Gemini*Gemini




嘆きのミスタ・バタフライ



 カマキリを飼っていた。

 虫篭がないので水槽で。

 360度パノラマの透明な壁。ぽっかり空いた天井。充分でない土と草。

 独りぼっちのカマキリは、そのギョロリと不気味な眼をランランと輝かせ世界をただ眺める。




 その日もカノンは餌を取っていた。

 草むらに伏せてバッタを追う。

 一度食糧なのだと思い込めば、何の感情も感慨も浮かんではこなかった。

 ただバッタを喰い散らかすカマキリを見て、なんて勿体無いことをするのだろうとは思った。

 限り有る食糧は有効に喰わなくてはならないのに。




 サガはあまり何かを飼うという好意を好まないから、当然カマキリを飼うことはサガの不興を買った。

 「カノン。こんな処にカマキリを閉じ込めては可哀想だろう?

 ここは狭い。土も草も充分ではないし、餌も腹を満たすほどではないはずだ」

 外へ逃がしてやれと云うのだ。

 カノンは思わず鼻で笑ってしまった。

 「ここが不幸であると、どうして云える。

 こんなところだ。外では命を奪いかねない‘せいんと’の‘ちから’が至るところにあり、

 もしかしたら子供たちが捕まえてしまうかもしれない。

 ここには確かに充分でないが、土も草も餌もある。

 虫篭は柵がたくさんあって外が見えにくいが、透明な水槽だったら外もよく見える」

 それに水槽の天井をいつでも空けて出て行けるようにしているというのに、

 カマキリは水槽から逃げる様子を見せない。

 「ここで満足しているのだ」

 カノンは眼を細め、カマキリを眺める。

 サガは眼を細め、カノンを眺める。

 カマキリはそっぽを向く。




 ある日何故かバッタが一匹も見つからなかった。

 もしかしたらこの辺りのバッタは全て喰われてしまったのかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふと、ひらひらと飛ぶ蝶が目に入った。白い蝶だ。

 よくよく見ればグロテスク。よくよく見なければ美しい。そんな蝶。

 カノンはそれを指に摘んで家へと帰った。

 カマキリの水槽に放り込んで一満足。

 水槽の天井は空いているというのに、不思議とその蝶は逃げようとはしなかった。




 その夜はじめてサガは餌を与える行為について、なんて可哀想なことをするのだと呟いた。

 もしかしたらずっとそう思っていたのかもしれない。

 ただ餌がバッタから蝶に代わって、はじめてそれを口にしたに過ぎないのかもしれない。

 「だって、喰わなければ死んでしまうだろう」

 カノンは正論だった。

 「しかし、喰われたら死んでしまうだろう」

 サガも正論だった。

 だから、先が続かない。




 しかしどうしてか頑なにカマキリは蝶を喰わなかった。

 蝶もまた頑なに水槽に留まり続けた。

 もしかしたらカマキリは蝶を食糧としないのかと思い、図鑑で調べたところ、

 ただカマキリは蝶を食す場合において、その羽根を残し喰らうのだとだけあった。

 頁を捲るカノンの背後で、漸くカマキリは空腹に耐え兼ね、蝶の羽根をもぎ取っていた。




 カマキリはむしゃむしゃと蝶の羽根を喰っていた。

 けれど残さず、まずはむしり取った片翼の、更にその上半分を。

 そうして数日後に大切に大切にその下半分を。

 蝶はその様子をただ眺めているようだった。もう飛ばず。もう飛べず。




 サガが最近頭痛が酷いのだと云う頭を片手で押さえながら、もうそんな可哀想なことはよせと云った。

 カノンも確かに蝶は可哀想だと思う。

 けれどカマキリだって可哀想ではないか。カマキリだって可哀想なのだ。そうサガに怒鳴り散らした。

 サガは更に頭痛が重くなったようだった。




 蝶の羽根がついに失われた時、それでも蝶は生きていたが、息も絶え絶え。

 死は確実に迫っていた。それはすぐ。今。この瞬間にも訪れる。

 けれどカマキリも餓死寸前。

 最早白であったかどうかも解らない蝶を喰らえば、その命は存えられるだろう。

 永遠にも似た葛藤の後、カマキリはその鎌を振り上げた。

 グロテスクなだけの蝶は動かない。動けない。

 カノンは泣いた。顔にも声にも出さず、密やかに泣いた。

 そろりとカマキリをやさしくさやしく握り潰す。

 こうするしかないわけではなかったが、こうするしかないのだ。

 カマキリはカノンで、蝶がサガなのだからこうするしかなかった。




 「アテナを殺してしまおう?」




 サガは怒りに怒った。

 床に落ちたカマキリの亡骸を見下ろし、しかしその手で慈しむことはなく。

 「何故、何故このようなことを!」

 だんとサガの拳が近くのテーブルを打つ。

 「嗚呼、いっそのこと土も草も餌も、何もかも与えなければ良かった!」

 あの僅かな優しさが、彼の逃亡という選択肢を奪ったのだ。

 天井は空いていたのに。世界は広いと知っていたのに。彼には彼の光があっただろうに。

 彼は結局逃亡も選ばず、心中も選ばず、自身を殺して、サガを選んでしまった。

 「カノン、カノン、カノン!」

 サガが声もなく、いよいよ狂うような痛みを孕み出した頭を抱え、崩れ落ちるその背後で、

 羽根を失ったグロテスクな蝶は静かに息を引き取ろうとしていた。






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