Marcello*Kukule Log




Marcello*Kukule


 静寂の礼拝堂の奥深く、赤い僧が神に傅き、祈りを捧げていた。

 静寂の祈りの深淵で、神の子がたどたどしく、祝詞を唄っていた。

 「相変わらず、お前は礼拝ひとつ上手く出来ないのか」

 云うと、彼は立ち上がり、ゆっくりとこちらを振り向く。天窓より光が彼に降り注ぎ、その影は私に伸びた。

 「上手く出来ますよ、団長殿」

 ククールは笑んだ。

 「団長殿と同じように、ただ決められた手順どおりにするだけの祈りならば、ね」

 その笑みだけ、私と酷く似ているのだ。

 「俺、自分のために祈るときだけ必死なの」

 酷く、似ているのだ。





Marcello*Kukule


 あれは遠い昨日のようで、とても近い幾度か昔の冬の話。

 腹をすかした魔物たち。行軍する騎士。森を埋め尽くす白い雪。

 まだ十代半ばのガキを抜け切れていない俺も、

 傷を癒す魔法に長けていたことからその魔物討伐部隊に編入された。

 滅多に真意を零さない俺の兄は、そのとき俺にだけ、俺が討伐部隊に加わったことではなく、

 こんな雪深い森に分け入ろうとする当時の騎士団長についての舌打ちを聞かせた。

 俺が誰にも何も云わないことをわかってやっているんだこの人。そんな風に思った。

 そろそろこの魔物よりも気性の荒い獣が何もかんも喰いちぎって胃に収める日も近いんじゃないか、

 そんな風にも思った。

 まあべつにどうでもいいんだけどね。

 何が変わろうと、俺とこの人の関係はかわらねえんだし、俺は与えられた役割をこなせばいいだけさ。

 そういうわけで俺は白い森の中、

 いつ終わるとも知れない魔物たちとの消耗戦で消耗されていく騎士たちの傷を

 お決まりの呪文を唱えて一人一人塞いでいった。

 一人、二人、三人、四人、飛んで二十三人、更に飛んで三十四番目。最後の最後に、兄はいた。

 どうせ次から次へとまた怪我人が運ばれてくるんだから最後の最後ってわけじゃないだろうど、

 今のところ兄マルチェロが最後の負傷者だった。

 見れば腕に牙の痕、ぽっかり空いた空洞を埋めるようにして血が湧いている。

 この人の不気味な強さからして、最前線にいたのだろう。

 不思議と兄でも傷付くことがあるのだと、そんな目で木の幹に背を預けている彼を見た。

 腕はきちんと止血のために縛っていたが、出血量が多いのか、

 はたまた痛みのためか、額には脂汗が滲んでいる。

 俺は兄のもとに跪いた。さくり、と雪が深まる音がした。

 手を伸ばす。

 「痛いですか?」

 傷に触れる。ぬるりとした感触。ぴくりとマルチェロが痛みに身体を強張らせた感覚。

 「痛いんだ」

 それは理解に苦しむ数学の方程式のようだった。

 これだけの傷なんだから痛いに決まってるという答えはわかっているけれど、

 どうしても兄と痛みは=では結べない。

 だって痛いことを痛いって分かってる人が、俺を嬲って楽しむはずないじゃないか。

 俺はぐっと力をこめて兄の傷口を握ってやった。

 「…っく」

 緑の眸が一瞬伏せられる。引き結ばれていたくちびるから濡れた声が漏れた。

 「なあ、痛いの?」

 俺の手を兄の生暖かい血が伝う。ぽたりと赤が雪に落ちた。

 はっとしてマルチェロの顔を見た。マルチェロは射抜くようにして俺を見ていた。

 彼は涙なんか全く浮かべてはいなかったけれど、俺はすごく後悔をした。

 代わりに俺が泣けてきた。

 「ごめん」

 そうだ、傷に触れたら痛い、痛いに決まってるじゃないか。

 「ごめん」

 せっかく止まり掛けていた血がまた出ちまうに決まってるじゃないか。

 「どうしよう」

 俺は傷から手を離した。でも、手を離したら、手当てができない。

 「どうしよう、兄貴」

 でも手を当てたら、痛いよな、痛いよな、兄貴。

 「俺、どうしたらいいんだよ、兄貴」

 俺、何もできねえよ。せめて痛いって云ってくれよ。

 「兄貴」

 俯いた俺の額が兄の胸に触れる。自ら回復呪文を唱える兄の声が耳を擽る。

 俺はそれからめちゃめちゃ泣いた。

 マルチェロは一度も痛いとは云わなかった。何も云わずに、また前線へと戻って行った。

 でも俺には分かった。漸く分かった。

 あの人の傷は深い。

