Gemini*Gemini




ホームシック=サガシック



 その日に限って何故かサガは夕食を手の込んだものにすると云い出した。

 カノンにしても特に反対する理由はなかったので、良いのではないかと云った。

 すると何故かカノンが買い物に行く羽目になった。

 サガが丁寧に書き記した買い物リストをポケットの中でぐしゃぐしゃに丸めながら、

 カノンは今朝サガが見ていた雑誌の料理コーナーを呪った。




 市街地まで降りて行くと、別世界に来たような感覚に囚われる。

 人、車、街、音、空、風。とりあえず見渡して、納得。ここは異世界ではない。

 サガがおつかいに行って来いと云った場所だ。

 ポケットからサガが記したメモを取り出す。

 インクがまだ乾ききらない内にサガからひったくったせいだろう、読みにくかった。

 とりあえず「サガのアホ」と罵っておく。

 それでもなんとか解読し、カノンは大型スーパーマーケットに行くことにした。

 スーパーマーケットはこの先の横断歩道を渡り、右へ3ブロック、左へ2ブロック。

 カノンはやはりぐしゃぐしゃとメモを丸めてポケットに仕舞った。




 けれどアンラッキー。信号が歩行禁止警告。カノンは仕方なく立ち止まり、ゴーサインを待つ。

 車がひっきりなしにカノンの前を通り過ぎ、髪を無遠慮に巻き上げていく。

 束ねてくれば良かったと髪を撫でつけ、その一束を摘み、なにげなく眺めていると、

 視界の端に十歳前後の少年の姿が映った。

 時間にしておよそ1秒ほど見ていたが、やめた。

 信号がゴーサイン。

 カノンは再び歩き出す。

 しかし、横断歩道を渡りきり、違和感を覚えて振り返る。

 横断歩道を渡るカノンの横に、先程の少年の気配はなかった。

 どう見ても信号待ちをしていた少年が横断歩道を渡らないのはおかしい。

 振り返ったカノンの眼に映ったのは、数秒前と変わらない少年の姿と立ち位地。

 信号がまた歩行禁止を促す。

 車が行き交いだしたその先をカノンは髪を撫でつけることもなく眺めた。




 カノンの見る限り、少年はもう5度ほど信号のゴーサインを無視している。

 歩くこともなく、座ることもなく、ただ信号待ちをしている。

 それが10回目を数える頃、

 もしかしたら少年は信号待ちをしているのではないかもしれないとカノンは思った。

 あそこで誰かと待ち合わせをしているのかもしれない。そう考えて首を傾げる。

 待ち合わせならばあんなに車道ギリギリに立たなくても良いのに。

 それに少年は道路のある一点ばかりを見ているようで、やはりどうも待ち合わせとは思えない。

 信号が変わって15回目、カノンはまさか自殺するつもりではないだろうなと思った。

 眼の前で自殺されるのはたまったもんじゃない。

 アテナもさぞや驚いたことだろうと何か場違いなことを考えつつ、横断歩道を渡る。

 とりあえず自殺なら止めておこう。

 さて、何と云おうか。

 自殺するなら違う方法にしろ、車に飛び込んでは運転手に迷惑だ。

 違う。

 自殺するなら、死体はきれいなほうがいいぞ。特に胸を突くのはいけない。

 これも違う。

 えーと。

 命は大切にしなければならない。きっといつかいいことあるぞ。

 よし、これだ。これにしよう。

 カノンは少年に声を掛けた。

 「この世も捨てたもんじゃないぞ」

 いろんな意味で本当に命を懸けて守ったこの世界をそう簡単に悲観されてたまるか。

 ああ、これ本音だ。カノンは呻いた。




 横断歩道を渡らない少年。

 なんてことはない、ここで少年の兄が事故死したから車道を見ていたのだと少年は云った。

 もう一年以上も前のこと、少年とひとつ違いのその兄は、突っ込んできた車にはねられ死んだと云う。

 手を繋ぎ、きちんと信号を守って、ふたりで渡っていたら、兄だけはねられたと云う。

 咄嗟に兄は少年を庇ってくれたと云う。

 結果兄は死に、弟は生きている。

 少年は毎日毎日ここへ来ていると云った。




 もう夜も近いので、カノンは少年を家まで送って行ってやった。

 道すがら少年はぽつりぽつりと語った。

 優しい兄だったのだと云った。

 喧嘩もしたけれど、大好きで大好きな兄だったと云った。

 いろんな話をふたりでしたと云った。

 いろんな遊びをふたりでしたと云った。

 時々勉強を教えてもらい、物覚えが悪くて怒られたとも少し笑った。

