カノンに許されたことといえば、今日の天気と運勢を知ることくらい。
扉に背を向けるように椅子に座ったカノンが出掛ける私の背に言うのだ。
「今日の双子座の運勢は最悪らしい」
その言葉に振り返るが、右眼に掛かった髪のせいでカノンの背がよく見えない。
指でその一房を耳に掛けようとしていると、カノンが言葉を続けて言った。
「せいぜい気をつけることだな」
やはり背を向けたままに。
髪に触れていた指を降ろす。払わずとも良いと判断したからだ。もう振り返る必要はない。
扉へと一歩。
「行ってくる」
「ああ」
それは肯定なのか、了承の意なのか、それとも諦めなのか、解らない。
抑揚のないそれは、何もかもに興味が失せてしまった空っぽのカノン自身のようだった。
扉へとまた一歩。
扉を私自身が通れるほどだけ開けて外へ出れば、灰色の空が重く地に垂れ込めていた。
今日は雨が降るかもしれないと思った。
雨が降っている。
テーブルに頬をつき、窓の外を眺める。変わらず扉には背を向けたまま。
やはり今日の双子座の運勢は最悪だとカノンは思った。
サガは傘を持たずに出掛けて行った。この雨は夜半まで降り続くそうだから、帰りは濡れて帰ってくるだろう。
傘を届けてやろうかとも思う。けれど誰かに姿を見られれば厄介だとも考える。
カノンが誰かに姿を見られて厄介なのは、実はサガであるのだが、
それで結局サガがカノンを厄介に思うのだから、カノンにとっては余計に厄介だった。
けれどカノンが傘を届ければ、今日サガは雨に濡れずに済むだろう。しかし明日サガはカノンを疎むのだ。
今日のサガか明日の保身か。こうして悩んでいる内にも、サガの帰る時間は迫り、雨は強くなるばかり。
全ては、とどのつまり、こういうことなのだろう。
カノンは頬をテーブルから離せないでいる。
「最悪なのは、双子座の運勢でなくて、本当は俺なのだ」
カノンは私が出掛ける前と全く変わらず、扉に背を向けたまま、木造のテーブルについた両腕に顔を埋め、座っていた。
「俺は知っていたのだ。今日雨が降ることも。今日の双子座のラッキーアイテムが傘であることも。
なのに俺は、今日雨が降ることも告げず、傘を持って行けとも言わず、お前に傘を届けもしなかった」
僅かにその背で揺れる長い髪が、カノンの嗚咽を私に訴えているようだった。
「お前が困ればいいと思った。お前なんか雨に濡れてしまえばいいと思った。だから言わなかった。
雨が降ったとき、お前に傘を持って行けと告げなかったことを素直に後悔した。
けれど、しめたとも思った。ここで俺が傘を持っていけば、点数稼ぎになると思った。
でも持っては行けなかった。お前が怒るかもしれないと思ったからだ」
お前が風邪を引いたらどうしようといよいよカノンは取り乱す。
お前が雨に打たれたせいで風邪をひき、風邪をひいて死んでしまったらどうしようとただただ嘆く。
「お前が風邪を引いて明日死んでしまったらどうしよう。
俺のせいだ。俺がいじわるをして傘を持って行けと言わなかったせいだ。
俺のせいだ。俺が明日の保身を考えて、お前に傘を持って行かなかったせいだ」
カノンはまだ伏せた顔を上げない。ただその背が寒そうに震えている。
私はカノンの背を温めるように掌で何度もさすって撫でた。
「カノン、カノン。私は風邪などひかぬし、風邪をひかぬのだから明日死ぬこともない。
カノン、大丈夫。温かくしていれば風邪などひかぬ。今日は温かくしよう。お前が風邪をひいてしまわぬように、温かくしよう」
そっとカノンの顔を胸に抱く。
カノンは何度もうん、うんと頷いた。
「明日お前が俺を嫌ってしまうのが怖かったのだ、サガ。
でも明日俺を嫌うお前がいないことの方がもっと怖い、怖いのだ、サガ」
それでもカノンは謝りはしない。
カノンが傘を持って行くように告げなかったことも、傘を届けに来れなかったことも、
決してカノンが悪いわけではないとカノン自身が思っているからだ。
私のせいだ、とカノンは暗に言っている。
故に私も決して謝ることはないだろう。
私がこうして今日濡れたのはカノンのせいだ、と思っているからだ。
それにいったい何を、何処を、どうして、どのように謝れば良いのかも解らなかったし、
すまないを言うのは簡単だったが、中身が伴わぬものは嘘だ。
だから私はカノンを胸に抱いて、その先まで冷たい髪に何度も接吻けを落としては、手で背中をさする。
今日を、今このカノンを温かくしてやるしか、私には出来ない。
カノンは私の胸に取り縋る。
今日、今このときしかカノンにとって確実なものはないから、そうするしかないのだ。
「カノン、カノン。温かくしよう。お前を温かくしよう。そうすれば私も温かい」
抱き合うとは、そういうことだ。
「明日お前が風邪をひいてしまわぬように、明日私が風邪をひいてしまわぬように」
明日お前が私のせいで死んでしまわぬように。
明日私がお前のせいで死んでしまわぬように。
今日に抱き合い、今日を温めるしかない。
カノンが漸く落ち着きを取り戻し、しゃくりを上げながら言うのだ。
「すまない、サガ」
カノンの手に一層の力が入る。
私の腕の中が重くなる。
だから私も言うのだ。
「すまなかったな、カノン」
私の腕がより締まる。
カノン息は更に詰まる。
明日もきっと雨が降る。
君は僕のラッキースター