 あの人の傷はあの人の身を焼き尽くすほどに痛みを訴えている。

 あの人にあんな痛みを与えたのは、俺なんだ。

 そうして雪が解ける頃、マルチェロは騎士団長になった。俺はひとつ上級の回復魔法を覚えた。

 それが痛みに歪む彼を癒せるわけじゃあないけれど。




Marcello*Kukule



 「煩いな」

 と団長が突然呟いたので、ククールは団長室の書架を整理していた手を止める。

 一言も発しはしていないし、今日はまだ本を落としてもいない。

 だが一応ククールは謝ることにした。

 「すみません」

 云うと、マルチェロは面倒くさそうに、けれど正しく指摘をしてきた。

 「お前ではない。雨音が、だ」

 「ああ。今日は止まないみたいですよ、大雨になるって」

 ククールは休めていた手を再び動かす。

 確かに、とククールは思い当たる。マルチェロがペンを走らせる心地良い音が聴こえない。雨が煩い。

 「早く止めばいいですね」

 返事がないのは、雨のせいで兄には声が届かなかったことにしておく。




Marcello*Kukule



 酒場帰りを散々に説教されて、漸く退室の許可が降りてほっと一息ついたところで、

 目の前に揺らぐことのない影。

 見上げるとその翠の砂漠に吸い込まれそうになる。不意に、

 「ついているぞ」

 くちびるが降ってきた。

 ぺろりと口の脇を舐められる感触。

 呆気に取られている間にマルチェロは顔を離して悠然と微笑した。

 「紅だ」

 ククールのくちびるの脇にはうっすらと口紅の痕。




Marcello*Kukule


 喘ぐ、その時折に、「もっと」

 ククールが赤らんだ目元で、「あ…もっと」

 しなやかな四肢を宙に彷徨わせながら、「あ…あ…もっと」

 マルチェロを求める。

 シーツに波立つ銀糸の微かな音色に耳を傾けながら、「お願い…もっと」

 もっと頂戴。

 その言葉に秘められた弟の想いがこうして繋がることではないと、それくらいマルチェロも知っている。





Marcello*Kukule


 「どんな女の子とするよりも、アンタとするのが好きだよ、マルチェロ。

 誰とするよりも、アンタとするのが一番気持ちいいんだ。

 好きな人とするのが一番気持ちいいって、聞いたことない?

 …ウソウソ、冗談だよ。

 そういう重い関係、俺が苦手なの知ってるでしょう、団長殿は。

 じゃあ俺、明日朝から訓練らしいんで、お暇します。どーせさぼるくせにって思ってるでしょう?」

 マルチェロが黙っていると、手早く衣服を纏ったククールは「当たり」とにやりと笑い、出て行った。

 “本当”の誤魔化し方はいつまで経っても子供のようだとマルチェロは閉まる扉から目を離す。




Marcello*Kukule


 彼は眠るときには一振りの剣を胸に抱いて眠る。

 それを云ったならば、彼は「私を殺しにやって来た奴らを斬るためだ」と答えた。

 だから俺は提案した。

 「そいじゃ俺を抱いて寝ればいい」

 一度くらいは盾になるよ。

 だが彼はすぐさま拒否した。

 「それでは奴らを殺せまい?」

 彼が欲するのは命の保障ではない。彼が望むのは搾取者の息の根を止めること。

 俺はそうだねと頷いた。俺では彼の望みを叶えられないことについてのみ頷いた。

 彼は眠るときには一振りの剣を胸に抱いて眠る。




Marcello*Kukule


 俺、知ってるんだぜ。

 「団長殿」

 「団長殿」

 「団長殿」

 どんなに重要な用件を話そうとしても、アンタは俺なんかいないって振りをする。

 でも俺、知ってるんだぜ?

 「あーにき」

 冗談半分の声で小さく呼んでみたときに限り、アンタは俺の存在に気付いてくれる。

 その心底うんざりした翠の目でね。




Marcello*Kukule


 ただの訓練だ。ただの訓練の先にあるただの剣術試合だ。

 騎士団長の切先が俺の喉許に突きつけられる。

 いっそ切り伏せてみたいという欲望に駆られたその翠の眼に、俺は限りない情欲を覚える。




Marcello*Kukule


 キスをし合うのは、この魂の一番どろどろしたどす黒いところを伝えるためだ。





             back or next