 たったふたりきりの兄弟だったのだと云った。

 それが今はひとりきりなのだと泣いた。




 カノンは帰り道、花を買った。

 車道の真ん中に置いて、横断歩道を渡りきる。

 カノンの背に夕暮れ色に染まった白い花が散った。




 買い物を終えて帰ると、サガはトマトを切る作業を止め、振り返った。

 「カノン、今何時だと思っている?いったい買い物に何時間掛ければ気が済むのだ」

 云われて、時計を仰ぎ見れば、

 「八時過ぎ」

 「私は六時には夕食をテーブルに並べたいと云った、そうだな?」

 サガは明らかに怒っていた。

 「お前がなかなか帰って来ないから、今日は野菜スープだけだ。しかもトマトの」

 トマトだけのスープ。カノンは想像して絶句した。

 その間にもサガの説教が続く。だいたいお前はなんとかで。なんとかで。なんとかで。

 それを中断させるつもりなど今日のカノンには全くなかった。

 「サガ」

 ただ名を呼んでみたかっただけなのだ。

 それは結果として、サガの説教を止めることになった。

 「…なんだ?」

 「いや、いい。続けてくれ」

 云いながら、躊躇うことなく、サガに抱きついた。

 サガの背中に両手を回し、その肩に顔を埋める。サガの匂いがすると思った。

 「サガ」

 「…どうした、カノン。お前らしくもない」

 サガは驚いたようだった。肩に埋められた弟の顔を見下ろし、少し戸惑いながら問う。

 カノンは急にお前が恋しくなったのだと云った。

 「お前に早く逢いたくなった」

 「毎日逢っているではないか。それに早くと云う割には遅かったな」

 「煩い。逢いたくなってからはすぐに帰ってきたのだ」

 カノンはサガの肩に顔を埋めたまま、少し額を擦りつける。

 「ひとりで寂しかったのだ。だからお前が恋しくなった。お前に早く逢いたかった」

 カノンの声は少し掠れていた。

 サガはカノンの両腕に閉じ込められた両手を抜き取り、その手でカノンを引き寄せた。

 カノンの腰に両手を回し、少し強めに抱き寄せてやると、

 カノンはサガの背に回していた両腕を、今度は首に絡めてきた。

 そしてぽつりぽつりと話し出す。




 「今日な、買い物に行く途中に、兄を事故で亡くした少年に会ったのだ。

 一年間、そいつは毎日毎日兄が死んだ横断歩道をただ見てるのだ。

 優しい兄だったんだと。喧嘩もしたが大好きな兄だったんだと。

 ふたりでいろいろ話をして、一緒に遊んで、勉強して、怒られて」




 サガの首に回したカノンの腕に力が入る。

 「たったふたりきりの兄弟だったとあいつは云っていた」




 「その兄は弟を庇って、弟の眼の前で死んだとも云っていた」




 「思ったのだ。

 俺の兄は優しくないし、喧嘩ばかりで、大嫌いな兄だった。

 全く話もしなかったし、遊ぶとか勉強どころか、お前はいつもいなかった。

 たったふたりきりの兄弟とか、そんな関係でもなかった。

 お前は俺を殺し掛けて、勝手に自殺して、俺の知らないところで死んだけれど」



 「けれど、それでも俺は、俺は、すごく哀しかったのだ。とても辛かったのだ。

 ひとりきりで寂しかったのだ。哀しかった。辛かった。寂しかったのだ、サガ」

 カノンは泣いていた。

 声を押し殺し、時に抑えきれなくなって泣いていた。

 「だから思ったのだ。

 あの少年、あいつはどれくらい哀しいのだろうと。辛いのだろう。寂しいのだろう。

 俺以上に哀しいだろう、辛いだろう、寂しいだろう。

 そう思ったら、何故だろう、お前に逢いたくなった」

 カノンはサガの肩に顔を埋めたまま、その顔を上げようとはしなかった。

 ただサガの首に回した両腕に少し力が込められた。

 サガはカノンの腰を抱いていた片腕を離し、その手でカノンの髪をと背中を撫でてやった。

 唯一サガに見せることを許しているその耳に、触れるだけの接吻けを与えてやる。

 カノンは堰を切ったように泣き出した。

 だがサガは泣いてもいいと思った。泣かなくて良くなるまで泣いていいと思った。

 カノンには泣く権利が誰よりもあるのだから。




 今夜はトマトスープもなしだな。

 カノンの背をさすりながら、サガはそんなことをちらりと考えた。




 カノンはまだ子供のように泣いている。






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