは再び苛まれていた。

 サガは云った。しかしもう二度とカノンには触れずに。

 「私はお前のことは気に入っていた。

 その髪も、声も、体も、サガに似ているから気に入っていた」

 それはルールだ。

 決して破ってはいけないルール。口にしてはいけないルール。

 カノンは去ろうとする彼に縋れなかった。先にルールを破ったのはカノンだ。

 ただぬくもりを失った体を自ら抱き寄せ、身を震わせるしかないのだ。

 開けられた扉の向こうに月はない。闇の世界が広がる。

 「カノン」

 そこへと踏み出そうとするサガは肩越しに振り返り、云った。

 「私はお前のいれる紅茶も気に入っていた。

 そのお前が好きだというサガは、故にまだ殺さないでおいてやろう」

 扉が閉まる。

 床には紅茶が、カノンのものとも、サガのものとも云えぬ血のように零れていた。






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